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2009年6 月11日 (木)

古事記の5倍暦は、何を意味するか?

既に投稿済みの「古事記自前の復元年代は、5倍暦で解読できる」の続編である。
5倍暦を初めから否定する人には、記紀の年代解読などできるはずがない。5倍暦がどのような意味を持っているかは、遊び心を持って、馬鹿になったつもりで考えなければ答えは得られない。

古事記の編者は、日本書紀の編者が4倍暦を用いたことに対し5倍暦を採用した。
なぜ5倍にしたかは、日本書紀の4倍の数字より大きな数字になるからである。復元在位157年は古事記の編者も分かっていた。5倍にすることで、日本書紀に対し、157年分大きくできたのである。古事記における神武から崇神までの10人の御年(みとし)の合計は、前述したとおり786年である。日本書記は631年であり、その差は155年である。実際には、155年の年数を大きくとることができた。(2年食い違うが、意味はない。実質は1/4または1/5の数字に過ぎないので、勘違いしないように!)
古事記は、155年分の在位(御年)を10天皇に振り分ければ、天皇1人で15.5年分大きくできる。実際には、神武で61年、綏靖から孝昭まで約10年ずつ計43年、孝安21年、孝霊30年、開化3年で合計158年大きくなっている。

今までの解釈では古事記の137年と日本書紀の127年を比較して、古事記の方が日本書紀より10年大きくしたと解釈されるが、単純すぎる。古事記の御年137年は日本書記の127年より10年大きくしたのは「数字」としては確かである。しかし、古事記の御年は「歳」で表示されているが、意味(単位)としては「年」である。従って、厳密には127歳と137年とを比較することはナンセンスである。古事記の137年は、日本書記の在位76年と比較すべきで、在位を61年分大きくしたということを見誤ってはならない。
(61年には意味がないと思われるが、干支一周りの60年でないのは、「弘仁私記序」がいう通り干支が1つ移動することに関係するかも知れない。)

次に、神武の御年137年は5倍暦を解消すると、27.4年となる。間違いなく、神武の在位は27年あったのだ!
日本書記の記載内容を踏まえた神武の年次表を作成し、在位を求めるとき、127歳から100歳を引いた27歳を、年次表の神武27年次に崩御したと位置づけ、27を二倍暦と見做し、27の1/2の13.5年(≒14年)を神武の在位とする。この際、古事記は137年を元に、神武37年次に崩御したとして、同様に計算をすると、在位19年が得られる。多くの方の神武の復元在位が、14年か19年かで分かれるのはそのためである。
ところが、5倍暦は、27.4年(≒27年)という年数を示す。古事記も日本書記と同じに、神武27年次に崩御したことを示唆する。古事記の神武在位は、日本書紀と同じ、14年で正しいのである。
以上が、5倍暦から分かったことである。

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