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2009年11 月 8日 (日)

先代旧事本紀の年月日の暗号について

先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)は、「 日本大百科全書」(小学館)および フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」の記述によると、次のような書物である。
平安初期に編纂されたと推定される歴史書で、偽書とされる。本書の序には、620年(推古天皇28)聖徳太子、蘇我馬子らの撰録するところと記す(「日本書紀」推古28年(620年)に相当する記述がある)が、「古事記」「日本書紀」「古語拾遺」などからの引用があるので、本書の成立は平安初期である。実際には大同年間(806年~810年)以後、延喜書紀講筵(904年~906年)以前と推定されている。全10巻、神代から推古(すいこ)天皇に至る歴史を記し、また「国造本紀(こくぞうほんぎ)」という独自の記録を収録。著者は未詳であるが、「天孫本紀」には尾張氏および物部氏の系譜を詳細に記し、またほかにも物部氏関係の事績が多くみられるので、本書の著者は物部氏の一族と見られている。
なお、編纂者の有力な候補として、国学者御巫清直(みかんなぎきよなお 1812-92)は明法博士の興原敏久(おきはらのみにく)を挙げている。この人物は物部系の人物(元の名は物部興久)であり、彼の活躍の時期は「先代旧事本紀」の成立期と重なっている。

筆者が、先代旧事本紀を取り上げるのは次の理由による。
先代旧事本紀、巻第六 皇孫本紀の磐余彦尊(いわれひこのみこと)の記事には、次のような記載がある。
天祖(彦火瓊瓊杵尊、ひこほににぎのみこと)が天下られてより、百七十九万二千四百七十年余りである。」
日本書記の記載、「ニニギ降臨の暗号百七十九万二千四百七十余歳」と同じである。
先代旧事本紀の編者は、伊達や粋狂で、「ニニギ降臨の暗号」を記載したのではないその意味が分っていたからこそ記載したのである

当然のこと、記事の「年月日」も暗号であり、復元年代などを示す。「ニニギ降臨の暗号」は既に解読済みであるから、「年月日」に焦点をあてればよい。
冒頭に述べたとおり、「古事記」「日本書紀」などからの引用であり、一層簡潔な表現になっている。「年月日」も同様に、その数も少ないし、年月のみで日付のないものが多い。
先代旧事本紀の年月日の解読は、年月日の数字の数が少ない分だけ、日本書記の解読よりは容易である。
また、年代は神武暦ではなく、ニニギ暦で書かれている点も特徴になっている。ニニギ暦に気付かないと暗号は解読できないことを示している

解読を始めたばかりなので、ある程度答えが得られた段階で纏めて紹介することにする。
言いぱなしでは申し訳ないので、いくつかの面白そうな例を述べておく。

追記(2009/11/11)
11月11日の各新聞に、「奈良纏向遺跡、卑弥呼の祭祀空間か、3世紀最大級建物跡」(毎日新聞)、「邪馬台国論争ゴール近し、纏向遺跡」(産経新聞)などの卑弥呼と邪馬台国の記事が各新聞に出ている。
例2孝安天皇および例3孝霊天皇の解読結果を追加した。これで、古事記、日本書紀、先代旧事本紀のすべてが、「248年」の卑弥呼の年代を示していることになった。

例1懿徳天皇の年代
元年2月4日、9月、2年正月、2月、3月、22年2月12日、34年9月、10月
「22年2月12日」を除く合計値77[1+2+4+9+2+1+2+3+34+9+10=77]
「22年2月12日」の解読:「22年2月12日」の記事[孝昭を皇太子とする。年18歳]を参考にすると、「二十二年二月十二日」は、18[2+12+2+2=18]
合計値95[77+18=95]⇒195年(懿徳崩御)

例2孝安天皇の年代
二年十月、三年八月、二十六年
2+38+2+6=48→248年(孝安崩御=卑弥呼死)
七十六年、百二年正月、9月
「百二年」は、200年
「七十六年」は、十三(7+6)で、プラス3年
5(正)×9プラス3=45+3=48→248年(孝安崩御=卑弥呼死)

