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2009年10 月 2日 (金)

文武天皇即位1357年の四倍暦339年の意味

この記事は、投稿済みの「日本書紀の編者は年代構成に何を考えたか」の記事の一部を抜粋し、少し筆者の見解を加えたものである。

日本書紀の最後の記事は、文武天皇の立太子と即位の記事であり、記載年代は神武暦1357年、即ちニニギ暦=西暦697年である。
神武天皇から仁徳天皇までの年数(合計在位)は4倍暦であるとしてきたが、神武天皇から文武天皇まで4倍暦であると仮定してみる。上記の1357年を4倍暦で読むと、339年となる。神武即位元年を復元年代162年に置き換えれば、日本書紀の最後の記載年代の4倍暦の年代は500年となる(厳密には、500.25年である)。

500年は、古事記の復元年代の計算式において、基準年として用いられている。500年に関しては別途「古事記の年代復元に用いる基準年「500年」の根拠」に述べている。

339年の数字遊びをしてみる

上記の339年とは、一体何を意味しているのだろうか。編者になったつもりで数字遊びをしてみよう。
3×3×9=81
81は、「81=9×9=九九」である。81は神聖な数字である。

日本書紀の最後の年(神武暦1357年)を4倍暦でみたから339年が得られた。2倍暦で読むと、678.5年となるが、こういう計算や数字は、意味がない。
4倍暦で81だから、2倍暦では162になる筈である。
162は、「九九=81」の2倍であるから、「九九×2=(9×9)×2=162」である。
162年は、復元年代における神武即位年である。数字が2個並ぶと「重陽」といい、数字が9なら「極まった重陽」である。数字が3個並ぶと「三重陽」といい、数字が9なら「極まった三重陽」である。それでも9が1個余ってしまうがどうしたものか。

いまでも中国では、9月9日を[重陽の節句(菊の節句)]としてお祝いし、999本の菊の花で飾るようである。日本では[重陽の節句(菊の節句)]は消えてしまった。菊の咲く時期が合わなくなってしまったからのようである。同時に、上記のような数遊びも忘れられ、神武即位年が162年だ」といっても、「162の意味」の重要さが分らなくなってしまった。
記紀(古事記と日本書紀)の編者が書き残してくれた古代の歴史を忘れ、思い出せないとは哀れなことである。」

ところで、339年は何だったのか。いつの間にか神武の数字の説明に変わってしまったが、最初は文武天皇の即位年(珂瑠皇太子の立太子年)神武暦1357年、即ちニニギ暦=西暦697年であったはずである。とすると、上記の数字の9が並ぶ「極まった重陽」の話は、文武天皇(珂瑠皇子)にも当て嵌められるということになる。
文武天皇は、697年15歳で立太子となり、同年に祖母である持統天皇から譲位され、即位した。707年に25歳で崩御され、在位は11年である。古事記が712年、日本書紀は720年に完成したとされるから、記紀の編纂は文武天皇の在位中に行われたのである。

神武天皇の年代は文武天皇の年代の投影か?
記紀の編者は文武天皇(珂瑠皇子)の経歴を十分に知っていた。立太子の年齢は、神武天皇と同じ15歳である。文武の立太子は西暦(ニニギ暦)697年であり、神武の立太子は西暦(ニニギ暦)前697年でシンメトリックを形成している。文武は25歳で崩御したが、神武が東征を成し遂げた25歳と同じである。
神武と文武とは性格が全く異なるという学者がいるが、東征を成功させた神武と大宝律令を完成させた文武を比較し、性格が違うのは当たり前のことである。それにもまして、神武東征に記載された記事は、創作なのである。性格で判断する必要性など何もない。(また、即位後の神武は欠史九代の一人にすぎず、文武とは関係ない。)
記紀の編者からすれば、文武の年代や年齢などの数字を神武に投影させたことで十分なのである。

