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2009年6 月11日 (木)

「弘仁私紀」序の解釈

古事記が偽書であると主張する大和岩雄氏は、「古事記成立考」(1975年、大和書房)において、古事記の編者は、「弘仁私紀」の作者、多神長らと推測する。他方、「弘仁私紀序」の筆者は別人の多氏一族だとする。ややこしいことである。
「弘仁私紀序」が示す年代に関して、筆者の解読結果は、大和岩雄氏の解釈と異なる点がある。それを紹介し、話の発端にしたい。

弘仁私紀序」には次のように書かれている。
但自神倭天武天皇庚申年、瀲尊第四男、狭野尊也、庚申、天皇生年、
至今然聖主嵯峨弘仁十年一千五百五十七(歳)、御宇五十二帝庶、・・・・略

大和氏は、神武誕生年を221年庚申の年としたうえで、次のような考えを述べている。
日本書紀は讖緯思想に基づく即位年をBC660年辛酉とする。誕生年は45歳甲寅の年の記載からBC711年庚午と推測する。それに対し、古事記は讖緯思想を捨て、当時の要求に合った庚申信仰に基づき、神武誕生年をBC721年庚申の年とした。」

素朴な疑問であるが、「弘仁私紀」序には、神武は52歳で即位したと記載されている。大和氏は127歳と137歳の差の目をつけ、BC721年庚申の年を誕生年とする。そうすると、即位はBC670年辛亥の年になるが、それでよいのだろうか?
何の説明もないが、こういうのを「いいっぱなし」という。(筆者の見解を最後に述べる)

「神武即位年は、庚申の年」の解釈も可能である
上記の「弘仁私紀」序の文面をよく読むと、「神武誕生年は庚申」と読めるが、全く別の解釈もできる。
「天皇生年」は(子供が生まれた、という意味の)誕生年を指してはいない。天皇の誕生の意味である。そうすると、「天皇即位が庚申の年」という意味になる。

「ニニギ暦697年のシンメトリック」の意味
日本書紀では神武即位年を辛酉の年と記載しているが、古事記には即位年に関する記載は何もない。日本書記から復元年代を得るにはニニギ暦を必要とする。ニニギ暦については「日本書記の年代解読における『1年』の疑問」(カテゴリ「記紀の謎」)で説明しているので見ていただきたい。
その原理は、「ニニギ暦697年のシンメトリック」の中央年を、ニニギ暦元年とする。ところが、中央年は、「神武暦660年庚申の年」と「神武暦661年辛酉の年」の2年あり、どちらかの年に決めなければならない。日本書記の解読では、「神武暦661年辛酉の年」をニニギ元年に設定した。神武即位年が辛酉の年と記載されているのを受けて、辛酉の年を重視したためである。
仮に、「神武暦660年庚申の年」を選び、日本書記の記載を1年前倒しすると、「神武即位年はBC661年庚申の年」となる。そのようなことが許されるかどうかは、別の問題である。
古事記の編者または弘仁私紀序の編者が、この「ニニギ暦697年のシンメトリック」を知っていて、日本書記の記載を無視し、敢えて庚申の年を選んだとすれば、可能なことになる。

弘仁私紀序の暗号解読
しかし、次のような否定される解読結果が得られている。
筆者の解読結果は次の通りである。
日本書紀に記載されたニニギ降臨の「百七十九万二千四百七十余歳」の暗号解読は日本書記を講義する多人長ならできるはずである。「一千五百五十七歳」の暗号は、同様の方法によって作成されたと仮定して、解読してみる。
一千五百五十七(1557)年は、頭の二桁を加算すると、657年となる。
嵯峨弘仁十年は、819年である。
819年から657年遡ると(引くと)、162年が得られるが、162年が神武即位の復元年代である。
別な解読では次のようになる。(実質は上記の解読と同じ。)
西暦819年は神武暦1479年である。上記の657年遡ると(引くと)、822年になるが、ニニギ降臨の暗号の解である822年と一致する。西暦に直せば162年である。
162年は、筆者が解読した古事記及び日本書紀の神武即位の復元年代に完全に一致する。
また「一千五百五十七歳」は「百七十九万二千四百七十余歳」と同様に、それ自体は意味のない数字に過ぎない。

弘仁私紀の86年の数字は、日本書紀の数字と一致する
冒頭で、BC721年庚申の年を誕生年とする。そうすると、即位はBC670年辛亥の年になるが、それでよいのだろうか?何の説明もないが、こういうのを「いいっぱなし」という。
筆者は次のように考える。
神武の誕生年を10年前に持ってきたのだから、神武の在位(年次)は86年になる。
86年は、日本書記の年代解読、特に神武の解読においてきわめて重要な数字である。
日本書紀では、神武東征開始の年、神武暦紀元前7年、BC667年甲寅に太歳干支が付与されている。一般には即位年に付与されるものであるから特異である。
また、神武崩御後に綏靖が天皇位に就くまで、3年の空位年が存在する。
東征7年、神武在位76年、空位年3年を加算すると、86年になり、上記の数字と一致する。弘仁私紀序は、86年の内容まで踏み込んでいないため、内容を無視すれば(即位に時期を無視すれば)、日本書紀と一致するということだけが残る

さて、大和氏の見解、筆者の解読結果は、ばらばらである。
辛酉と庚申は1年違いである。
おそらく、弘仁私記序の作者には、100年後の時代の変化により神武の属性を変える必要性が生まれたと考える。そのため、弘仁私記序において、古事記に欠落している誕生年や即位年や干支などの属性の情報、即ち、本来古事記が持っていた内容とは異なる属性の情報を示したのであろう。

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