例3孝霊天皇の年代
元年正月、2年2月、3年正月、36年正月
解読:年のみの合計値42[1(元)+2+3+36=42]
   月のみの合計値17[5(正)+2+5(正)+5(正)=17]→17は「十七」であり、プラス7
   年月加算49[42プラス7=49]⇒249年(孝霊・壹与即位)
76年2月
解読:逆読み267年(孝霊崩御)
注)孝安崩御248年、孝霊即位249年、崩御267年は、日本書記および古事記の結果と同じ

例4仲哀天皇の年代
8年正月、9年2月5日、22日
解読:9×(2+5)+(8+5)+(2+12)=63プラス3+14=80→380年(仲哀崩御)
注)上記の例は、面白い例として挙げたが、他にも次のような容易な解読方法がある。
元年、8年、9年
解読:年数を加算18[1+8+9=18]、十八の逆数は八十で、380

例5反正天皇の例
6年正月6日
解読:上記年月日は正を挟んでシンメトリックを作っている。在位7年[6+1=7]を示す。
注)日本書紀では、在位5年と記載するが、復元在位は7年である。
允恭天皇5年11月11日に反正天皇を陵に葬る記事がある。
5年11月11日
解読:5+1(十一)+1(十一)=7→在位7年
3月15日、10月4日
解読:35プラス4=39→439年
注)在位5年とすると437年と読めるが、在位7年とすれば439年で正しい。

いろいろなタイプの暗号を紹介したが、上記のとおり、先代旧事本紀の解読結果(復元年代)は、日本書紀および古事記の解読結果と一致している。
この記事だけを見て、「暗号の存在と解解読方法を信じろ」といってみても、すぐには信じられないかもしれない。押し付けるつもりはないが、他の記事を読んでもらえば自然と分ってくるはずである。

2009年11 月 7日 (土)

ニニギ降臨の暗号の別解釈・・・「179」と「247」の解読

記紀の復元年代、在位、年齢が固まってきた。今まで疑問に思っていたことでも、数字が固定されないと、先に進めない問題があった。
例えば、「ニニギ降臨の暗号179万2470年」の数字である。
この暗号は、既に解読済みである。投稿記事「ニニギ降臨の暗号『179万2470余歳』の解読」を参照していただきたい。  
今まで、「179」と「247」に関してはなにも読めていない。「一つの暗号で複数の解を得ようとすることに無理がある」と考えられるから、無駄骨なのかもしれないと思っていた。

次に、「247」について、多くの方が解読しているが、その一つに「247は、魏志倭人伝に記載された卑弥呼の死んだ年、正始8年、西暦247年を指す。」という主張がある。
しかし、暗号が西暦247年を指していたとしても、記紀の年代解読は何ら進展しない。暗号の解と見做すには物足りない。

「247」の解読結果
推古天皇崩御628年から、247年遡った381年が応神天皇即位年である。]
暗号は、不明な点を正しく解読できるようにするキーの役割を持っている。編者は、日本書記に記載された推古天皇の崩御年を正しいと考えていた。それに対し、応神即位年は「数字のからくり」が隠されていて、既知ではない。編者は、暗号がなければ、応神の即位年を解決するのは困難であると考えたのであろう。

この解読に対し、理解できないことがある。
古事記は最後に推古天皇を記載する。しかし、日本書紀記載の最後は持統天皇である。なぜ、日本書記が、推古天皇を基準年に選んだのか分らない。

「179」の解読結果
解読というより推理である。「247」の解読において述べたように、確かな年代があって、キーである「247」あるいは「179」を用いて不明な年代を読みとる。
確かな年代とは、上記で用いた「247」に関係する年代、即ち数字の位置を入れ替えた「427」である。
仁徳天皇崩御427年から、179年遡った248年が孝安崩御年である。]
解読する側が最も知りたい天皇の年代の一つが孝安崩御年と孝霊天皇即位年である。編者は、重々そのことに気付いての暗号ということになる。
古事記の場合には、孝安崩御248年と孝霊即位249年は、暗号に気付きさえすれば明確に読める。
それに対し、日本書紀の場合は、孝安崩御248年と孝霊即位249年を年次表から読むには、何となくすっきりした読み方でない。なにしろ、卑弥呼と壹与が関係するから、より確かな根拠がほしいところである。どうやら、248年は、卑弥呼が死亡した年であり、249年は、壹与(孝霊天皇妃倭国香媛、古事記では、意富夜麻登玖邇阿礼比売命)が女王として立った年である

