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2009年10 月30日 (金)

妄想か、それとも新しい解釈か・・・・年月日の暗号

日本書記の暦については、今まで何も述べてこなかった。既に多くの方が解析されているからである。
それらの解析結果の一つは、日本書記に記載された月日は干支で表記されているが、計算すると、かなり正確になされているという。筆者は自分で計算したことがないが、異論など持っていない。

「古代天皇の長寿の謎(日本書記の暦を解く)」の著者である貝田禎造氏は、面白いことを述べられている。
日本書記の記載に表れる「月」は、「5月と6月が少ない」という。理由としては、旧暦を大陰暦に換算することに起因している、とする。いろいろと説明がなされているが筆者には理解できない。
また、日本書紀は、旧暦による伝承に基づいており、これをすべて誤った方法で大陰暦に換算している、と述べている。要するに、「5月と6月が少ないのは、日本書紀の編者が間違いを犯している」ということらしい。
この方は、ご自分が理解できないことを、編者の責任にしてしまう癖があるようだ。こうなると、筆者もひとこと言いたくなる。
日本書紀の「年月日」が旧暦による伝承に基づいていることは全くない。物語や記事は伝承であったとしても、月日は残っていなかった。月日は編者の創作である。仮にあったとしても、編者の都合に合わせて作り替えたと考える。

神武天皇の即位前に18件の月日があるが、5月は1件、6月も1件ある。他の天皇には1月が多いが、神武即位前紀には1月と7月が1件もないのが特徴である。各月が現れる頻度の平均は1.5件であり、1件および2件は平均値に相当する。5月と6月について、指摘するほどの異常は見られない。それなのに「5月と6月が少ない」とはどういうことだろうか

神武即位以降、開化天皇までを見ると、約52件の月日(日付があるもの)が記載されている。「約」としか言えないのは、月日にもいろいろなものがあるため、数えるのが難しい。
例えば、各天皇の前期に記載された月日を数に入れるかどうかの問題がある。これさえも、前天皇の月日の記載と重複したり、しなかったりしている。また、日付まで記載されているが、日付が読めないものなどさまざまである。そのため、正確に数えられないのである。月のみの記載を含めると、65件を超える

神武即位以降、開化天皇までの9天皇を見ると、確かに5月1件と6月0件と少ない。指摘されていないが、11月も1件で少ない。
注1) 筆者は神武を即位前と即位後に分ける。記載内容が違いすぎるためである。欠史八代という表現があるが、即位後の神武を加えれば、欠史九代である。

5月、6月、11月がなぜ少ないのであろうか
先ず、1件もなかった6月について考えてみる。
編者は6という数字をどのように思っていたのか、を知るために日付を見る。5日6件、11日4件に対し6日3件である。日付が15日以下しか用いられないことを考えると、日付でも6の用いられ方は、幾分少ないと思われる。
ところで、6という数字は、記事の数で極端な使われ方をしている
欠史九代のうち、懿徳以降孝元までの5天皇において、日付まで入った月日の数が6件ずつある。神武の場合、年を数字で示さない(明年とした)1件を除くと、6件になる。そうすると、6天皇が該当することになる。
意味は不明であるが、月日の入った記事の数を6件としたため、意識して6月を用いなかったと推測する。そこには、「旧暦を大陰暦に換算すること」とは全く関係ない別の理由、例えば陰陽道の占術との関係があると思われる。

5月について考えてみる
先ず、正月の数を見ると、12件あり、52件に対し23%の高い比率である。
記事との関係では、「立太子」、「即位」、「皇后とする」の順で用いられていて、ほぼ納得できる使われ方である。
しかし、月日は暗号であり、記事との関係を離れて、復元時の年代や在位や年齢を示している。復元時に、そのまま月日として用いられることは全くない。
正月は、暦の上では1月の意味であるが、日本書記において、1月の表記は存在しない。そして正は1とも5とも読める。正月の暗号上の意味は、1月かも知れないし、5月かも知れない。5月が少ないのは正月が多く、必要性が乏しいためである。
6月が少ないのも、同様で、正月1日と記載すれば、6月の意味を持たせることができる。

先日投稿した「日本書記の暗号に書かれた『孝一族の時代(卑弥呼の時代)』」に添付した「表113 日本書記における魏国との交流の記録」を見ていただきたい。
上記の説明を、事例で見ることにする。
事例1)孝安76年正月5日と孝安102年正月9日から、248年と解読した。
76年と102年の計算76+5×5+102+5×9=248
248年とは、三国志に書かれている卑弥呼の死んだ年である。この場合は、日本書記の記載では76年正月は立太子の記事であり、102年正月は天皇崩御の記事である。暗号解読では正を5の意味で扱っている。

