古事記が偽書とすると、年代解読は有効か?
古事記は偽書であるという。これに関した論文は豊富にあり、見解も様々である。その一つに、古事記には「序」が存在するが、この「序」が後で書かれたものであるから「偽書」であると考える方がいれば、「序」は偽だが、古事記本文は違うと主張される方もいる。
筆者の見解は、「古事記序の暗号解読結果」に述べたとおり、偽書であるという感触を持っているが、数字のみに特化して解読を進めている筆者にとって、数字の部分のみから偽書と認定するのは難しい。その上、偽書だという学者の数字の扱いに、信用できない記述があり、その辺りも確かめないといけないが、気が乗らない作業である。
日本書紀の年代解読に成功したのは、日本書紀に記載された暗号がきっかけになっている。同じように古事記についても暗号によって年代解読が可能になった。現在では、日本書紀と古事記の間を行ったり、来たりして、復元年代の精度を高めようとしている。
従って、偽書だから駄目と考える必要がない。偽書にもいろいろな種類があるわけで、駄目なものは捨てればよい。古事記は駄目な書物なのであろうか。偽書説の学者の中には、「偽書といえども、古事記は捨ててしまうわけにはいかない。」という見解も見られるが、当然である。
「古事記は、日本書紀の解読書」という見方もできるし、日本書紀の講義に使用したようで「古事記は、日本書記の参考書]かも知れない。
筆者には古事記の成立過程についての調査ができていないから、解読書や参考書と断定できない。古事記の年代解読を通して何かが得られれば良いと思っている。
仮に、「古事記は、日本書紀の解読書」であったとしたら、捨てるどころか、教科書になってしまう。
記紀の復元年代の一致をどのようにみるか
正史といわれる「日本書紀」ですら、文面には多くの粉飾が見られ、年代は大幅に延長されている。
しかし、解読された復元年代は、数字のからくりを活用した、推理小説もかなわぬ奇抜なアイディアによって創作されている。
他方で、古事記は、日本書紀に比べれば僅かな数字を用いながらも、巧みな数字の扱いにより、復元年代を隠している。日本書記と古事記の復元年代は、ほぼ一致する。
古事記に関して述べれば、古事記の復元年代は正史といわれる日本書紀と一致するのである。
年代解読を行っている現代の多くの学者よりも優れた、より正しい年代を明示している。とすれば、古事記が偽書であろうとなかろうと、どちらでもよいことになる。古事記がいつの年代にできたとしても、全く問題にはならない。
「古事記から得られた復元年代は有効である。古事記の復元年代を否定することは、日本書紀の復元年代を否定することと同じことになるからである。」
注1)上記に、「日本書記と古事記の復元年代は、ほぼ一致する」と述べたが、神武から雄略までの間で復元年代が一致しないのは、成務崩御年(仲哀即位年)のみである。
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