記紀の復元年代は、倭の五王が誰かを明らかにする
神武天皇から年代解読を始め、雄略天皇までの年代をほぼ明らかにすることができた。
中国史書の倭の五王(実質、六王)の年代は正しいというのが定説のようであり、筆者の知識では受け入れるしか能がない。とすると記紀の年代が間違っているということになる。
ここでは、倭の五王(六王)の年代に関わる天皇に関して述べることとする。
中国への最初の朝貢は、西暦413年の朝貢から始まる。復元年代において、応神天皇の崩御は403年であるから、五王(六王)から外すことができる。
仁徳天皇の即位年は、405年または406年であるが、まだ確定していない。しかし、いずれの場合であっても、413年の最初の朝貢より前になる。従って朝貢は仁徳天皇から始まったことになる。
履中天皇から雄略天皇までの年代解読結果は、既報「履中天皇~雄略天皇の年次表の解読」に述べたのでみていただきたい。
天皇と倭の五王(六王)の関係について、次の「表50 倭の五王(六王)の年表」に纏めたので見ていただきたい。
年代の齟齬
先ず、中国史書と記紀の年代との間に次のような齟齬がある。このため、倭の五王(六王)に相当する天皇が誰であるか分らなかった。
1) 反正の崩御年437年(古事記記載)と珍の朝貢438年の1年差
2)安康の崩御年456年(日本書紀記載、古事記記載なし)と興の朝貢462年の6年差
先ず、反正天皇と珍の関係を述べる。
允恭5年次に反正天皇の濱(もがり)の記事がある。濱は天皇が崩御された後、半年以内に行われるので、允恭の年代に何らかの年代の操作がなされたと考えられていた。しかし、そのことを踏まえた年代解読がなされたとは思えない。解読の結果は、既報「履中天皇~雄略天皇の年次表の解読」に述べたとおりである。反正の崩御年は2年下った439年となり、在位は2年増加した7年となる。従って、438年の朝貢は反正である。
安康天皇と興との関係
この場合は、允恭の崩御年が関わるのであるが、日本書紀記載の年代よりも6年下だり、459年になる。その結果安康の在位は、460年から462年までの3年間となる。462年の朝貢は興である。
倭の五王(六王) は誰か
仁徳天皇から雄略天皇までの各天皇の復元年代は、日本書紀と古事記の両方とも同じ結果が得られた。記紀の復元年代が同じとなるのは、重みがある。
以上より、次のとおり五王が誰なのか、全て明らかになった。
倭王讃:仁徳(405or406年~427年)、413年(不明)、421年(讃)、425年(讃)朝貢
倭王不明:履中(428年~432年)、430年の朝貢
倭王珍:反正(433年~439年)、438年(珍)朝貢
倭王済:允恭(440年~459年)、443年(済)、451年(済)
倭王興:安康(460年~462年)、460年(不明)、462年(興)
倭王武:雄略(463年~479年)、477年(武)、478年(武)、479年(武)
なお、502年は中国サイドの理由(建国祝賀)によるものであるとの鳥越憲三郎氏の説を採り、朝貢はしていない。