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2009年7 月30日 (木)

記紀の復元年代は、倭の五王が誰かを明らかにする  

神武天皇から年代解読を始め、雄略天皇までの年代をほぼ明らかにすることができた。
中国史書の倭の五王(実質、六王)の年代は正しいというのが定説のようであり、筆者の知識では受け入れるしか能がない。とすると記紀の年代が間違っているということになる。
ここでは、倭の五王(六王)の年代に関わる天皇に関して述べることとする。

中国への最初の朝貢は、西暦413年の朝貢から始まる。復元年代において、応神天皇の崩御は403年であるから、五王(六王)から外すことができる。
仁徳天皇の即位年は、405年または406年であるが、まだ確定していない。しかし、いずれの場合であっても、413年の最初の朝貢より前になる。従って朝貢は仁徳天皇から始まったことになる。
履中天皇から雄略天皇までの年代解読結果は、既報「履中天皇~雄略天皇の年次表の解読」に述べたのでみていただきたい。
天皇と倭の五王(六王)の関係について、次の「表50 倭の五王(六王)の年表」に纏めたので見ていただきたい。

表50 倭の五王(六王)の年表

年代の齟齬

先ず、中国史書と記紀の年代との間に次のような齟齬がある。このため、倭の五王(六王)に相当する天皇が誰であるか分らなかった。
1) 反正の崩御年437年(古事記記載)と珍の朝貢438年の1年差
2)安康の崩御年456年(日本書紀記載、古事記記載なし)と興の朝貢462年の6年差

先ず、反正天皇と珍の関係を述べる。
允恭5年次に反正天皇の濱(もがり)の記事がある。濱は天皇が崩御された後、半年以内に行われるので、允恭の年代に何らかの年代の操作がなされたと考えられていた。しかし、そのことを踏まえた年代解読がなされたとは思えない。解読の結果は、既報「履中天皇~雄略天皇の年次表の解読」に述べたとおりである。反正の崩御年は2年下った439年となり、在位は2年増加した7年となる。従って、438年の朝貢は反正である。

安康天皇と興との関係
この場合は、允恭の崩御年が関わるのであるが、日本書紀記載の年代よりも6年下だり、459年になる。その結果安康の在位は、460年から462年までの3年間となる。462年の朝貢は興である。

倭の五王(六王) は誰か

仁徳天皇から雄略天皇までの各天皇の復元年代は、日本書紀と古事記の両方とも同じ結果が得られた。記紀の復元年代が同じとなるのは、重みがある。
以上より、次のとおり五王が誰なのか、全て明らかになった。
倭王讃:仁徳(405or406年~427年)、413年(不明)、421年(讃)、425年(讃)朝貢
倭王不明:履中(428年~432年)、430年の朝貢
倭王珍:反正(433年~439年)、438年(珍)朝貢
倭王済:允恭(440年~459年)、443年(済)、451年(済)
倭王興:安康(460年~462年)、460年(不明)、462年(興)
倭王武:雄略(463年~479年)、477年(武)、478年(武)、479年(武)
なお、502年は中国サイドの理由(建国祝賀)によるものであるとの鳥越憲三郎氏の説を採り、朝貢はしていない。

2009年7 月26日 (日)

履中天皇~雄略天皇の年次表の解読

先ず、添付の「表28-1 履中~雄略の年次表の解読」を見ていただきたい。

表28-1 履中~雄略の年次表の解読

従来において課題とされたまま解決されていない点を年次表に基づき述べていく。
大きな課題は、次のとおりである。
1) 反正天皇の濱の問題(反正天皇と允恭天皇の在位が関係する)
2) 安康天皇の年代
3) 雄略天皇の在位の問題

