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2009年6 月13日 (土)

倭の五王の解明は、歴史学者の力量が試されている

先ず、五王に関して幾つか関係しそうなことを述べる。
1)記紀の両方に、五王の年代(特に允恭の年代)が正確に記載されなかったのはなぜだろうか。編者の立場を考えてみる。
記紀の編者は、中国に朝貢していることを隠したかった、とよく言われる。しかし、応神や仁徳や雄略において、朝貢に関する記事が記載されているから、完全に隠したのではない。天皇が毎回、朝貢することを記述したくなかったのだ。
そのためには年代の一部を中国史書の年代とかみ合わない年代にしておけばよかった。だから、記紀は正しくない1年違いの崩御年を書いたのである。それも允恭の崩御年を6年変えさえすれば、安康の年代も変化し、訳が分からなくなるのである。
しかし、日本書紀には必ず正しい允恭の崩御年が隠されているはずである。

2)学者らしい方々の五王に関する見解で、多くの皇子を持ち出しているのを見かける。天皇と皇子とは、地位ばかりでなく権力は全く異なる。そんな皇子が天皇に代わって朝貢を行うはずがない。もし、朝貢すれば、反逆の口実を与え、殺されてしまう。仮に皇子が代理として行ったとしても、皇子の名で朝貢は行なわない。単なる使いに過ぎない。要するに、皇子の名が中国史書に倭王として残ることはない。
皇子に関する記事としては、日本武尊の記事があるが、その他の皇子の記事は立太子や皇位を継ぐ意思の確認など僅かに出てくるだけで、ほとんど記録がない。そして、皇子が朝貢に関与したなどの記録は残っていない。あれば提示してもらいたいものである。
惑わす学者も問題であるが、それに乗る方も悪いのである。筆者は、皇子が二人以上の場合は疑う。数が多いほど信用できない。多分、五王以外においても根拠のないことを平気で作り上げる可能性がある。

3)復元年代を中国史書に書かれた年代と比較すると、出来過ぎと感じるのは筆者だけではないと思う。筆者は日本書紀に記載された「年月日」を暗号と見做して、真剣に読み取っただけである。
復元在位に関して、神武から雄略までの天皇で短い在位の場合は、次のとおりである。
在位3年:安康
在位4年:安寧
在位5年:綏靖、開化、履中、反正
在位7年:成務、仲哀
なぜ、3年、5年、7年の奇数なのかは[編者と陰陽道]などで述べてきたが、この点から考えても、安康、履中、反正のそれぞれの在位が真の値であるとは信じられない。

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