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2009年6 月16日 (火)

神武天皇とその一族

筆者は神武から開化までを「葛城王朝」と表現している。葛城王朝の意味を十分に分かっていたというより、短い言葉で表現できるので用いた。
本来の「葛城王朝」とは、鳥越憲三郎氏が唱えた説で、「三王朝交替説では実在を否定されている神武天皇及び欠史八代の天皇は実在した天皇であり、崇神(三輪)王朝以前に存在した奈良県葛城地方を拠点とした王朝であったが、崇神(三輪)王朝に滅ぼされた」とする説によるものである。
葛城王朝は即位後の神武から始まるが、即位後の神武にはほとんど記事がない。論功行賞の記事は東征との繋がりであるに過ぎない。そのように見ると、「欠史八代」というよりは、「欠史九代」の方が正しいと思われる。葛城王朝は記載上563年の物語となっているが実際には140年の歴史である。(数字は在位で示した。)
古事記に崇神崩御年318年が記載されているため崇神崩御年で区分することが行われるが、その場合は、記載上は631年、実際は157年の歴史となる。

神武一族の王朝と孝昭一族の王朝とは別の王朝

欠史九代の[葛城王朝」は、神武一族(神武、綏靖、安寧、懿徳)から孝昭一族へ交代する。筆者が神武一族と孝昭一族とを区分けするのは、日本書記編者の年代構成がそのようになっているからであり、「合成年次表」を見れば一目瞭然としている。その意味で、[葛城王朝」という表現は、葛城地方を拠点とした王朝を指すのは良いのであるが、「神武一族の王朝と孝昭一族の王朝とは血の繋がりのない別の王朝」と見做す方が正しいと思われる。

神武一族と孝昭一族の違いは、皇后に見られる。日本書記の一云まで考慮すると、神武一族の皇后は鴨氏、磯城氏や春日氏ら近隣の氏族の娘である。
孝昭は、卑弥呼と共に、二王による統治を行う。
孝昭の皇后は瀛津世襲の妹である世襲足媛命で、尾張氏であり、大臣は物部一族が牛耳るようになる。神武一族の時代と比べて、大きく様変わりする。

ここでは、神武一族について述べる
西暦155年、19歳となった神武は一族を引き連れ、東征に出発する。
西暦162年に神武は橿原において即位した。26歳であった。175年に39歳で崩御され、在位14年であった。
神武が亡くなると、異母兄弟の間にお決まりの跡目争いが始まる。手研耳命と神沼河耳命(綏靖)の争いである。日本書紀の編者は、この争いのため生じた空位年に「太歳干支」を付与した。このような例はどこにもない。「太歳干支」は、各天皇に付与されている。手研耳命が皇位についたが、綏靖に襲われ殺された、という解釈も成り立つ。太歳干支は、そのようなことを示唆しているのかも知れない。しかし、復元年代から見ると手研耳命が皇位についたとしても176年の1年のみである。
綏靖は、手研耳命を討ち、177年に13歳で皇位についた。181年に崩御され、在位は5年である。
続いて、安寧が15歳で皇位についたが、185年に崩御、在位4年である。
第4代懿徳は、8歳で皇位につき、17歳で亡くなっている。在位は186年~195年までの10年である。 綏靖の子といわれるが、その可能性はありそうだ
神武一族は、全員が極めて短命である。神武の影響力も無くなり、懿徳の崩御をもって孝昭一族へ変わっていく運命であったようだ。神武一族の歴史は34年間である。
34年の根拠は、「神武と懿徳の34年のシンメトリック」に述べたので読んでいただきたい。

孝昭天皇一族と女王卑弥呼・台与(壹与)

「葛城王朝」には、神武以下、綏靖、安寧、懿徳、孝昭、孝安、孝霊、孝元、開化と9代の天皇がいる。上記の名称は漢風諡号(しごう)といわれ、天皇の死後に奉った「おくりな」である。また、「おくりな」は、生前の事績に対する評価に基づくと考えられている。
誰でもが気付くように、孝昭、孝安、孝霊、孝元の4天皇は「孝」で始まるが、なぜなのか。
「おくりな」の作者、淡海三船(722~785年)は、日本書記撰上の後に生まれたので編纂には関係していない。しかし日本書記撰上から五十年後には大学頭兼文章博士になっているから、日本書紀の記載内容および裏事情に通じていたと思われる。
その淡海三船が上記のような「おくりな」を付けたということは、神武~懿徳の4天皇と孝昭~孝元の4天皇とは、例えば、血縁関係に断絶があることを暗示していると捉える。
復元年代から見ると、神武即位162年~懿徳崩御195年で、神武一族はみな短命であり、4天皇の統治は合わせて34年であった。
なお、後述するが、孝昭天皇即位を女王卑弥呼擁立と看做すと、懿徳から孝昭への交代はある程度の権力闘争があったことも想定され、縁戚への交代というような甘い話ではないかも知れない。

孝昭天皇一族の年代は、卑弥呼・台与(壹与)の年代に重なる。卑弥呼の擁立の年代が不明であるが、孝昭即位196年及び孝安即位222or 223年という年代は、いずれも卑弥呼を立てたとする年代の範疇にある。さらに、孝昭即位196年~孝元崩御296年は期間が100年となるが、卑弥呼の崩御を247年とすると、卑弥呼在位51年・台与在位49年となり合計100年で上記の100年に一致する。それにしても話がうまく出来過ぎている感じである。
現在の日本書紀の復元年代は、孝霊即位は256年であり、現状では台与擁立の年代248年または249年とは7,8年食い違っている。孝霊の在位を12年としているが、四倍暦では19年であり、7年遡ると249年になる。

卑弥呼と孝昭の二人の王による統治

ところが、古事記の復元年代は、孝安崩御248年、孝霊即位249年と読める。卑弥呼の死んだとされる年代も、247年または248年とされる。
孝安の崩御年が卑弥呼死んだ年と一致し、孝霊の即位年が台与擁立の年代と合致するなら、邪馬台国は大和にあったことになる。古事記の結果は重みがある。

改めて、淡海三船が名付けた「孝昭」の意味を考えてみると、「卑弥呼を太陽に見立て、卑弥呼の発する光により照り輝く天皇」を意味することが分かった。
鳥越憲三郎氏が言うところの祭政二重主権の形態がここにある。卑弥呼は、祭事に専念する祭事権者である。孝昭は、政事権や軍事権を持つ。やまと国は、二人の王によって統治されていたのである。鳥越氏の見解と違うのは、本来兄弟姉妹である点が夫妻に変わっているところである。卑弥呼が亡くなったとき孝安が崩御されたように見えるが、必ずしも崩御とする必要はない。お役目が解けたのである。そして新たに、壹与と孝霊の二人による統治が始まった。