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2009年10 月13日 (火)

仮説:記紀における雄略天皇崩御年の復元年代を考える

日本書紀の記載年代と復元年代が一致するのは、雄略崩御479年である。
(ただし、雄略以降の記載年代が正しいかどうかは別である。)雄略天皇以前の年代は、徐々に年代が延長されていく。
それに対し、古事記の記載年代と復元年代が一致するのは、神武誕生137年、崇神崩御318年、仁徳崩御427年、履中崩御432年であり、その他の天皇の年代は一致していない。
雄略天皇崩御489年は正しい復元年代とはいえない。10年の狂いがあると見做している。
なぜ古事記の記載年代が、復元年代に一致したり食い違ったりしているのかには理由がある。

古事記の記載年代が、復元年代に一致したり食い違ったりする理由

古事記は、日本書紀と同様に正しい復元年代を「御年や月日や治天下年数」に隠した。また、古事記は実年を基本に書かれた書物であり、年代を延長していないため、正しい年代を記載するのは容易であった。しかし、日本書紀と共通の考え方をもっていた。神功皇后の設定であり、新羅征討に関する記載である。このため、垂仁から応神までの記載年代を記載年代を日本書記の年代と連動させる形で創作した。垂仁から応神まで正しい年代と一致しない理由である。
さらに、反正天皇以降、雄略天皇までの記載年代が復元年代に一致しないのは、恐らく中国への朝貢を書きたくなかったのであろう。これについても日本書記と同じ考え方である。

古事記が、雄略天皇の崩御を10年下った年代に設定したのは、日本書紀の479年に多少の疑問をもっていたのかも知れない。古事記の解読では479年と485年が読み取れるからである。
現在、筆者の解読は雄略天皇までで、顕宗天皇以降は課題としている。従って上記の485年に対する見解は保留したい。その前に、雄略崩御489年について以下に述べることとする。

古事記の編者は、日本書記と同じ年代を表示することを嫌った。日本書記の479年という数字を避けた結果といえる。日本書記の編者に対する対抗意識である。
489という数字が479という数字よりも、吉・凶を比較し、より良い数字であると判断した可能性もある。

シンメトリックの観点から見た489年の意味
筆者は、年代のシンメトリックを重視している。
「表112 古事記の河内王朝と日本書紀の葛城王朝のシンメトリック」を見ていただきたい。
併せて、「表112-1 古事記の記載年代と中国史書における朝貢の比較」を上記表に載せている。

表112 古事記の河内王朝と日本書紀の葛城王朝のシンメトリック

ここでは年代の一部を取り出しているので、「シンメトリック」と言っても、「類似性」や「歴史の繰り返し」を指す。
古事記の記載年代と中国史書の比較は、古事記が朝貢を考慮したことが伺える。また、古事記の489年は、日本書紀の479年を意識したと同時に武の最後の朝貢479年を考慮して10年を加算したのかもしれない。
10年加算すると、日本書記の葛城王朝の復元年代(古事記の葛城王朝の復元年代でもある)と類似した年代構成になり、それは「歴史の繰り返し」を表しているのである

ついでに言えば、489年は古事記編者の創作であり、正しい復元年代と見る必要はない。
上記の仮説は、少し考えれば思いつく常識的な仮説である。
古事記の編者が延長した10年の中には何があったのだろうか。
日本書記は、487年を顕宗天皇の崩御の年とする。古事記は顕宗天皇の治天下(在位)の年数を8年とする。仮に487年が正しい復元年代であるとすれば、そして、古事記には清寧天皇の御年や月日や治天下年数」などの数字の記載はない。古事記の顕宗天皇の在位8年が正しいとすれば、清寧天皇の在位はないことになる。これも仮説であり、これからの検討課題である。

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