前述の、神武天皇の即位前の月日には、5月が1件、6月が1件あるが、1月(正月)がなかった。記事の中に1月に関わる「即位」などの記事がないためである。正月がなければ、5月や6月が現れるのは当然のことである。
崇神以降の天皇は記事の数が徐々に多くなる。5月の表記がわずかだが表れるが、それでも正月の占める割合は高い。正月の数が5月と6月の代わりになるだけ存在するのである。

11月(ついでに、11日)について述べる
暗号として、解読の難しい数字の一つが、11である。11という意味以外に多様な解釈ができるのである。
仮に、「11月11日」とあったとしよう。
加算すれば22[11+11=22]となる。11のみで2と読ませることもでき、4[2+2=4]となる。11と2の意味を組み合わせているとすれば、13[11+2=13]となる。
また、は、11の意味とプラス(+)の意味を有する。12[11+1=12]と読めるし、21と読むことができる。
ところで、11は逆に読んでも、逆数でも11であり、この読み方は無意味な読み方である。
(いろいろな読み方を利用して、面白い使い方はできる)
暗号として解読が難しいだけでなく、解読を期待している作成側の編者にとっても使いにくい数字である。やたらに11月や11日を使えないのである。
解読が全くできないならば、暗号を作った意味が失われ、編者は与えられた役割を果たすことができなかったことになる

月日の数は、数自体の読み取りが困難である。月日の数も暗号と考えられ、神武に関わる数字のように思われるが、数が正確に読めないので、今のところ放置している。

最後に述べておきたいのは、冒頭で述べた「月日は干支で表記されているが、計算すると、正確になされている」という点についてである。

日本書記の編者は、月日を暗号として利用した。「月」は数字(例えば、二月、九月)で記載されているが、月の朔(ついたち)は干支で記され、所望の日付は朔を基準にした干支で示される。編者は月と同じように、日付の数字を必要とした。しかし、「朔と日付の干支があれば事足りる。」などと安易に考えたわけではない。編者は天文、暦のプロである。そんなことで手を抜くことなどするはずがない。また、一部ではあるが、干支も暗号として用いている。正確なのは、当然のことといえる。

2009年10 月25日 (日)

日本書記の謎を解明・・・最大の特徴は何か

日本書記は日本国の国史あるいは正史といわれる。日本書記は、他国の古代の歴史書と同様に年代を延長し、実際より822年ほど遡った年代、(西暦紀元前660)から始まる。しかし、他国の歴史書には見られない特徴を有している。

最大の特徴は、「正しい歴史」を内在していること
日本書記の最大の特徴は、「延長された年代の歴史」(記載年代)に対し、「正しい年代の歴史」(復元年代)を内在していることである。(以下、「正しい歴史」を「復元年代」と呼ぶ)
日本書記の編者は、復元年代が将来解読されることを前提としている。それは、編者の個人的な考えではなく、日本書紀編纂の基本方針であった。
だからこそ、安易に復元年代が解読できるような記載はできなかったのである。編者は知恵を総動員して、解読困難あるいは不能と思われるような日本書記を作り上げた。
同時に、編者は、編纂の基本方針に沿って、復元年代を得るための情報(暗号や「からくり」やキーワードなど)を記載の中にはめ込んだ。解読に必要な情報は、中途半端なものではない。それどころか、ほぼ完璧な情報である。
日本書記の解読が困難なことと解読のための完璧な情報の存在とは、矛盾しない。
日本書記は、編者の挑戦状なのである。編者は日本書記が容易に解読されるとは思っていない。安易に解読されることを防いだ自信作なのである。
しかし、将来の何時は分らないが、必ず解読されるであろう。その時には、正しく解読してほしい。それが編者の願いである

上記に述べたことは、仮説ではない。事実である。
日本書記の献上720年から1290年ほど経過したが、未だに解読できないでいることを根拠にあげても意味はないであろう。編者の目的の一つは達成していることになる。(冗談)
主張の根拠の一つは、2種類の紀元の異なる暦、即ち神武暦とニニギ暦が用いられていることである

神武暦とは
神武暦は、神武天皇即位紀元の日本の紀年法である。他国の紀年法もほとんどが尊敬する人物や神の誕生年や崩御年あるいは偉大な出来事(世界の創生、建国)を紀元とする。
日本書記の編者は神武天皇を実際より822年前に年代を遡らせて即位させた。それにより、編者の時代、例えば文武即位697年は、神武即位から数えて1357年になる。編者は日本という国の歴史が千数百年あることを示したかったのであるから、神武天皇の即位あるいは建国を紀元とする暦を考えたのは当然のことである。
重要なことは、千数百年(4桁の数字)となることを前提として神武暦が用いられたということである。