解読方法の特徴日本書紀記載の「年月日の暗号」の説明
筆者は、日本書記に記載された年月日は暗号であると主張してきた。しかし、不完全な暗号であり、信頼性に欠ける代物である。だから、「暗号ではない」というなら、そういうことで構わないのだが、解読に役に立ち、有効であるとするなら、何と呼べばよいのだろうか。ということで、筆者は「年月日の暗号」と呼んでいる。
ただし、全ての年月日が暗号というわけではない。上記の年次表に「赤い太字で書いた数字」の部分が暗号に相当し、[ ]内は計算の根拠を示している。
「年月日の暗号」の例は、かなり多く蓄積できている。編者の数字の扱い方の中には、次のような独特な扱い方もある。例えば、11は2とする。12(十二)は、12そのままも場合もあるが、+2の場合や逆数20の場合がある。早い機会に、まとめて紹介することとする。
また、年次表自体は、「年月日の暗号」を用いなくても影響を受けないが、暗号によって裏付けが強化されていると考えている。
さらに、復元年代は、古事記の「御年」、「月日」「治天下年数」の暗号の読み取りによる復元年代と完全に一致している。

反正天皇の濱(もがり)について

反正天皇の濱(陵への埋葬前の葬送の儀礼の意味)の記事は、允恭5年次に記載されている。このため、崩御から5年もたった時期に濱が行われるのは異常であると考えられてきた。その辺りについては、「日本書記の真実」の著者である倉西裕子氏が「書記における14人の濱の記事」にしっかりと纏められている。
倉西裕子氏の調査の結果は、「反正天皇を除いて、全員が崩御後数カ月以内に濱が行われている。」とする。
筆者の解読結果を説明する。
反正天皇の最終年次は5年次で等倍暦(実年)で書かれ、崩御後に1年の空位年がある。それに対し、允恭天皇の年次は42年あり、2倍暦である。半分の21年が実年になる。従って5年次は3年目に当たることになるが、倉西氏の結果と比べると3年では多すぎる。
5年次がどの年代に当たるかを調べると、年次表に示した通り、反正天皇の在位は5年から7年に延ばし、允恭天皇の在位を21年から20年に変えると、全てが満足する結果が得られる。即ち、1月の崩御の6カ月後の7月に濱が行われていたのである。
もしかすると、允恭天皇の年代は2倍暦で記載されているから、春年の7月とすると4月かもしれない。それなら、崩御の3カ月後となる。
さて、上記の「年月日の暗号」は[39]を示唆し、濱の年代が西暦439年にあったことを裏づけてくれている。

倭国王珍は反正天皇

従来の問題点として、中国史書における「宋の文帝に対する倭国王珍の朝貢は西暦438年」とされており、反正天皇が437年に崩御された1年後になり、いろいろな説が提案されてきた。
解読された復元年代では、反正天皇の崩御は439年となり、反正天皇が倭国王珍として438年に朝貢したことが明確になった。
なお、履中天皇在位は428年~432年で、430年の朝貢は履中天皇による。
年次表に記載したとおり、允恭天皇は倭国王済で、安康天皇は倭国王興であり、雄略天皇は倭国王武である。この年次表には載らないが、仁徳天皇が倭国王讃(賛)である。応神天皇は年代から見て対象にはならない。
これで倭の五王(国王名の記載がない履中天皇を含めると、六王になる)はすべて明らかにすることができた。

雄略天皇の在位は6年減じた17年

日本書記の年代は延長されているが、実年に対する年代差を崇神天皇以降の各天皇の崩御年で追っていくと、安康崩御462年の段階において、6年の年代差が残っている。
従って、雄略元年は、記載年代457年に対し年代差6年を加算すると、463年になる。
年代差は、雄略2年次から7年次まで毎年1年ずつ解消され、7年次463年において消滅する。従って、基本的には元年から7年次までの7年間は463年となる。
しかし、この7年間には463年以外の年代の記事が混在している。例えば、雄略2年次の百済の池津媛の記事の正しい年代は不明である。5年次の百済の蓋歯王、昆支、武寧王誕生などの記事は、462年の出来事と考えられる。記事元の「百済新撰」などにおいて1年の狂いがあるとされているが、筆者は確認できていない。いずれにしても461年か462年であり、安康の年代である。残る記事、例えば、「葛城山に狩りをする」や「小野に遊ぶ」などの記事は年代を明らかにできない。
雄略天皇の崩御直前の記事は、中国史書および百済、高麗の記事で、年代が分っている記事である。479年以降の記事が存在しないため、崩御年は記載のとおり479年が正しいと判断する。在位は17年(463~479年)である。