追記
339年は4倍暦として計算された数字である。実際の年代を指す数字ではない。
話の方向はずれるが、実際の339年の方を見てみよう。
日本書記の記載に、特にこれはと思える記事はない。4倍暦の数字と実際の数字が一致しているだけだから、両者の間に関係が得られないのは当然である。
339年をニニギ暦と見做し、神武暦に戻してみると、660年加算した999年になる。
最初は文武天皇の年代からスタートしたのだが、このときの神武暦は、1357年であった。
神武暦1357年を4倍暦と見做し、1/4にすると339年になり、再び神武暦に戻すと999年になる。999とは、前に述べた「極まった三重陽」である
1357年から999年に至る過程には飛躍があるから、文武天皇に関係することではない。しかし、何か理由があってもよさそうだが分らない。

2009年8 月 4日 (火)

日本書記の在位と年齢の倍暦に関する一考察

日本書記の年代復元を行なうためには、倍暦に関する解明がなくして解明することはできない。試行錯誤はあったもののある程度の精度で「在位」を読みとることができた。

Wikipedia の「日本書紀」の注釈に次のようなことが記載されているのに気づいた。
『三國志』魏書 東夷伝 倭人にある裴松之注に引用される『魏略』逸文に「其俗不知正歳四節但計春耕秋収爲年紀」(その俗、正歳四節を知らず。ただ春耕秋収を計って年紀と為す)との倭の風俗記事があることから、1年を2倍にして年次を設定したとする2倍暦説がある。しかし2倍暦で『書紀』紀年の該当期間が矛盾なく説明できる訳ではないことから、学界では支持するものは少ない。(筆者も同じ見解である。)

筆者の年代解読は、神武即位年から開化崩御年までを「n×二倍暦」と見做し、解読を行ってきた。「n×二倍暦」も基本は「二倍暦」である。上記の「2倍暦」が文字通りの意味なら、「n×二倍暦」とは異なる。
「n×二倍暦」が用いられている神武即位年から開化崩御年までを該当期間とし、在位と年齢の倍暦について考察する。

「n×二倍暦」とは
各天皇の在位や年齢は、単純2倍暦を基礎とし、その上に延長分が加算されている。延長分は天皇ごとに異なるため、「n×二倍暦」として示している。すなわち「n」は各天皇固有の数値を持つ。ただし天皇全体では、「n=2」となり、「4倍」あるいは「4倍暦」と見做せる。

1.在位と年齢の解読と倍暦
各天皇の在位と年齢を復元する。その復元を通じて、「n×二倍暦」がどのように用いられているかを明らかにする。説明のため、事例として孝昭天皇の数字を用いる。
1)在位や年齢の解読には、日本書記に記載された宝算c、即位年齢d、立太子年齢eおよび最終年次年数(=崩御年齢)f、が必要になる。
注1)筆者の従来の記事では「崩御年齢」と表示してきたが、実の崩御年齢もあり、紛らわしいので「宝算」と呼ぶ。
  注2)最終年次年数は、崩御年齢である。(ただし2倍暦の数字である。)
それぞれの年齢は、直接記載されていない場合があるが、立太子年と立太子年齢から求める。孝昭天皇の数字を次に示す。
宝算c=114歳、即位年齢d=32歳、立太子年齢e=18歳、最終年次年数(=崩御年齢)f=83年(歳と読み替える)

2)宝算c、即位年齢d、立太子年齢eおよび最終年次年数(=崩御年齢)fの関係は次のようになっている。
宝算は、次に示す通り、即位の前年の年齢に最終年次数を加算した値である。
宝算c=(即位年齢d-1)+最終年次年数f
先ず、1)で求めた数字が正しいか、事例について確認する。
[宝算c114=即位年齢d32-1+最終年次年数83=114(数字の整合性が取れている)]

解読に用いる数字が正しく整合性を持った数字であるか確認することは重要である。事例の孝昭天皇の場合は正しい数字と確認されたが、同様のことを各天皇の数字に対し行うと、安寧天皇の宝算は記載では57歳となっているが、67歳の誤りである。ただし、以下に述べるとおり、宝算自体意味の薄い数字であり、実の年齢や在位には影響しない。