2009年11 月 2日 (月)

記紀の年代を復元できない理由の一つ・・・・暗号の存在

多くの学者が、100年以上も記紀の年代解読に挑みながら、未だに正しい年代を復元できないのは、なぜなのか。

日本書紀の編者は、国史の作成に当たり、高度な手法を持ち込んだ。
しかし、度が過ぎれば(正しく表現すれば、編者の創作の手法が高度であるほど)、常識と思われる考え方では、編者の考え方やレベルに対応できない。その結果、「日本書紀は、出鱈目である」と考える人まで生まれる。創作のレベルと解読のレベルが違うのである。(尤も、「出鱈目」というなら、編者との比較における知能レベルの違いである。)編者が日本書記の創作に当たって、取り込んだ様々な手法(あるいは技法)や高度な処理を認識できないのである。解読を難しくしているのは、「まさか、そんなことをするはずがないとか、そんなことはあるはずがない。」というような常識である。

上記の件に関しては、いくつかの記事において既に述べてきたことである。
ここでは、別の角度から見た「復元できない理由」について述べる。
多くの方の復元年代は、尻尾である(年代の下った)推古天皇の側から始める。記載年代が復元年代と一致していると考えられているからである。あるいは、雄略天皇であったり、記紀間で1年しか違わない反正天皇からスタートする。
尻尾から解読していくと、前述した編者の創作の手法(豊富な、奇抜なアイディア)に気付かないのである。復元年代と一致しているのだから、編者にとって、「暗号」や「年代や在位のからくり」は不要である。せいぜい、倍暦を考えさえすれば年代の解読ができると勘違いしてしまう。
主要な暗号は、神武の東征出発の年代に記載されている。「年代や在位のからくり」は、神武時代に多く存在する。欠史九代は、その表現のとおりデータが少ない。等々から、解読は、つい後回しになってしまう。尻尾の安易なところから復元を進めたのだから、もう少しましな復元年代が得られそうなものなのだが、復元が順調に行われていると錯覚を起こしてしまい、神武天皇の正しい復元年代に届かないのである。
編者は、日本書紀の記載に当たって、神武天皇から記載した。(雄略天皇から始まったとする見解もあるようだが、そうだとすれば、雄略以前は神武から始まった。)「編者の考えや思い入れは、先頭の神武にある。先頭(神武天皇)の最初に記載された数字は年代を示す暗号である。それすら解読せずに、正しい年代が得られるはずがない。

筆者は、記紀(古事記と日本書記)について何も知らないで、ひょんなことから、頭(神武天皇)から解読を始めてしまった。既に復元年代の基本的なことは解読済みなのであるから、いまさら筆者のようにやれ、というつもりではない。尻尾と頭とでは、編者が創作した復元に関わる内容に極めて大きな違いがある。頭に記載された「暗号」や「年代や在位のからくり」の重要性を知ってもらえればよいのである。

日本書記の年代解読に対して、「古事記」や「倭姫命世記」の果たした役割は極めて大きい。復元結果は、古事記と日本書紀を分けてみているが、両者はほとんど同じ復元年代になっている。古事記は、偽書といわれる。しかし、年代に関しては、「日本書紀の解読書あるいは参考書」と見做しても不思議ではないのである。
以下に、暗号の解読の結果のみ記しておく。解読方法は、カテゴリ「ニニギ降臨の暗号」の中の関係記事を読んでいただきたい。

