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2009年8 月13日 (木)

武内宿禰とその一族、平群木菟宿禰

武内宿禰(たけうちのすくね)は 、日本書記の記載では、景行天皇25年(95年)~ 仁徳天皇50年(362年)に登場する。この期間だけ見ると267年となり、年齢を想定すると290歳くらいになってしまう。期間が長いだけに、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代の天皇に仕えたことになる。
日本書記の年代は大幅に延長されているから、こういうケースもあるかと思われるが、復元年代に照らし確認してみる。

武内宿禰は、成務天皇と同じ日に生まれたと記載されているから、成務天皇の誕生年335年である。
先ず、景行25年の記事について考えてみる。
武内宿禰は景行25年に、景行天皇の命により、東国を視察する。復元では、景行の在位は21年であり、景行25年は存在しない。景行25歳のときと仮定すると、339年となる。
成務天皇の誕生年と同年の335年に武内宿禰が誕生したとすると、武内宿禰は、339年に5歳で東国視察に出たことになり、東国視察はあり得ないことである。

武内宿禰の東国視察は作り話
武内宿禰は、景行25年次に東国視察に出るが、日本武尊が東征するのは40年次である。その間15年もあるが、復元では、景行25年次は339年で5歳、景行40年次は344年で10歳である。5年の差がある。
武内宿禰の東方視察は、誕生年と日本武尊の東征出発年の中間に設定されたものである。従って、東方視察の年339年を5年(4年)遡れば、成務誕生年335年となる。
東方視察の記事の内容自体と年代は、日本武尊の東征の状況説明のための創作である。
以上より、「武内宿禰は、成務天皇の誕生年と同年の335年に誕生した」との記事を信じ、「東国視察」の記事は創作とする。

武内宿禰は三韓征伐の指揮を執る
武内宿禰は、成務3年次、361年に大臣(おおおみ)になった。27歳の時のことである。
仲哀9年、362年の三韓征伐の記事は、年代を30年前倒ししたもので、実際には応神3年次、392年の出来事であり、武内宿禰は58歳である。応神3年次の記載年代は372年であるが、120年ずれがあり、実際には392年となる。
紀角宿禰(きのつののすくね)、羽田矢代宿禰、蘇我石川宿禰、平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)らが数万の軍勢を引き連れ、半島に攻め込んだ。上記の人物たちは、武内宿禰の息子達であり、武内宿禰が指揮をとったのであろう。

「広開土王碑」に記された辛卯年の戦い

武内宿禰とその一族が半島に攻め込んだこの戦いは、記紀においては「三韓征伐あるいは新羅征討(古事記)」といわれるが、高句麗の国王・広開土王(好太王)の功績を叙述した石碑「広開土王碑」に記載された戦いでもある。武内宿禰の戦いの相手は広開土王(好太王)であった。
「広開土王碑」には、次のように書かれている。
百殘新羅舊是屬民由来朝貢而倭以耒卯年来渡[海]破百殘■■新羅以爲臣民
意味は、「新羅・百済は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、辛卯年(391年)に、倭が海を渡って新羅や百済などを(倭の)臣民とした。」である。

「汝こそは国の長人(ながひと)」
武内宿禰が日本書記に最後に登場するのは、仁徳50年である。仁徳は、即位406年、崩御427年であり、在位は22年になる。仁徳即位を406年とし、仁徳50年を比例計算で割り出すと、仁徳50年は418年となる。
武内宿禰は、335年に誕生し、418年には84歳となり、84 +α歳で亡くなったことになる。
仁徳50年次の記事において、「汝こそは世の遠人(とおひと) 汝こそは国の長人(ながひと)」と、長寿であったと記されているのだから、84歳もあり得ないことではない。

なお、高齢であったことは間違いがないが、仁徳時代の武内宿禰は、過去の出来事の証言者としての登場であり、仁徳50年次の記事が「茨田堤に、雁産めり」という内容であり、年代との関係はなさそうである。茨田堤の築造は仁徳11年次であり409年に相当する。多少サバを読んでいる可能性があるが、それでも80歳位まで長生きしたと思われる。

「月日の暗号」解読結果は、80歳
こういう場合の最後の確認手段として、「月日の暗号」を解読してみる。
仁徳50年次およびその前後の月日は次のように記載されている。
仁徳43年次:9月1日→9+1=10→十
仁徳50年次:3月5日→3+5=8→八
仁徳53年次:5月、仁徳58年次:5月→5+5=10→十
解読結果は、八十(80)となる。
どうやら、編者は「武内宿禰は、80歳まで長生きした人」と考えていたらしい。

武内宿禰の息子に平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)がいる。仁徳元年の記載では、
仁徳天皇と平群木菟宿禰の誕生日は同じ日であったという。武内宿禰と成務天皇の誕生日も同じだったというから、偶然というには出来過ぎている。仁徳誕生の復元年代は381年とみているから、武内宿禰47歳のときに生まれたことになる。疑問の残る年令である。
神功紀の復元では、392年に、父親に従い、兄弟と共に三韓征伐に参加した。仁徳誕生の復元年代は381年とみているから、木菟宿禰は392年には11歳ということになる。武内宿禰の子たちの名を連ねて記載することに意味があったのかも知れない。
また、木菟宿禰は、応神16年に精兵を引き連れ、加羅に行き、新羅を攻めている。400年初頭の頃に当たり、404年とすれば24歳である。

日本書記の記載では、同じような事柄を2度記載する傾向がある。なんらかの意味を持っているのであろう。その典型は、雄略記であり、2度同じようなことを記載した記事が数多くみられる。天皇と同じに日に生まれたという記事もその類であろう。
平群木菟宿禰の記事は、武内宿禰の年齢の裏付けとなるかと思ったが、役に立ちそうもない。仮に筆者の年代と年齢の読みが間違えていたとすると、仁徳の崩御年令を47歳ではなく、例えば57歳に変えれば武内宿禰と木菟宿禰の年齢の関係は改善されるが、応神天皇と仁徳天皇の関係は成立しなくなる。平群木菟宿禰に関しては、新たなことが分るまでは、お預けにしておきたい。

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