3)上記の宝算c、即位年齢d、最終年次年数f、の数字は2倍暦の数字である。あらかじめ実の数字である1/2の数字を求める。
実宝算c/2=114/2=57(歳)
実即位年齢d/2=32/2=16(歳)
実最終年次年数f/2=83/2=41.5(≒42)→f/2を実崩御年齢に読み替える42(歳)

4)実在位を求める。
実在位=実崩御年齢f/2-実即位年齢d/2+1
事例に当てはめると、次のようになる。
[実在位=実崩御年齢42-実即位年齢16+1=27(年)]

5)事例の場合の実数を基に、記載値の倍数を求める。
宝算の倍数=c/(f/2)=114/42=2.71倍
崩御年齢の倍数=f/(f/2)=83/42=(84)/42=2(2倍暦である)
注3)83年に空位1年を加算し、84年と見做す。
在位の倍数=83/27=3.07倍(n=1.54)

6)実立太子年齢e/2=18/2=9(歳)
注4)実立太子年齢は、実即位年齢と比較し、2倍暦か実年かを見極める。

7)孝昭天皇の事例に基づき考察する。
宝算について
日本書記は年次における元年を即位年と位置付けた記載をしているため、元年における年齢(即位時の年齢)を示さざるを得ない。
日本書記は、即位時の年齢に、実年齢の2倍暦の数字を用いることを基本としている。これを可能にするため、前天皇の年次表上に立太子の時期と年齢を設定している。宝算は、即位時の年令を基に最終年次まで延ばされた年齢である。

従って、孝昭天皇の宝算114歳は、即位年の年齢32歳に最終年次年数83歳を加え、1年減じた数字である。上記の説明では即位前年の年齢31歳に最終年次年数83歳を加えているが同じことである。
宝算を2倍暦とすると、57歳になるが、年次表の作成上から生まれた数字であり、それ以上の意味はない。ただし、100歳を超える年齢を想定して決めたシステムと考えることができる。宝算の倍暦2.71倍も特に意味をもたない。

年齢と在位について
年次表が2倍暦を基本にできている。
従って、即位年齢は、実年齢を2倍にした年齢としている。
同様に、最終年次年数は、実崩御年齢を2倍にした年齢に相当する。年次は年齢と考えればよい。
孝昭天皇の実即位年齢は、記載即位年齢36歳の1/2の16歳であり、実崩御年齢は、最終年次年数83歳の1/2の42歳である。
在位は、上記の実即位年齢と実崩御年齢から計算すればよい。

2.年次表における2倍暦
上記1.において、日本書紀に記載された数字から実年齢と実在位を解読した。年次表は2倍暦で作られていると述べたが、実感が湧かないであろう。
「表12-1 神武~崇神復元年代の詳細」を添付するので見ていただきたい。

表12-1 神武~崇神復元年代の詳細

孝昭天皇を例に説明する。
左側には、記載年代を書いている。年代の始まりをBC635年=神武26年次から始まるようにしているのは、この年代を即位年にすると解読しやすいからであって、最終的には,BC635年=神武26年次は、復元年代の西暦162年に移動する。左から5列目に移動先の西暦が示されている。
重要なことは、記載年代は1年ごとに書かれているが、復元年代に相当する西暦の年代は1年が記載年代の2年分に相当するように書かれている。すなわち、記載年代は2倍暦で書かれていることを示している。
孝昭天皇の年齢欄には、(二倍暦の年令)/(実年齢)の両方が書かれている。
復元年代と年齢欄を照らすと次の結果が得られる。
孝昭即位196年、32歳(実16歳)
孝昭崩御222年、83歳(実42歳)、在位27年
上記1.で得られた即位年齢と崩御年齢のときの復元年代が得られる。
表12-1から、日本書記の記載年代が2倍暦でできていることが証明される。
なお、神武即位年が、西暦162年であることに関しては、日本書紀に記載された「ニニギ降臨の暗号」の解読から得られた年代である。

