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2009年10 月30日 (金)

神武天皇在位14年のシンメトリック

日本書紀の編者は、シンメトリックを年代構築のための主要な手法として位置付け、多用した。年代解読の初期の段階で、シンメトリックが果たした役割は大きい。最近は、記載年代のシンメトリックではなく、復元年代にも有効なシンメトリックがあるのではないかと考え、チェックしてきた。

表題の神武天皇の在位14年に関わるシンメトリックは、何でこんなことをしたのか疑いたくなるほどの、奇妙なシンメトリックである。それだけでも紹介する価値があると思われる。また、神武~懿徳の4天皇が関係する在位14年のシンメトリックは、各天皇の在位を明らかにする最重要のシンメトリックである。
添付する「表12-1 神武~崇神復元年代の詳細」を見ていただきたい。

神武天皇在位14年のシンメトリック
筆者は、このシンメトリックを「神武天皇在位14年のシンメトリック」と名付けてみた。「神武復元在位と延長在位のシンメトリック」でもよいかも知れない。
神武天皇の復元在位は、神武即位26年次、神武26歳から神武崩御52年次、神武39歳までである。その期間(在位)は、年次では27年次あり、年齢では14年である。なぜ年次の数字と年齢が異なるかというと、年次は2倍暦でできているが、年齢は2倍暦を解消した数字である。
他方で、神武崩御翌年53年次、神武39歳以降は神武の年代が延長されている。年代の延長の終わりは、神武79年次、神武52歳までである。その期間は年次では27年次、年齢では14年である。
年次で27年、年齢で14年のシンメトリックが成立する。14年は神武の復元在位である。
神武76年次からややこしい計算で、0.25年足りないとかやっていることからすれば、神武の年齢のシンメトリックからは、ズバリ14年の在位が得られる。

このシンメトリックが示唆すること
ところで、このシンメトリックの面白いのは、「実の在位」と「延長された部分(架空の在位)」のシンメトリックである。そのように理解すれば、神武の年代が2倍暦を基本にしてできていることが分る。極めて重要な示唆を含むシンメトリックである。
また、神武崩御の後の3年の空位の位置付けも、神武の年代に関与していることを示唆する。即ち、日本書記の編者は、神武79年次に記載された皇子間の争いも、神武天皇に関わる出来事であるとしている。

もう一つの「14年のシンメトリック」最重要
14年のシンメトリックは、もう一つある。上記の「神武復元在位14年」と対になるシンメトリックであり、神武66年次から神武93年次までの28年次(14年)である。このシンメトリックの特徴は、シンメトリックの間に空位2年(実1年)と綏靖の在位実5年を取り込んでいる。また、シンメトリック自体は、安寧在位実4年と懿徳在位実14年からなり、合計14年になる。
このシンメトリックは、神武、綏靖、安寧、懿徳の4天皇が関係する極めて重要なシンメトリックである。各天皇の在位と空位の合計年数は実34年となる。
筆者が、別途紹介している「神武天皇と懿徳天皇の34年のシンメトリック」と一体で考なければならない。このシンメトリックは、上記34年のシンメトリックが示せない個々の天皇の在位を明らかにする点で、最重要なシンメトリックである。

神武天皇と懿徳天皇の34年のシンメトリック

日本書紀の記載上のシンメトリックは、「シンメトリックの最高傑作を紹介する」で述べている。
筆者は、上記以外にも、記載上のシンメトリックを数多く発見した。日本書紀の編者は、シンメトリックを年代構築のための主要な手法として位置付け、多用した。年代解読の初期の段階で、シンメトリックが果たした役割は大きい。しかし、シンメトリックは、重要な手法であるが、復元年代の決め手になるかといえば難しい面がある。根拠が弱いためである。

シンメトリックは年代構築のための主要な手法

復元年代においてもシンメトリックが存在する。有効なシンメトリックかどうかは、読まれる方々の判断に任せるが、次のシンメトリックは復元年代の正しさを判断するために極めて有効であり、重要なシンメトリックと考える。
「表12-1 神武~崇神復元年代の詳細」に基づき、「神武天皇と懿徳天皇の34年のシンメトリック」を説明する。

表12-1 神武~崇神復元年代の詳細

「表12-1 神武~崇神復元年代の詳細」は、数人の天皇の年齢の動きを一表にまとめた「合成年次表」であり、2倍暦で書かれている。「合成年次表」の記載年次の欄は、神武の年次である。復元においては、西暦前660年が神武1年次(元年)であるが、復元では前660年が神武誕生年であり、前635年を即位年とするため、神武26年次から始まっている。
神武の在位欄は、前635年の即位年を元年(1年)としたときの神武の在位を示す。
なお、「合成年次表」が前635年の即位年から始まっているのは、復元の作業をし易くするための便宜的なものである。復元年代(西暦)の欄に記載した「162年」が「前635年、神武26年次」に対応する正しい復元年代である。