古事記と日本書記の復元年代は、神武の年代を示す一連の数字である
「古事記」では、最初にあらわれる数字が、日子穂穂出見命に記載した「ホホデミの暗号、治天下580歳」(復元年代:神武東征出発155年)である。次に現れる数字は、「神武天皇御年137歳の暗号」(復元年代:神武誕生137年)である。
「日本書記」では、彦火瓊瓊杵尊の降臨の記事にある「ニニギ降臨の暗号179万2470余歳」(復元年代:神武即位162年と神武崩御175年)が復元年代に関する最初の記載である。
上記の復元年代は、神武の年代を示す一連の数字であり、記載内容に照らしても整合性がある。」

古事記と日本書記の関係は不明であるが、何かを伝えたいときに、同じ表現はしない。
ニニギは日向三代の初代であり、ホホデミは日向三代の二代目である。
古事記はホホデミの暗号の復元年代を神武東征出発の年とした。(御年では神武誕生年を示す。)神武東征出発の年は、日本書紀において太歳干支の付与された重要な年である。また、日本書記は、ニニギ降臨の暗号で神武即位年と神武崩御年を記載する。「古事記と日本書紀はそれぞれ棲み分けがなされている。」

ちなみに、「倭姫命世記」は、日本書記と同じ「ニニギ降臨の暗号179万2470余歳」を記載する。
その他に、「ニニギ治天下の暗号21万8543歳」(復元年代:神武誕生137年)と「ウガヤ治天下の暗号83万6032歳」(復元年代:神武崩御175年)を記載する。ただし、「倭姫命世記」には、「ホホデミ治天下の暗号63万7892歳」(復元年代:179年不明)もあり、筆者の解読とは一致していないが、「降臨の暗号と治天下の暗号の合計値」(これも暗号と考えてよい)は神武137年で一致している。

「倭姫命世記」のニニギ治天下の暗号の解読に関して

ニニギ降臨の暗号「179万2470余歳」は、日本書記だけでなく、「先代旧事本紀」巻第六皇孫本紀磐余彦尊(いわれひこのみこと)の項、「倭姫命世記」天孫降臨の項、そして「秀真伝(ほつまつたえ)」にも見られる。
この暗号が、極めて重要なことを示している。
ただし、資料は、原本などを調べたのではなく、パソコン上で得られたことからの推測であることをお断りしておく。

先ず、参考とした資料について述べる。
「Wikipedia」の神武天皇をみると、「179万2470余歳」に関する説明の意味か、参考の意味か分からないが、次の記事が載っている。
「天孫降臨以来、一百七十九万二千四百七十余歳(179万2470余年。偽書とされる神道五部書のうち『倭姫命世記』、『神祇譜伝図記』ではニニギは31万8543年、ホオリは63万7892年、ウガヤフキアエズは83万6042年の治世とされ、計は179万2477年となる。)が経ったが、未だに西辺にあり、全土を王化していない。・・・・・・」

「倭姫命世記」に関しては、どなたの投稿で上記の記事が載ったのか知らないが、筆者の手元の資料は、皇大神宮別宮倭姫宮御鎮座80年記念口訳デジタル化による「倭姫命世記」で、岩波日本思想体系「中世神道論」の原文によるものであり、179万2470余年となっている。また、ニニギ治天下の数字も21万8543年で上記の数字とは異なる。

「ほつま研究所」のホームページを見ると、『ほつまつたえ』の研究者であった松本善之助氏がニニギ降臨の数字に関わる記事を残している。
そこに示された「倭姫命世紀」では、ニニギ降臨の数字は179万2470余年となっているが、ニニギ治天下の数字は31万8530年でいずれの数字とも異なる。
「秀真伝(ほつまつたえ)」にも179万2470穂と、同じ数字が見える。オシホミミやその他の数字もあるようだ。
「群書類聚巻第六十」にはオシホミミの数字として、179万4300年という数字も見える。

「Wikipedia」の投稿者が嘘を書くとは考えにくい。しかし、『倭姫命世記』と『神祇譜伝図記』が同じ数字であるのは、(根拠はないが)疑問に感じる。「倭姫命世紀」には異なる内容の写本があるのかも知れない。それならそれでかまわないのだが、暗号は数字が1年違っても異なる結果になってしまうので、取り扱いには注意を要する。

