記紀編者の讖緯思想(予言思想)
編者と讖緯思想との関係について述べてみる。
1)讖緯思想とはその表現が示すように、未来に対する予言あるいは予言書を指すが、日本書紀がそのような[予言の思想」によって書かれたとはいえない。
易経に記された「辛酉革命」や「甲子革令」の考え方を思想とする考え方もあるかも知れないが、記紀の編者が取り入れたものは思想ではない。
2)編者らは、易経に記された「辛酉革命」や「甲子革令」の事例を取り込んだだけである。
神武即位年BC660年を基準年とした場合、1260年後の辛酉の年は推古9年(601年)となる。推古9年辛酉の年(601年)には斑鳩に宮を建てた記事、推古12年甲子の年(604年)には十七条の憲法を作った記事があるが、それらの記事が「辛酉革命」や「甲子革令」に関係する記事である。
3)編者らは、「辛酉革命」や「甲子革令」とは別に、「37」という数字を重視し、神武即位年を決定し、年代構成に用いたと考える。
天武元年(672年)を基準年とし、37の37倍である1369年を遡ったBC697年を歴史の始めの年とした。1369年の歴史の年代構成は37年の倍数に合わせたのである。例えば、37の37倍の1369年遡った年を神武前紀37年の神武立太子年(BC697年)とし、歴史の始まりとした。また、37の36倍である1132年を遡るとBC660年となり、この年を神武即位年と設定したのである。
「讖緯思想」(「辛酉革命」や「甲子革令」など)は、年代構成に全く役に立たず、というより、周期的に訪れる辛酉の年を避けなければならず、年代構成には弊害が多すぎるのである。従って、年代構成は、「37の倍数」によって行ったのである。
4)繰り返しになるが、「37の倍数」により神武即位年をBC660年に設定できるが、それだけでは神武即位年に重みがない。神武即位年という重要な年代を「辛酉革命」と結びつけた。その結果、「甲子革令」が活きてきて、推古12年甲子の年(604年)を十七条の憲法の制定の年とした、と考えられる。
穿った見方をすると、十七条の憲法の制定の年は作為的な年代かもしれない。十七条の憲法は創作であるという見解があるようだが、そうだとすれば、推古12年甲子の年(604年)を制定の年としたのはなぜなのか。上記に述べたとおり、「辛酉革命」と結びつけたためであり、年代の一致を偶然と片づけてはならない。「記事が創作であるとすれば、年代は『辛酉革命』と結びつけた創作である。」
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