日本書記が、延長された年代だけを対象にしているならば、神武暦だけで十分である
しかし、解読を前提とした復元年代を包含したとすると、不都合が生じる。

神武暦のみを用いた場合の不都合
日本書記において、神武暦のみを用いた場合、記載年代と復元年代の変換が困難なことになる。
復元年代を神武暦で表したとすると、記載年代と復元年代の年代変換は、神武暦から神武暦へ変換することになるのだから、記載年代と復元年代の区別がつかなくなってしまう。
例を見れば、説明の意味が分るであろう。
「日本書記における神武天皇即位年は、神武暦元年であるが、復元年代は神武暦822年となる。」
「孝安天皇崩御年は、神武暦370年は、復元年代では神武暦908年となる。」
「崇神天皇崩御年は神武暦630年、復元年代は978年」
「仁徳天皇崩御年は1059年、実年代は1087年」

また年代変換は、単純には変換できない。記載年代と復元年代の間にある年代差が常に付きまとい、年代差自体も直線的な変化ではなく変則的であるから、年代変換は困難な状態に陥る。
それでも、各天皇の崩御年くらいを処理するなら可能であるが、[年代(数字)のからくり」などで示すように、記載内容にまで踏み込むと、極めて厄介なことになる。
これを解決するためには神武暦とは読み方の異なる別の暦(紀元の異なる暦)を必要とした。

二つ目の暦として、ニニギ暦を採用
ニニギ暦については、「記紀編者が用いた神武暦とニニギ暦」(カテゴリ「記紀の紀年論」)を見ていただきたい。
ニニギ暦は、日本書記に記載された歴史、即ち、神武立太子年神武暦前37年(西暦前697年)と文武立太子年神武暦697年(西暦697年)の中央年神武暦661年(西暦元年)を紀元とする。ニニギ降臨にちなみニニギ暦と命名している。
神武立太子年から文武立太子年の期間1394年は、ニニギ暦697年になる。年数でみれば、丁度半分の年数である。
神武即位年は、ニニギ暦162年であり、天武元年は672年、文武立太子年(文武即位年)は697年である。編者の時代を、仮に文武立太子年とすると、神武即位年は535年前になり、天武元年とすると、510年前になる。
編者は、次のような面白いことをしている。
文武立太子年神武暦1357年を4倍暦と見做すと、339年になる。文武立太子年をニニギ降臨のときからみると、500年になることを確認している。計算では成立しないが、編者の考え方としてとらえればよい。
編者は、ニニギ暦で正しい年代をみた場合に、(神武暦で見ても実態は変わらないが)より一層、正しさを実感したのであろう。

ニニギ暦は、年代の桁数の問題を解決する
易で最も重要なのは、三つの数字である。年代でいえば、3桁の数字である。
易では、爻(こう)は、易の卦を構成する基本記号。これらを3つ組み合わせた三爻により八卦ができ、占いがなされる。年代を占うとすれば、3桁の数字が必要になる。
日本書紀の前半の部分、例えば、応神天皇(崩御970年)以前は神武暦で表記すると3桁で示せる。それ以降は4桁の数字になる。
復元年代の場合、神武暦では、垂仁天皇(崩御997年)までが3桁で示せるが、それ以降は4桁になる。
編者、特に陰陽道の知識に基づき、年代や在位、年齢を判断できる編者にとって、数字は3桁であることが重要であった。
ニニギ暦による年代は、編者にとって扱い易かった。また、神武暦も4桁になってしまう神武暦も、必要な場合はニニギ暦に変換して用いることができた。

正しい年代による歴史(復元年代)は、延長された年代の歴史(記載年代)よりも先に考案された。
当たり前のことだが、「復元」の意味をとり違いないでほしい。正しい年代があるから復元なのである

2009年10 月23日 (金)

日本書記の暗号に書かれた「孝一族の時代(卑弥呼の時代)」

日本書記には、卑弥呼や壹与については、倭迹迹日百襲姫命の箸墓に関すること以外はほとんど記載されていない。また、卑弥呼や壹与の年代にあったとされる魏との交流については、全く記載がない。
しかし、孝昭、孝安、孝霊の各天皇の「年月日の暗号」を解読すると極めて多くのことが分る。
この時代に関しては、三国志に記載されている年代とその記事が、当時の日本に何があったかを書き残してくれている。日本書紀においても三国志に記載された年代がすべて読めるのである。
次の「表113 日本書記における魏国への朝貢の記録」を見ていただきたい。