上記に挙げた古書の目的の一つ目は、神代の時代の神々についての物語を通して、歴史を明らかにしようとしたのであろう。(「倭姫命世記」では、倭姫命の生涯を通じて伊勢神宮の由来を明らかにしようとした。)しかし、筆者は文言の解読については何もできていない。解読も今後興味が向けば・・・と思うだけである。まだ取り組んでいない、「秀真伝(ほつまつたえ)」には179万2470穂と日本書記と同じ数字が存在する点で、何らかの示唆するものがあるかも知れないと考える。

資料の中では、「倭姫命世記」が多くの情報を記載しているので、解読結果についてお伝えする。
「表114-1 倭姫命世記の暗号解読」を見ていただきたい。また、参考として、「表114-2 群書類従巻第六十の暗号解読」を添付する。
表114-1 倭姫命世記の暗号解読 

表114-2 群書類従巻第六十の暗号解読

「倭姫命世記」に記載された「ニニギ降臨の暗号179万2470余年」については、日本書紀にも記載されており、解読結果は同じである。
「179万2470余年」の解読から得られたものは大きい。もし解読ができていなかったとすれば、記紀の年代復元もここまではできなかったかも知れない。
「倭姫命世記」は、それらの物語の中に、「ニニギ降臨の暗号」とは別に、「治天下数十万年」という年数を暗号として記載し、神武以降の復元年代を隠したことである。
「倭姫命世記」のニニギ、ホホデミ、ウガヤの治天下の数字からは二、三の年代を解読したつもりでいるが、筆者の復元年代と完全に一致したわけではない。いろいろな数字が存在することを知り、それらは先人が残した復元年代にもいろいろな解釈があるということが分かり、同時にどの数字が正しいかの判断を必要とすることも分かった。
筆者は、「179万2470余年」の数字以外の数字を、先人が残した貴重なものとして参考にしてきた。「倭姫命世記」の治天下の暗号からも、神武誕生137年や崩御175年が得られた。しかし、他の解読結果は、筆者の結果と一致したわけではない。(ただし、1年程度の違いである。)
筆者の解読した復元年代が、たとえ先人の解読年代と異なっていても、自らの解読を信じるしかない。(次の例は、疑問の残るところである。)
例えば、孝昭崩御年が221年か222年かであるが、「倭姫命世記」のニニギ治天下の数字からは221年と解読でき、筆者は日本書記の年次表から222年と読む。

2009年6 月20日 (土)

ニニギ降臨の暗号「179万2470余歳」の謎

この暗号については、「ニニギ降臨の暗号179万2470余歳の解読」に述べた通りで、筆者の年代復元の基になっている。
解読して以来、謎のまま残っている問題がある。「179万2470」の数字自体に意味はないのかという点である。
単純に見れば、「179」と「247」に分解される。
すでに解読済みの数字は「822(162)」、「137」、「175」である。不明な数字として「840(180)」もある。
上記の数字を見比べたり、あるいは年次表などの解読結果と照らし合わせたりしてきたが、「179」と「247」はそのままになっている。
現在、復元年代に活かされている数字は、「137」、「822(162)」、「175」で、それぞれ神武誕生年137年、即位年162年、崩御年175年と一致している。また、復元年代では、181年が綏靖の崩御年となっている。そのため、「179」および「840(180)」年が採用されない結果となっている。数字の根拠は薄く、「179」、[180]、[181]は一連の数字であるだけに、すべての数字を活かすことなどできる筈がない。

卑弥呼死247年、壹与・孝霊即位249年

最近になって、孝安崩御年(および孝霊即位年)として、248年(249年)が解読でき、孝安の復元年代に採用できそうな状況にある。残っていた「247」の数字が卑弥呼の崩御の年代として浮上してくる。
「魏志倭人伝」との関係も見なければならない。「魏志倭人伝」では、卑弥呼の死を247年としているが、248年とする解釈もあるようだ。
卑弥呼が死んで、男王を立てるも国中は従わず、更(こもごも)誅殺しあった。」と記載され、「復、卑弥呼の宗女壹与を立て、国中定まる」としている。
そうすると、「卑弥呼は247年に崩御し、その後、卑弥呼の補佐をしていた孝安を立てた。しかし、国中従わなかったため、248年に退位あるいは追放させられた。249年に壹与と孝霊が立ち、二王体制で統治し、国中定まり、成功した。」
年代との関係において、話ができ過ぎかもしれない。

