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2009年6 月14日 (日)

讖緯思想(辛酉革命説など)に関する一考察

三善清行(847~919)は陰陽天文に明るく、文章博士・大学頭である。
著作の「革命勘文」(901年)において、中国史書「易緯」を引用し、日本書紀が讖緯思想に基づいていることを示し、併せて901年が辛酉の年であることを指摘し、年号を「延喜」と改元させた。讖緯思想に基づく改元は明治になるまで続いた。
明治になって、那珂通世が没年干支を精査し、「辛酉革命説」に基づき記紀の紀年を明らかにした。
それでは、讖緯思想とはどんなものであろうか。
「讖緯」とは予言のことであり、同時に予言について書かれた書物を指す。書物は禁圧され散逸し、僅かに易経の緯書(預言書)である「易緯」などの一部が残るだけである。
三善清行が「革命勘文」に取り上げた「易緯」の内容(抜粋)は次の通りである。
辛酉為革命、甲子為革命、鄭玄曰、天道不遠、三五而反、六甲為一元、四六二六交相乗、七元有三変、二十一元為一蔀、合千三百二十年・・・・
辛酉の年は(天命が改まる、あるいは王朝が交代する)革命の年である。干支の十干が6回り、即ち60年を一元とし、二十一元に相当する1320年ごとに天命が下る。」と予言する。

「易緯」に記載の1320年については、いろいろな解釈がある。
神武即位年の基準となる年について、三善清行は1320年を前提に、斉明天皇7年(661年)を基準年とした。
那珂通世は、推古天皇9年(601年)を基準年とし、1260年前のBC660年に神武天皇が即位したという説を立て、この説が通説になっている。
筆者は、ニニギ暦を発見した。ニニギ暦(西暦)元年をシンメトリックの基準年にすると、一方のシンメトリックの先は、神武即位年はニニギ暦前660年(西暦前660年)であり、他方のシンメトリックの先はニニギ暦661年(西暦661年)を指すことから、斉明天皇7年がニニギ暦元年と共に神武即位年を定める基準年になっていると考える。三善清行の考えと比べると、年代は一致する。しかし、筆者の考えには、讖緯思想は全く関係しない。
注1) 筆者は、浅学なためニニギ暦を発見したとき時点で三善清行の1320年説を知らなかった。このため1320年(660年)を「記紀編纂直近の辛酉の年」と位置づけた。
上記の「易緯」の解釈についても、特に1320年になる理由が理解できない。

次に、記紀の編者は讖緯思想(辛酉革命など)をどのように受け止めていたか、考えてみる。中国においては、讖緯思想が王朝を脅かす危険思想であるとされ、讖緯思想に関わる書物が禁書として扱われたとされている。中国では「思想」レベルで捉えられていたのかもしれない。それでは、記紀の編者も同様に、思想レベルで捉えていたのだろうか。筆者は、記紀の編者は、上記の讖緯思想に関する知識は十分持っていたが、思想としてではなく、「辛酉革命」や「甲子革令」というようなより具体的な考え方として捉えていたと考える。まして、予言らしい記載は全くないのであるから「日本書紀は讖緯思想によって書かれた予言書である」は間違いである。

「日本書紀は讖緯思想によって書かれた」という点について記載内容をチェックする。
編者は、「既存の王朝が滅び、新しい王朝が生まれる」と考えたからこそ、神武即位年を辛酉の年に選定した。
1260年目を基準年とした場合には、推古9年(601年)に斑鳩に宮を建てたこと、推古12年甲子(604年)の年に十七条の憲法を作ったことなどの記事がある。
編者は、神武即位年と推古9年に「辛酉革命」を、推古12年に「甲子革令」を適用させただけである。従って、「日本書紀は讖緯思想によって書かれた」という解釈は間違いである。
1320年目の斉明天皇7年(661年)は、斉明7年は天皇の崩御の年であり、基準年としては疑わしい。

