Google
 

2009年8 月 6日 (木)

日本書記の「神武の時代」を推理する

日本書記の年代を復元しようとすると、推理をしなければならいことが多々ある。
そのうちに、日本書紀自体が推理小説ではないかと思うこともある。それも下手な推理小説家では真似すら出来そうもない素晴らしい内容を持っている。そのような事例を紹介しようと思う。といっても、これから小説を書くわけではない。日本書紀の編者が創作した推理小説のポイントを述べるだけである。
参照「表12-1 神武~崇神復元年代の詳細」

表12-1 神武~崇神復元年代の詳細

追記(2009/10/29)
参照として添付した「表12-1 神武~崇神復元年代の詳細」は、新しい情報を加え、さらに整理されてきた。基本的な内容は全く変わっていないが、以下の説明では分りにくくなっている。
また、記事を読むと、筆者の年代復元における苦労話になってしまっている。本来述べなければならないことがおろそかになっている。次の投稿記事を読んでいただきたい。
綏靖、安寧、懿徳の各天皇の崩御年は同じ年」(カテゴリ「記紀のからくり」)

神武天皇在位14年のシンメトリック」(カテゴリ「シンメトリック」)
神武天皇と懿徳天皇の34年のシンメトリック」(カテゴリ「シンメトリック」)

1)神武天皇が崩御して、皇子の綏靖が天皇になるのだが、綏靖即位まで3年の空位期間がある。よくあることだが、皇子の間で跡目争いがあったのだ。
復元年代として神武崩御年が決まると、次は綏靖が即位するのだが、「綏靖は神武42年次に立太子となり、このとき(計算上)14歳であった。」を基に、綏靖の誕生年が分る。綏靖誕生は、神武29年次(神武実27歳)である。
神武が崩御した神武76年次(神武実51歳)には、綏靖は48歳(実24歳)になっている。3年の空位期間があって即位するから、綏靖は52歳で即位したことになる。
あれ! 綏靖も神武と同じ52歳(実26歳)で即位したのか、と思わせる。何となく解読が正しそうな感じがしてくる。

2)実際には、神武76年次(神武実51歳)や綏靖48年次(綏靖実24歳)は年代延長による架空の年次である。神武が実際に崩御した神武52年次(神武実39歳)まで年代を遡って見ると、綏靖24年次に相当し、実12歳である。空位3年があるとすると、綏靖は177年に実14歳で即位したことになる。どうやら正解にたどり着いたようだ。

3)ところが、筆者は面倒なことは嫌だから、合成年次表の作成において、綏靖の誕生年を直接、空位3年分ずらして表を作成した。
その結果、綏靖は、神武76年次には綏靖45年次(23歳)になり、神武79年次に綏靖48年次(24歳)になる。3年分ずらしたのだから当然のことである。175年の神武崩御のときは綏靖実11歳、177年には綏靖実13歳で即位したことになる。
一体、どっちが正しいのだろうか。13歳でも14歳でもどっちでもいいじゃないか、と思いたくなる。
どちらの場合も、即位の前に空位3年を入れたつもりでいたが、違うようだ。同じ3年ずらしたつもりが、年次表の年代は2倍暦を基本にしているから、1.5年分しかずらしていないのであり、0.5年の食い違いが1歳の違いとして表れるのだ。

4)前述の1)において、綏靖誕生は、神武29年次(実27歳)であると述べた。上記の2)も、綏靖誕生が、神武29年次(実27歳)になっている。上記の3)は、綏靖誕生が、神武32年次(実29歳)になっている。文章で書くと長ったらしくなるから、それぞれの年次のときの年令を( )内に記した。これでお分かりいただけただろうか。
綏靖誕生は、神武29年次ではなく、神武実年齢29歳のときであった。」要するに[年次]から[年齢]への変換が必要だったのである。
合成年次表のチェック次項として見た場合、[神武29-綏靖誕生]であって、「29年次とか29歳というように、単位をつけてはいけないのである。」これが、年代解読のポイントである。

解読手段としての合成年次表の威力
在位や年齢および年代の解読手段として合成年次表は、威力を見せ付けてくれ、綏靖の解読に大きな役割を果たした。
前述した投稿記事は、年代の復元に関する貴重な情報で与えてくれるので、お読みいただきたい。
また、合成年次表は、以上の他にも面白いことを教えてくれる。

5)安寧の即位は、安寧29年次(実15歳)である。綏靖の崩御181年と同年になるため、元年は182年である。
さて、安寧29年次から、安寧の実29歳は何があるのだろうか。日本書紀には安寧の宝算が57歳と記載されている。年次表上で計算される宝算は67年で10年異なり、57歳という記載は間違いである。しかし、57歳が意味をもっていたとしたらどうだろうか。
57歳の記載は、綏靖、安寧、懿徳の3天皇の崩御年を同じにするために必要だった」のである。
神武の時代が終わる195年以降にどのような数字があったとしても全く意味のない数字である。「編者は、それを承知の上で安寧の宝算をわざと間違えた振りして記載した。」仮に、この宝算の改変を編者以外の人物が行ったとしたら、編者が考えた「からくり」を1年と狂いなく知っていたことになる。