いずれにしても、「179」と「247」は、謎の数字である。

2009年6 月 5日 (金)

ニニギ降臨の暗号「179万2470余歳」の解読

日本書紀巻第三の神武天皇即位前紀甲寅年に記載されている「179萬2470余歳」は、前後の文面から以下のように理解されている。
1.神日本磐余彦は45歳の時、天祖ニニギが天降ってから179万2470余年になるが、遠くの地では争い事が多く塩土老翁によれば東に美しい国があるそうだから、そこへ行って都を作ろうと思うと言って、東征に出た。(ウィキペディア「神武東征」)
2.45歳の時日向国の地高千穂宮にあった磐余彦は兄弟や皇子を集めて「天孫降臨以来、(179萬2470余歳という)長い年月が経ったが、未だに西辺にあり、全土を王化していない。東に美しい国があるという。青い山が四周にあり」(ウィキペディア「神武天皇」)
3.ニニギが地上界に降臨してから179万2470余年の後のこと、遠く遥かな地では、村々に長がいて、互いにしのぎを削り、秩序が乱れていたという。(関裕二氏)

179萬2470余歳」を暗号として捉え、解読した結果は以下のとおりである。
多くの数値が得られているが、有効な数値かどうかよく考える必要がある。筆者は結果1と2を有効と考え、最重要ランクに位置付ける。また。結果3と4を重要ランクに位置付ける。結果5は保留扱いとし、参考として示した。

結果1(最重要)
300余年」である。前後の文面に置き換えると「天祖ニニギが天降ってから300余年になる。」となる。また、「300余年」を二倍暦の数字と看做すと、「150余年」となる。
解読方法
①179247の数字を加算する(0は除く)と30になる。
②30に0を付けると300になる。
解説
「300余年」とすると、東征が崇神の東征になる。
「150余年」と解釈すると、150年代にあった神武東征に結びつく。

結果2(最重要)
神武暦822年」である。言い換えれば「ニニギ暦(西暦)162年」であり、神武即位年を示唆する。
解読方法1
①1792470の0を除く数字を2個ずつ加算すると81111となる。
[17=8、92=11、4+7=11で、81111となる]
②1は1+1=2であるから、81111は822となる。
解読方法2
①数字は1番から6番まであるとする。7番目の0は除く。
②1番と6番、2番と5番、3番と4番をそれぞれ加算する。
③1+7=8、7+4=11→2、9+2=11→2、即ち822となる。
解説
解読結果は、「神武暦822年」である。西暦に変換すれば「西暦162年」となる。
しかし、記紀編纂の時代には西暦は存在しない。
復元年代の紀元に関しては別途説明するが、ニニギ歴を設定しその紀元元年を神武暦661年とする。従って、神武暦822年は、ニニギ暦(西暦)162年となる。

上記以外にもいくつかの結果が得られているが、一つの暗号の中に多くの解を入れることは難しいはずである。結果と解読方法のみ紹介する。
結果3(重要)
「571年」の逆数「ニニギ歴(西暦)175年」は神武崩御年を示唆する。
解読方法
②792470の0を除く数字を3個ずつ加算し、0をつけると17130になる。
③17130を30で割ると571になる。逆数は175

結果4(重要)
ニニギ歴(西暦)137年」と解読でき、神武誕生年である。
解読方法
①179、247を3個ずつ加算すると、179は17、247は13になる。
②17と13の前後を変えると、13と17(十七)になり、137が読める。

結果5(保留)
「840年」と読めるが、意味不明である。
解読方法
①1792470の頭から2、3桁目および5、6桁目を加算すると、1162110になる。
④数字を3個ずつ加算すると、840となる。

追記(2009/11/11)
その後、「179萬2470余歳」は、新しい解釈が加わった。
表114 ニニギ降臨の暗号179万2470余歳の解読」を見てください。

表114 ニニギ降臨の暗号179万2470余歳の解読