表113 日本書記における魏国への朝貢の記録

「年月日の暗号」は、数字の扱いによっていろいろな結果が得られてしまう心配がある。信頼性が乏しいのである。表には、面白い解読方法や信頼性がありそうなものを、地の色を青色に着けておいた。
注)にも重要なことは書いておいたので、関係する記事を読んでいただきたい。

以前に、「日本書記の『神武の時代』を推理する」という記事を投稿したが、孝昭天皇から孝霊天皇までの『孝一族の時代(卑弥呼の時代)』も、まさに推理を必要とする
筆者は今、「表113 日本書記における魏国への朝貢の記録」を作成したばかりである。中途半端な説明をするより、しばらく考えたい。
これを読まれている方は、表を見さえすれば、日本書紀に何が隠されているかがすぐに分るであろう。

2009年8 月22日 (土)

仲哀天皇の「年月日の暗号」を解読する

日本書記における仲哀天皇の「年月日の暗号」の解読結果を紹介する。
読者の皆さんには、「年月日の暗号」があることは述べてきたが、積極的に紹介することをしてこなかった。
理由は、「年月日の暗号」が極めて原始的な暗号であり、確証が得られるまで発表を控えてきたためである。
他の手法により信頼できる復元年代が得られてきた。やっと、「年月日の暗号」から見た場合にはどのようになっているかを再確認することができるようになってきた。それにより、編者が年代や在位についてどのように考えていたか、より明確にできると考える。

仲哀天皇の「年月日の暗号」の解読結果
解読結果は「表110 仲哀天皇の『年月日』の暗号解読」に示したので見ていただきたい。

表110 仲哀天皇の『年月日』の暗号解読

日本書記解読1と解読2を比較しながら見ていただきたい。
解読1と解読2の結果は、仲哀天皇の崩御年を示すが、これは「年代(数字)のからくり」である。神功摂政1年(201年)が、363年を示唆するための見掛け上の年代を示すものであり、これにより応神の誕生年363年を指定している。
解読2の結果は、仲哀天皇の復元年代における正しい仲哀崩御年380年を示している。
上記の結果は、他の手法、例えば仲哀天皇や応神天皇の個別の年次表および各天皇を集めた合成年次表の結果と基本的に一致する。

記紀間の復元在位の食い違いは仲哀天皇と成務天皇のみである
しかし、古事記の仲哀天皇の崩御の復元年代は380年で、日本書紀の復元年代と一致するが、即位年の復元年代は一致しない。仲哀天皇の場合には、在位が9年なのか7年なのか、記載在位においても日本書記と古事記では異なっているが、復元においても同様に異なっている。
日本書記の仲哀即位年は372年、在位は9年であり、古事記は即位年374年、在位7年である。それに伴い成務の在位も2年異なる。
このような日本書記と古事記の間の在位の食い違いは、仲哀天皇と成務天皇に限られるようである。

日本書記の「神功皇后摂政在位零のからくり」
「表110 仲哀天皇の『年月日』の暗号解読」に記したように、日本書紀の復元年代には「年代(数字)のからくり」があり、神功皇后の摂政の在位が零であるすれば、この「見事なからくり」の意味も分るというものである。
解読1で示される結果は、362年の翌年363年に重要な意味がある。記紀の編者は、応神の誕生、363年を明確にした。
解読2は、解読1で仲哀天皇の崩御年が使われてしまったため、正しい崩御年を解読するための暗号を崩御年の「年月日」に仕掛けた。
解読1で得られた応神誕生363年と共に、応神の崩御年齢を在位41年として示唆することにより、応神天皇の復元を可能にしてくれたのである。
ちなみに、応神天皇は、363年誕生、381年19歳で即位、403年41歳で崩御となる。

古事記は日本書紀の解読方法を示唆する
古事記は、日本書記とは異なる暗号をもって仲哀天皇と応神天皇の復元を可能にしている。さらに、古事記は、日本書紀の仲哀天皇の崩御年の解読方法を、応神天皇の事例を用いて示唆してくれる。
古事記の応神天皇の年月日は、九月九日と記載されているが、「九九=八十一(81)」で、応神即位年が381年であることを示す。従って、仲哀天皇の崩御年は前年の380年である。示唆の重要なポイントは「九九の九の段の活用」である。
日本書記の解読に、「九九の九の段」を応用すれば、仲哀崩御年は次のようになる。
「九五=四十五」+「九七=六十三」+九八=七十二」=百八十年(180) から
二百年+百八十年=三百八十年(380年)
[(9×5)+(9×7)+(9×8)=45+63+72=180→200+180=380
なお、計算に用いた二百年とは、日本書記の仲哀天皇崩御の記載年代である。