懿徳天皇の年代
懿徳については、「安寧11年、安寧40歳。このとき懿徳立太子16歳」と記述されている。
上記を基づき、合成年次表上を見ると、神武75年次のとき、安寧40歳、懿徳16歳である。
懿徳誕生年は西暦前601年、神武60年次にたどり着く。
懿徳崩御は、懿徳年次表の34年次が該当し、34歳である。合成年次表における懿徳崩御の年代は前568年、神武93年次であることが分かる。

シンメトリックの存在を確認
記載年次で見ると、神武側は神武26年次(復元在位1年)から59年次(復元在位34年)までの34年間、懿徳側は神武60年次(復元在位35年)から93年次(復元在位68年)までの34年間の、片側34年間のシンメトリックが成立している。
34年のシンメトリックの合計年数は64年であるが、上記の表は2倍暦であるから、実年に置き直すと34年となる。

神武一族の在位は、34年
34年は、神武即位から懿徳崩御までの神武一族4代の合計在位であり、実の年数である。即ち、神武一族が在位したときの復元年代は、西暦162年から195年までの34年間である。(次は、「孝」が名前の頭につく孝昭一族の時代になる。)
シンメトリックの威力を理解していただけたであろうか。

2009年10 月13日 (火)

仮説:記紀における雄略天皇崩御年の復元年代を考える

日本書紀の記載年代と復元年代が一致するのは、雄略崩御479年である。
(ただし、雄略以降の記載年代が正しいかどうかは別である。)雄略天皇以前の年代は、徐々に年代が延長されていく。
それに対し、古事記の記載年代と復元年代が一致するのは、神武誕生137年、崇神崩御318年、仁徳崩御427年、履中崩御432年であり、その他の天皇の年代は一致していない。
雄略天皇崩御489年は正しい復元年代とはいえない。10年の狂いがあると見做している。
なぜ古事記の記載年代が、復元年代に一致したり食い違ったりしているのかには理由がある。

古事記の記載年代が、復元年代に一致したり食い違ったりする理由

古事記は、日本書紀と同様に正しい復元年代を「御年や月日や治天下年数」に隠した。また、古事記は実年を基本に書かれた書物であり、年代を延長していないため、正しい年代を記載するのは容易であった。しかし、日本書紀と共通の考え方をもっていた。神功皇后の設定であり、新羅征討に関する記載である。このため、垂仁から応神までの記載年代を記載年代を日本書記の年代と連動させる形で創作した。垂仁から応神まで正しい年代と一致しない理由である。
さらに、反正天皇以降、雄略天皇までの記載年代が復元年代に一致しないのは、恐らく中国への朝貢を書きたくなかったのであろう。これについても日本書記と同じ考え方である。

古事記が、雄略天皇の崩御を10年下った年代に設定したのは、日本書紀の479年に多少の疑問をもっていたのかも知れない。古事記の解読では479年と485年が読み取れるからである。
現在、筆者の解読は雄略天皇までで、顕宗天皇以降は課題としている。従って上記の485年に対する見解は保留したい。その前に、雄略崩御489年について以下に述べることとする。

古事記の編者は、日本書記と同じ年代を表示することを嫌った。日本書記の479年という数字を避けた結果といえる。日本書記の編者に対する対抗意識である。
489という数字が479という数字よりも、吉・凶を比較し、より良い数字であると判断した可能性もある。

シンメトリックの観点から見た489年の意味
筆者は、年代のシンメトリックを重視している。
「表112 古事記の河内王朝と日本書紀の葛城王朝のシンメトリック」を見ていただきたい。
併せて、「表112-1 古事記の記載年代と中国史書における朝貢の比較」を上記表に載せている。

表112 古事記の河内王朝と日本書紀の葛城王朝のシンメトリック

ここでは年代の一部を取り出しているので、「シンメトリック」と言っても、「類似性」や「歴史の繰り返し」を指す。
古事記の記載年代と中国史書の比較は、古事記が朝貢を考慮したことが伺える。また、古事記の489年は、日本書紀の479年を意識したと同時に武の最後の朝貢479年を考慮して10年を加算したのかもしれない。
10年加算すると、日本書記の葛城王朝の復元年代(古事記の葛城王朝の復元年代でもある)と類似した年代構成になり、それは「歴史の繰り返し」を表しているのである

ついでに言えば、489年は古事記編者の創作であり、正しい復元年代と見る必要はない。
上記の仮説は、少し考えれば思いつく常識的な仮説である。
古事記の編者が延長した10年の中には何があったのだろうか。
日本書記は、487年を顕宗天皇の崩御の年とする。古事記は顕宗天皇の治天下(在位)の年数を8年とする。仮に487年が正しい復元年代であるとすれば、そして、古事記には清寧天皇の御年や月日や治天下年数」などの数字の記載はない。古事記の顕宗天皇の在位8年が正しいとすれば、清寧天皇の在位はないことになる。これも仮説であり、これからの検討課題である。