説明は略させていただく。「日本書紀の紀年論と復元年代の紀元」を読んでいただきたい。

3.「n×二倍暦」の説明の中で、次のように述べた。
「n×二倍暦」の「n」は各天皇固有の数値を持つ。ただし天皇全体では、「n=2」となり、「4倍」あるいは「4倍暦」と見做せる。
このことについて、説明をする。
神武天皇から開化天皇までの記載された期間を、合計在位(空位を含む)としてみると、BC660~BC98年は、563年になる。神武暦の年代と同じである。
4倍暦と見做すと、140.75年(140年)である。
さて、復元された在位は、9人の天皇の復元された実在位をすべて加算すると、139年になる。神武崩御後の西暦176年は空位年である。空位年を含む合計在位は140年となる。
即ち、神武から開化までの期間(在位)140年は、復元された合計在位と同じになり、記載在位563年は復元在位の4倍になっている。
注4)記載在位から計算された140.75年は、141年としてはならない。編者の数字の見方は、「小数点以下は切り捨て」を原則としている。この場合、記載された崇神即位年BC97年は神武暦564年であり、1/4は141年となる。

4.孝昭天皇以外の天皇の在位と年齢
日本書記が2倍暦で書かれていることを孝昭天皇の例に基づき述べた。他の天皇も基本的に同じである。
在位計算は、
実在位=実崩御年齢f/2-実即位年齢d/2+1
である。この計算式[在位=f/2-d/2+1]を標準計算式と呼ぶ。
この標準計算式は、神武天皇から開化天皇までの、2倍暦で記載された天皇にしか適用できない。
また、当たり前のことだが、実崩御年齢f/2と実即位年齢d/2は、記載された情報から得られている。
「表6-1 天皇の在位計算(神武~開化)」および「表7 天皇の実年齢」を見ていただきたい。

表6-1 天皇の在位計算(神武~開化)

表7 天皇の実年齢

大半の天皇は、標準計算式に基づき、実崩御年齢、実即位年齢や在位が得られる。
標準計算式で直接得られない場合も、次のように読み替える必要がある。
綏靖天皇の場合、即位年齢52歳が4倍になっているから、1/4の数字13歳を用いる。
孝元天皇の場合、実崩御年齢を宝算116歳に読み替えればよい。(最終年次57歳は在位の2倍暦の数字である)
神武天皇は、多少説明を加えなければならないため、「神武天皇在位14年の根拠(まとめ)」を読んでいただきたい。

2009年6 月30日 (火)

日本書紀に用いられた4倍暦の年代変換表

神武天皇から仁徳天皇までは、4倍暦を用いている。
復元年代は、計算式でいうと3種類ある。そのことを理解しないと正しい復元年代は得られない。「表105 4倍暦の年代変換表」を見てください。

表105 4倍暦の年代変換表

1) 神武天皇即位年BC660年を基準にした年代変換(神武暦を用いた年代変換)
開化から応神まで適用されている。
2) 神武天皇太歳干支付与年(東征開始年)BC667年を基準にした年代変換
仁徳のみ適用される。神武から始まる4倍暦の最後の天皇として、特別な扱いである。
3)上記2)から7年を引いた年代変換
神武、孝昭、孝安、孝霊の復元年代に用いられている。
BC667年を基準とした計算に対し、7年分を引いているため、基準年がBC660年になっているが、BC661~BC667年の7年間は実年(等倍暦)であり、計算内に7年を取り込んだ後で、7年を引くため1)のBC660年を基準とした変換とは異なる。