さらに、別の観点でみることにする。
日本書紀の表の世界では、神武即位年を辛酉の年に選定した。これは、上記の「易緯」の天命が下る大革命の部分の解釈である。「易緯」の次の文面には「六甲為一元」「四六二六交相乗」「七元有三変」とあり、天変地異や小革命が起きる時期を示唆している。60年目の辛酉の年、120年目、240年目、360年目、420年目の辛酉の年である。
神武即位年を除けば、辛酉の年は避けなければならない要注意の年である。日本書紀の記載も目立たない内容になっている。「神武即位が辛酉だから」を理由に、「辛酉の年はすばらしい年である」などと解釈を間違えてはならない。

讖緯思想と根底で結びつくものに陰陽道があるが、陰陽道においても辛酉の年は陰の重なる不吉な、危険な年である。日本書紀の裏の世界、編者にとっては実の世界では、神武、崇神の即位年を辛酉に当たらない、162年(壬寅)、302年(壬戌)とした。重要なのは、辛酉の年を外し、年代の数字も陰陽道による数字(陽の極値)を選択した。基本は陰陽道である。

また、日本書紀の編者らは「37の倍数」を重視して、年代構成を行った。
詳細は、「日本書紀の37の倍数のシンメトリック」を見ていただきたい。
以上の説明したとおり、編者は、神武と推古において、「辛酉革命」と「甲子革令」を取り上げたが、「出来事(事例)」のレベルである。それなのに後世の歴史家は、編者が「讖緯思想」に基づいて編纂をしたと、「思想」レベルに格上げしてしまった。

2009年6 月13日 (土)

記紀編者の讖緯思想(予言思想)

編者と讖緯思想との関係について述べてみる。

1)讖緯思想とはその表現が示すように、未来に対する予言あるいは予言書を指すが、日本書紀がそのような[予言の思想」によって書かれたとはいえない。

易経に記された「辛酉革命」や「甲子革令」の考え方を思想とする考え方もあるかも知れないが、記紀の編者が取り入れたものは思想ではない。

2)編者らは、易経に記された「辛酉革命」や「甲子革令」の事例を取り込んだだけである。

神武即位年BC660年を基準年とした場合、1260年後の辛酉の年は推古9(601)となる。推古9年辛酉の年(601)には斑鳩に宮を建てた記事、推古12年甲子の年(604年)には十七条の憲法を作った記事があるが、それらの記事が「辛酉革命」や「甲子革令」に関係する記事である。

3)編者らは、「辛酉革命」や「甲子革令」とは別に、「37」という数字を重視し、神武即位年を決定し、年代構成に用いたと考える。

天武元年(672年)を基準年とし、3737倍である1369年を遡ったBC697年を歴史の始めの年とした。1369年の歴史の年代構成は37年の倍数に合わせたのである。例えば、3737倍の1369年遡った年を神武前紀37年の神武立太子年(BC697年)とし、歴史の始まりとした。また、3736倍である1132年を遡るとBC660年となり、この年を神武即位年と設定したのである。

「讖緯思想」(「辛酉革命」や「甲子革令」など)は、年代構成に全く役に立たず、というより、周期的に訪れる辛酉の年を避けなければならず、年代構成には弊害が多すぎるのである。従って、年代構成は、「37の倍数」によって行ったのである。

4)繰り返しになるが、「37の倍数」により神武即位年をBC660年に設定できるが、それだけでは神武即位年に重みがない。神武即位年という重要な年代を「辛酉革命」と結びつけた。その結果、「甲子革令」が活きてきて、推古12年甲子の年(604年)を十七条の憲法の制定の年とした、と考えられる。

穿った見方をすると、十七条の憲法の制定の年は作為的な年代かもしれない。十七条の憲法は創作であるという見解があるようだが、そうだとすれば、推古12年甲子の年(604年)を制定の年としたのはなぜなのか。上記に述べたとおり、「辛酉革命」と結びつけたためであり、年代の一致を偶然と片づけてはならない。「記事が創作であるとすれば、年代は『辛酉革命』と結びつけた創作である。」