記紀編者は天文博士・暦博士や陰陽師
森博達氏は、その著「日本書紀の謎を解く」(1999)で日本書紀の成立過程を明らかにし、併せて各巻の著述者を推定した。
「天武天皇は、天武十年(西暦681年)川島皇子以下12名に詔して「帝紀」と「上古諸事」を作らせた。これが日本書記の撰上に結実する修史事業の始まりであった。西暦690年頃から日本書紀の編纂が開始され、続守言、薩弘格らによって、雄略から天智天皇までが述作された。西暦700年頃から山田史御方が加わり神代から允恭までを述作し、710年までにはほぼ書き終えている。その後、持統紀の追加記述がなされ、720年に日本書紀が撰上された。」
筆者は上記の内容を参考にしながら、国史編纂事業に参加した多くの無名のメンバーに想いをめぐらす。名前の知られた続守言、薩弘格は唐人で音博士である。山田史御方は学問僧の出身で、新羅への留学経験もある。仏典に知識をもつ学士であった。いずれも文人である。
筆者はメンバーの中に文人ではない、理系?の人物がいたと想定するのである。彼等は、天文博士や暦博士であり、陰陽師である。彼等(以下、編者という。)は、この編纂事業の初期においては暦の知識や数学の知識を基に年代の構築や文人の述作した個々の記事の年月日等の確定を担当した。天文や暦を扱うことから自然に身についた客観性を有し、自然法則の重要性を認識し、文人とは異なる感性を持ちあわせている。数字や干支の取り扱いは抜群で、緻密である。他方、数字や干支に対する執着はとてつもなく強く、あたかもある種の遊び心とも思えるおおらかな感情をも有しているのである。
筆者は、記紀の編者をそんな風に思いながら、記紀に記載された数字のみを対象として年代復元を行っている。そのお陰か、編者の考えたことが幾つかが判明してきた。
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