1)と2)とは、1.75年(2年)の年代差を有する。
1)と3)とは、5.25年(小数点の関係で、5年または6年)の年代差を有する。

なぜ、3種類も年代変換方法があるのか
開化以前と崇神以降の作成年代が違うため、基準の取り方が変わったことが考えられる。開化と崇神の接続が悪いのは、このためかもしれない。
実際に年次表から解読すると、開化天皇までは2倍暦を基本にし、それをn倍している。言い方を変えれば、n倍の部分を削除すると、有効年代は2倍暦になっている。即ち、記載された有効年代の2年分が実1年である。なお、神武天皇から開化天皇までの期間(空位年を含めた合計在位)は、n倍が2倍になっているから、2倍暦の2倍と考えてよい。従って、期間に関しては、4倍と見做せる。
崇神天皇の場合は、即位前までは、上記の手法に従っているが、即位302年以降は実年を4倍にしている。4倍は仁徳まで続く。
同じ4倍の表現となっても意味は全く異なる。その際に、4倍暦の基準の取り方が変わったと考えられるのである。
また、編者らはあらゆる面で一律で処理することを嫌っている。その表れと考えることができる。

年代変換の基準年?
年代変換表には基準年として、161.75年と161年の2通りを記した。計算上は161.75年が正しい。しかし、編者がそのように計算したかどうかを考えなければならない。
便宜的に、161年の計算を記したが、161年は実年で正しい年代である。この場合も小数点以下の処理に疑問が生じる。1年程度の誤差があると見なければならない。

4倍暦の利用の仕方
4倍暦は、期間の計算において有力であるが、年代との関係は問題が多い。3種類の年代変換方法があることも、どれが正しいか明確にできない原因になっている。
さらに、次の点は極めて重要である。
単純に計算された年代を用いたとは言い切れない。例えば、仁徳崩御の年代は計算上248年の可能性があるが、もともと正しい年代が分っていたかどうか疑問である。とすると、248年という数字は、凶に当たり、選択されることはない。247年が浮上するのは多分その辺の事情があるものと考えられる。要するに、4倍暦にしがみつくと誤る恐れがある。」

2009年6 月19日 (金)

日本書紀に用いられた倍暦(春秋二倍暦、四倍暦)の手法

日本書紀の年代や在位は大幅に延長されている。この年代や在位の延長のため、1年を2倍の2年にしたとか、4倍にしたとか、諸説ある。その考えの代表的なものに、「春秋二倍暦」があるが、中国史書に「春の耕作期と秋の収穫期をもって、年紀とした」との記事から取られたもので、この「春秋二倍暦」が日本書紀において用いられたという主張である。
しかしながら、「春秋二倍暦」」をもってしても年代復元ができなかったのは、幾つかの理由がある。記紀の編者がどのような方法で年代や在位を延長したか述べる。

最も重要なことは、日本書紀の年代解読を一つの基準に当てはめようとしても、解決しないのであり、年代や在位の延長に関しても同様である。編者らは年代や在位を延長させるために多くの手法を編み出し、実行したのである。
その目的は、①国の正史として重厚なものに作り上げた。年代延長の嘘が見え見えでは失敗であるし、軽い、お粗末なものと看做されてしまうのを恐れたのである。
②編者らは知的な遊び心を持っている集団であり、アイディアを好み、競い合い、取り込んだのである。時代もそれをよしとしたのであろう。結果として、年代を延長したと分かっていても、正しい年代や在位の復元を困難にした。
③実際にどのような倍暦が用いられているかというと、筆者の解読結果では、等倍(1倍、実年と同じ)から30倍の倍暦が用いられている。
在位に限ってみると、2倍から約10倍である。(復元在位が変わると、倍率も変わってしまう)

神武~開化に用いられた「倍暦」の手法

各天皇の在位は「n倍×二倍暦」である。基礎としての二倍暦があり、さらに、その上に年数が加算(上乗せ)される。
各天皇は個々に決められた倍数(数倍から十数倍)になっている。
各天皇の合計在位は「n=2 」となり、4倍になっている。