安易に、「編者が間違った」としてはならない
「編者が間違いをした」と指摘する学者がよくおられるが、上記のような結果を想定すれば、間違いを犯したのは編者ではない。訳も分らず改変するのは、許されない。
また、綏靖の場合の195年の年次は48年であった。記載された宝算は84歳である。逆数を用いただけなのだ!しかし、安寧の場合と同様に、195年に33歳で崩御されることを示唆する為になされたことである。
こういうことも知っておかないと、日本書記の編者を理解していないことになり、復元はできないのである。

2009年6 月14日 (日)

日本書紀の神武天皇在位14年のからくりの解明

一つのこと(A)が、素晴らしい発見であったとしよう。
(A)「1年が4倍の4年になっている」が正しいとした場合、(B)「ある期間が4倍になっている」が正しいかどうかである。次のように、条件によって異なる。
「すべての年が4倍になっている」なら正しいが、「ある期間には4倍でない年も含まれる」なら正しくない。
日本書紀の場合は、「ある期間(神武~仁徳)が4倍になっている」が、「個別の天皇でみると4倍とは限らない」ということになる。
簡単な例を示そう。筆者は「神功は、在位には関与しない」とみている。そうすると、神功に与えられた在位分の年数は、他の天皇がフォローし、結果として神武~仁徳の合計在位は4倍になる。神功の在位分をフォローした天皇は4倍にはならない。

神武天皇在位は、14年か、19年か

神武の年次表からは、14年と19年が読み取れ、どちらが正しいか判断が難しい。
神武の年次は76年であり、1/4は19年であるため、神武の在位を19年と解釈する方々が多くおられる。76年は、神武即位年から崩御年までの期間であり、上記(B)に基づくと19年は正しそうに見える。

「からくり」の存在

日本書記においては、多くの「トリック」(人を騙すはかりごと)が用いられている。騙すつもりはなく、年代延長のためであるとしたら、「テクニック」とか「からくり」という方が良いかもしれない。その「からくり」を考えると、神武在位を次のようにみることができる。

一般に太歳干支は、各天皇の即位年に付与されている。しかし神武の場合には、太歳干支は即位年には付与されていない。東征出発の年に付与されている。他に見られない特異な太歳干支の付与の仕方である。この東征出発の年から崩御年までの期間は83年(BC667年からBC585年)であり、83年の1/4は20.75年(21年)である。
くどいようだが、21年は神武の在位ではなく、神武が東征に出発した年から崩御の年までの期間である。
ところが、東征の期間7年間は実年(記載の1年は実際の1年)で書かれているから、神武即位後の在位は、21年から7年を引いた14年となる。
要するに、神武に関しては「1年が4倍の4年になっている」部分と「1年が1年のまま」の部分が合成されているのである。言い換えれば、神武即位後の76年間は4倍ではなく、約5.53倍になっている。[76÷13.75=5.53]

「からくり」に気付いたのは、貝田禎造氏の「古代天皇長寿の謎」(六興出版)を読んで、氏が神武に関して何も述べていないのを不思議に思い、検討の結果得られたものである。
上記の書物において、神武に関して86年という数字が記されていたが、この数字は太歳干支が付された神武前紀前7年(BC667年)から次の太歳干支が付される空位年(BC582年)までの期間であった。従って、神武崩御後の空位3年を引いた83年が神武の本来の数字であり、神武在位14年が得られたのである。
ついでに述べると、神武崩御後の空位3年は太歳干支を伴う空位であり、このように空位年に太歳干支が付く点も特異である。記事を読むと、綏靖と手研耳尊とが天皇位を奪いあった戦いの期間である。太歳干支の付与は、手研耳尊を完全には無視できない争いごとであったことを暗示している。空位3年の実の年数は、仮に1/4とすると0.75年となり、実1年と考える。
貝田氏は真面目な方で、日本書記にからくりが隠されているなど思いもしなかったであろう。しかし、多分、神武の月日を検討する中で「ある期間(神武の在位)が4倍になっている」とすることに躊躇するだけの何かを感じ取られて、神武の在位を書かなかったと思われる。賢明な判断であったのだ。

追記(2009/8/4)
最近は、復元年代の精度を高めると同時に理論を整備しておきたいと思っている。
上記の記事の中にも2ヶ所において誤りがあることに気付いた。次の点である。
「東征出発の年から崩御年までの期間は83年(BC667年からBC585年)であり、83年の1/4は20.75年(21年)である。」
20.75年は、21年とするには0.25年不足している。日本書記の編者が大雑把な計算をしていたのなら、21年としても構わないであろう。編者の数字の扱い方(計算も含む)は正確なのである。
記載上の神武崩御76年次と77年次は、2倍暦では同年なのである。従って、上記の文面は次のように書き改められる。
東征出発の年から崩御年までの期間は84年(BC667年からBC584年)であり、84年の1/4は21年である。」
同時に次のことが言える。
「空位3年の実の年数は、仮に1/4とすると0.75年となり、実1年と考える。」は、次のように書き改められる。
記載上の空位3年の実の空位年に関わる年数は2年分である。1年分は神武崩御の年と同年であり、実の空位年とは関係しない。記載上の空位2年は、2倍暦を解消すると実1年となり、空位年は実1年である。」

この追記の内容が正しいかどうかは、少なくとも神武天皇から開化天皇までが読み切れたときである。