古事記の崩年干支の読み取り年代との関係
古事記の崩年干支の読み取り年代と解読した復元年代を比較してみると、反正天皇崩御年437年に対し2年、允恭天皇崩御年454年に対し5年食い違う。それだけの食い違いしかないのだが、中国史書の年代から見ると、きわめて大きな影響を与え、倭の五王の年代は分らなくなっていた。
古事記の編者は正しい年代を知っていながら、年代を変えたのは、中国への朝貢を明らかにしたくなかったのであろう。この点、日本書紀も同様である。
さらに、雄略天皇は重要な位置付けにあったようで、日本書紀では、在位を17年から23年へ伸ばした。同様に、古事記では崩御を489年と、10年下った年代に延ばした。いずれの場合も、雄略天皇を重要視して在位期間を少しでも長くしたかったと考えられる。

2009年6 月13日 (土)

倭の五王の解明は、歴史学者の力量が試されている

先ず、五王に関して幾つか関係しそうなことを述べる。
1)記紀の両方に、五王の年代(特に允恭の年代)が正確に記載されなかったのはなぜだろうか。編者の立場を考えてみる。
記紀の編者は、中国に朝貢していることを隠したかった、とよく言われる。しかし、応神や仁徳や雄略において、朝貢に関する記事が記載されているから、完全に隠したのではない。天皇が毎回、朝貢することを記述したくなかったのだ。
そのためには年代の一部を中国史書の年代とかみ合わない年代にしておけばよかった。だから、記紀は正しくない1年違いの崩御年を書いたのである。それも允恭の崩御年を6年変えさえすれば、安康の年代も変化し、訳が分からなくなるのである。
しかし、日本書紀には必ず正しい允恭の崩御年が隠されているはずである。

2)学者らしい方々の五王に関する見解で、多くの皇子を持ち出しているのを見かける。天皇と皇子とは、地位ばかりでなく権力は全く異なる。そんな皇子が天皇に代わって朝貢を行うはずがない。もし、朝貢すれば、反逆の口実を与え、殺されてしまう。仮に皇子が代理として行ったとしても、皇子の名で朝貢は行なわない。単なる使いに過ぎない。要するに、皇子の名が中国史書に倭王として残ることはない。
皇子に関する記事としては、日本武尊の記事があるが、その他の皇子の記事は立太子や皇位を継ぐ意思の確認など僅かに出てくるだけで、ほとんど記録がない。そして、皇子が朝貢に関与したなどの記録は残っていない。あれば提示してもらいたいものである。
惑わす学者も問題であるが、それに乗る方も悪いのである。筆者は、皇子が二人以上の場合は疑う。数が多いほど信用できない。多分、五王以外においても根拠のないことを平気で作り上げる可能性がある。

3)復元年代を中国史書に書かれた年代と比較すると、出来過ぎと感じるのは筆者だけではないと思う。筆者は日本書紀に記載された「年月日」を暗号と見做して、真剣に読み取っただけである。
復元在位に関して、神武から雄略までの天皇で短い在位の場合は、次のとおりである。
在位3年:安康
在位4年:安寧
在位5年:綏靖、開化、履中、反正
在位7年:成務、仲哀
なぜ、3年、5年、7年の奇数なのかは[編者と陰陽道]などで述べてきたが、この点から考えても、安康、履中、反正のそれぞれの在位が真の値であるとは信じられない。