「n倍×二倍暦」とは
神武から開化までは「二倍暦」が基礎になっているが、それでは年代延長が不十分であった。このため考え出されたのが、「二倍暦」を基礎にし、さらに「n倍」にすることであった。一律で2倍にしたのではなく、各天皇の年代を、陰陽道などで選ばれた年代に合わせ込むため、各天皇の倍数には自由度を持たせ、実年から見れば数倍から約10倍に延長した(二倍暦を基準にすれば上記倍数は1/2になる)。

神武の倍暦は特別である。太歳干支の付与されたBC667年から始まる。記載在位は83年であり、1/4は20.75年であるが、そこから7年を差し引くと、13.75年≒14年が在位になる。差し引いた7年は実年であり、これにより、神武即位年BC660年から在位計算を始めることができる。倍数は、76/14=5.42倍になるが、意味はない。
神武~開化の年数はBC660年からBC98年で在位563年に相当する。1/4は140.75年となり、開化崩御年は301.75年になる。復元年代は162年から301年までの在位140年である。
563/140=4.02で、約4倍になっている。

各天皇の例として、開化を取り上げる。
開化の最終年次は60年次である。この60年の内訳は、50年分が延長増加分であり、10年分が有効部分である。そして10年の有効部分は二倍暦であるから、実在位は1/2の5年となる。従って、n=60/10=6倍であるが、実在位から見ると、60/5=12倍である。
注2)分かりやすく説明するため、開化の有効部分を10年として説明したが、実際は9年である。

「春秋二倍暦」について

編者は編纂のために集められた元資料に、実際に「春秋二倍暦」の事例を見ていたと思われる。神武~開化の記事から春年と秋年の区別はつかない。記事は創作である。編者は、「春秋二倍暦」の春秋の区別を捨て、0.5年を単純に二倍して1年とする「二倍暦」を用いていたと考える。いずれも実質の延長度合いは同じである。
筆者は「二倍暦」の考え方であり、「春秋二倍暦」と「二倍暦」とは考え方としては別であると思っているが、解読において特に区別をしていない。筆者の「二倍暦」には「春秋二倍暦」も含まれる。

注意しなければならないのは、「延長」という表現である。二倍暦自体で二倍に延長されている。その二倍暦の上に年数の加算(上乗せ)があり、ここでも延長される。二倍暦も加算(上乗せ)も延長に変わりがない。筆者は二倍暦という表現に、既に延長分が含まれているものとして扱っている。

崇神~仁徳に用いられた倍暦の手法

神武~開化の倍暦は、4倍になっていると述べた。
崇神即位年から仁徳崩御年までの年代も4倍になっている。従って、神武から仁徳まで4倍である。(筆者はこれを「四倍暦」と呼んでいる。)

仁徳の倍暦は、神武の場合と同様に「からくり」がある
仁徳崩御年は、神武暦1059年である。1/4は264.75年である。復元年代は427年である。
神武の復元年代は162年であるから、425.75年となり、427年にはならない。
1059年に7年を加え、1066年にしなければならない。神武の太歳干支の付与された年を基準に計算するのである。在位は266.5年で、復元年代は427.5年となり、一致する。

各天皇の在位の倍暦は、個々の天皇によって異なる
仲哀の例では、記載在位が9年であるが、実年で書かれているため、実の在位も9年である。倍暦は等倍(1倍)である。
筆者は、神功皇后の在位はないものとみている。神功皇后に記載在位69年の1/4は、17.25年であるが、在位ゼロ年としているから、17.25年は他の天皇に振り分けられる。従って、各天皇の倍暦は4倍とはならない。

注目すべき点は、「n倍×二倍暦」の考え方を採用していないことである。
崇神においては、次の二通りの解釈ができる。
「n倍×二倍暦」では、68年の1/2が34年であり、34年が二倍暦であるから復元在位は17年となる。
四倍暦では、68年の1/4は17年である。
崇神の場合は、年代構成の方法が変わる過渡期として、両方の読み方ができるだけである。