なぜ、編者はシンメトリックを多用したか
記紀に対する学者の大半の方が、「記紀には当時、勢いのあった陰陽道の影響が見られる」と主張されている。編者は陰陽道を身につけた人々であると主張している筆者にとって異論があるはずがない。
ところで、記紀のどこに陰陽道の影響が現れているのだろうか。天武天皇が陰陽道に凝っていたというのは分かるが、記紀と天武天皇をごっちゃにしていないだろうか。
せめて、陰陽道が数字に表れているくらいは言ってもらいたいところである。
さて、陰陽は、表と裏である。延長した年代を表とすれば裏は復元される実年代である。しかし、このことが、陰陽道の影響を受けたことであるとするのも変である。
陰陽師は、陰陽を万物に当てはめ、事柄の吉凶や是非を判断し、人々に伝えた。それには種々の占術が必要であった。時、事柄に応じて最適の占法を用いた。人々はそれらを占術や占法という。筆者が述べたいことは占法ではなく、技法と理解できるところである。
編者は記紀編纂において、神武以下三十三代あるいは四十一代の天皇の物語を作成するに当たり、一つの重要な技法を用いた。それが対称(シンメトリックあるいはシンメトリー)である。表・裏だけでなく、左・右、上・下、前・後、全て陰と陽の対称である。特に日本書記は多くのシンメトリックで構成されている。シンメトリックは重なり合っている。物語の始めから終りまでシンメトリックである。
シンメトリックには中央、左端(上端)、右端(下端)の重要な基準点(年)がある。編者はそれらの基準点(年)に天皇の即位、崩御を当てた。シンメトリックの左端(上端)で示された在位は右端(下端)の在位と対称(同じ在位年数)である。
上記のシンメトリック記述は記紀の年代の表と裏を区別しないで一般論として述べたものである。言い方を変えれば、表である記紀に記載された年代には表のシンメトリックがあり、裏である実の年代には裏のシンメトリックが存在するはずである。
日本書紀の表(記載上)の年代構成は、「37の倍数のシンメトリック」で完全に説明ができる。編者は年代の構築に「37の倍数」を活用したのである。
裏(復元年代)おいてもシンメトリックが存在する。代表的なものに、「神武時代の14年と34年のシンメトリック」が存在する。
とすれば、表と裏のシンメトリックはどのように結びついているのか、その関係については興味が尽きないところであるが、現段階では復元年代が完成していないため、課題であるとしかいえない。
編者は、なぜシンメトリックにこだわりを持ったのか
シンメトリックを直訳すれば『対称』ということである。日本書記の年代の構成には多くのシンメトリックが存在している。約1300年を、シンメトリックの技法を用いて安定感のある年代構成に作り上げた。このような解釈は『対称』と結びつけられる。しかし、それだけでは単純すぎる解釈である。
讖緯思想というのがある。60年の21回目の1260年後辛酉の年に大革命が起きる。60年目、120年目、240年目、360年目、420年目の辛酉の年には天変地異や小革命が起きるという。「歴史は繰り返す」という思想である。
編者は、延長した歴史を創作しなければならなかった。伝承などを活かそうとしたかもしれないが、年代は分らない。上記の讖緯思想に見られる60年刻みの数字は固定された数字であり、編者にとっては役に立たない数字である。頼れるのは、『歴史は繰り返す』という考えであり、それを可能にする技法が、シンメトリックの技法であり、編者自らが想定した年数をシンメトリックとして表すことができたのである。
シンメトリックは、ある基準となる点(年代)を境に対称となることを指す。
数字で説明する方が分かりやすいかも知れない。例えば、数字が1、2、3、4、4、3、2、1と並べば、4と4の間が基準になり、シンメトリックである。
ところが、数字が1、2、3、4、1、2、3、4、と並べば、繰り返しであり、シンメトリックとは呼ばない。しかし、1~4をAに置き換えれば、AAとなり、AとAの間が基準になり、シンメトリックである。即ち、編者にとっては、順行も逆行も同類なのである。
18という数字は、順に読めば18であるが、逆に読めば81である。編者は極めて関係の強い数字として捉える。
筆者は記紀の解読を始めた最初から「シンメトリック」を年代解読の一手段として活用してきた。「対称」という考えが中心にあったが、現在では「繰り返す」とか「反復」という考えを加えた意味で用いている。
表題の「なぜ、編者はシンメトリックを多用したのか」は、「編者は、『歴史は繰り返す』、と考えていた」からである。
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