古事記の年代解読における「1年」の疑問
筆者は古事記に記載された御年の数字をもとに年代を解読しようとしている。また古事記には、弘仁私紀「序」との関係も見ていかなければならない。
古事記自体には、御年をはじめ、月日や治天下年数の数字があるが約60のデータがあるに過ぎない。そこから読み取れることには限界がある。
それでもかなり正確に復元年代の解読ができてきたと考えるが、疑問が一つある。謎といってもよい。
筆者の記事を読まれる方なら、知ってもらった方がよいのではないかと思い、敢えて述べることにした。
疑問を具体的に述べれば、「日本書紀の年代解読のために設定したニニギ暦の紀元は、神武暦661年辛酉の年(西暦元年)であるが、そのまま古事記に適用できるか? 」である。
言い換えれば、古事記のニニギ元年は神武暦660年庚申の年(西暦BC1年)かも知れないし、神武暦662年壬戌の年(西暦2年)かも知れないのである。
当初から、古事記の数字をいろいろと展開する中で、「1年」の食い違いが生じることがある。
例えば、「表51 神武紀元前紀の記紀比較」を見ていただきたい。
この表は、日本書紀と古事記の関係を見ている。古事記の年代については、記述を基に日本書紀の神武の年代に移行させている。言い換えれば、表に書かれた古事記の年代は、シンメトリックを利用したもので、実の年代に対し、虚の年代を示している。
ここで問題なのは、日本書紀の「ニニギ降臨の暗号179万2470余歳」の解読結果、前822年に対し、前821年という1年違いの年代が見られることである。いずれの数字も虚の数字である。
シンメトリックとして反転させると、日本書紀の822年(辛酉)に対し、古事記は821年(庚申)となりと即位年が1年異なる。
その原因は、いろいろ考えられる。単純に考えれば、シンメトリックを用いて紀元を求めることに意味があるのか、ということである。
次に考えられることは、137年の意味をニニギ降臨の年代を、誕生と読み替え、年齢を計算するような計算方法が間違いであり、古事記の御年137歳は、神武誕生の前に137年間が存在すると解釈すればよいのかもしれない。
結局のところよく分らないので、「1年」の食い違いの疑いは解消しないのである。
以上に述べたように、解釈次第で無視することもできるし、さらにこの「1年」を認めると、他の結果と齟齬を来す面もある。筆者の設定に何か問題があるのか、気にはなったが、古事記の年代解読結果から見て、「古事記の年代の紀元は、日本書記と同じに考えてよい。」とした。即ち、「古事記と日本書紀の年代解読のために設定したニニギ暦の紀元は、神武暦661年辛酉の年(西暦元年)であるが、古事記の年代にも適用される。」としている。
疑問を持ち始めたのは、弘仁私紀序を見てからである。序には神武の誕生は庚申と読める内容が記載されているからである。しかし、現時点では、古事記に対する疑いというよりは、弘仁私紀序により強い疑いを持っている。
筆者は古事記の偽書説に関しては興味がない。偽書ではないと言っているのではなく、どっちでも構わないと考えているからである。
古事記の年代は、暗号でできている。また、鳥越憲三郎氏は、「古事記と弘仁私紀序の両書は同じ編者の作かも知れない」と述べている。とすれば、弘仁私紀序も古事記と同様に暗号を用いていると考えられる。解読してみると、記載された見掛けの内容と異なる結果も得られている。その中には、筆者の古事記に対する考えと同じ結果も見られる。解読結果の一部は既にカテゴリ[偽書と弘仁私紀」に投稿済みであるが、結論はまだ纏まっていない。
弘仁私紀序を読むと、日本書紀に対する解釈自体が、100年後には変わったという印象を受ける。あるいは、古事記本文の解釈に対しても同様に変わったのか、それとも弘仁私紀の作者が古事記を書いたとすれば、・・・・。
弘仁私紀序の記述だけでなく、他にも解釈が異なるものがあるようだ。
北畠親房が編纂した「神皇正統紀」(1339年)には、「神武は五十一にて辛酉の年に皇位についた。」と記される。
追記
「日本書記の年代解読における『1年』の疑問」を読まれると、参考になると思う。
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