なぜ、編者はシンメトリックを多用したか

記紀に対する学者の大半の方が、「記紀には当時、勢いのあった陰陽道の影響が見られる」と主張されている。編者は陰陽道を身につけた人々であると主張している筆者にとって異論があるはずがない。
ところで、記紀のどこに陰陽道の影響が現れているのだろうか。天武天皇が陰陽道に凝っていたというのは分かるが、記紀と天武天皇をごっちゃにしていないだろうか。
せめて、陰陽道が数字に表れているくらいは言ってもらいたいところである。

さて、陰陽は、表と裏である。延長した年代を表とすれば裏は復元される実年代である。しかし、このことが、陰陽道の影響を受けたことであるとするのも変である。
陰陽師は、陰陽を万物に当てはめ、事柄の吉凶や是非を判断し、人々に伝えた。それには種々の占術が必要であった。時、事柄に応じて最適の占法を用いた。人々はそれらを占術や占法という。筆者が述べたいことは占法ではなく、技法と理解できるところである。
編者は記紀編纂において、神武以下三十三代あるいは四十一代の天皇の物語を作成するに当たり、一つの重要な技法を用いた。それが対称(シンメトリックあるいはシンメトリー)である。表・裏だけでなく、左・右、上・下、前・後、全て陰と陽の対称である。特に日本書記は多くのシンメトリックで構成されている。シンメトリックは重なり合っている。物語の始めから終りまでシンメトリックである。
シンメトリックには中央、左端(上端)、右端(下端)の重要な基準点(年)がある。編者はそれらの基準点(年)に天皇の即位、崩御を当てた。シンメトリックの左端(上端)で示された在位は右端(下端)の在位と対称(同じ在位年数)である。

上記のシンメトリック記述は記紀の年代の表と裏を区別しないで一般論として述べたものである。言い方を変えれば、表である記紀に記載された年代には表のシンメトリックがあり、裏である実の年代には裏のシンメトリックが存在するはずである。
日本書紀の表(記載上)の年代構成は、「37の倍数のシンメトリック」で完全に説明ができる。編者は年代の構築に「37の倍数」を活用したのである。
裏(復元年代)おいてもシンメトリックが存在する。代表的なものに、「神武時代の14年と34年のシンメトリック」が存在する。
とすれば、表と裏のシンメトリックはどのように結びついているのか、その関係については興味が尽きないところであるが、現段階では復元年代が完成していないため、課題であるとしかいえない。

編者は、なぜシンメトリックにこだわりを持ったのか

シンメトリックを直訳すれば『対称』ということである。日本書記の年代の構成には多くのシンメトリックが存在している。約1300年を、シンメトリックの技法を用いて安定感のある年代構成に作り上げた。このような解釈は『対称』と結びつけられる。しかし、それだけでは単純すぎる解釈である。

讖緯思想というのがある。60年の21回目の1260年後辛酉の年に大革命が起きる。60年目、120年目、240年目、360年目、420年目の辛酉の年には天変地異や小革命が起きるという。「歴史は繰り返す」という思想である。
編者は、延長した歴史を創作しなければならなかった。伝承などを活かそうとしたかもしれないが、年代は分らない。上記の讖緯思想に見られる60年刻みの数字は固定された数字であり、編者にとっては役に立たない数字である。頼れるのは、『歴史は繰り返す』という考えであり、それを可能にする技法が、シンメトリックの技法であり、編者自らが想定した年数をシンメトリックとして表すことができたのである。

シンメトリックは、ある基準となる点(年代)を境に対称となることを指す。
数字で説明する方が分かりやすいかも知れない。例えば、数字が1、2、3、4、4、3、2、1と並べば、4と4の間が基準になり、シンメトリックである。
ところが、数字が1、2、3、4、1、2、3、4、と並べば、繰り返しであり、シンメトリックとは呼ばない。しかし、1~4をに置き換えれば、AAとなり、の間が基準になり、シンメトリックである。即ち、編者にとっては、順行も逆行も同類なのである。
18という数字は、順に読めば18であるが、逆に読めば81である。編者は極めて関係の強い数字として捉える。

筆者は記紀の解読を始めた最初から「シンメトリック」を年代解読の一手段として活用してきた。「対称」という考えが中心にあったが、現在では「繰り返す」とか「反復」という考えを加えた意味で用いている。
表題の「なぜ、編者はシンメトリックを多用したのか」は、「編者は、『歴史は繰り返す』、と考えていた」からである。

2009年8 月12日 (水)

日本書記の年代復元モデルのシンメトリック

念願の復元モデルのシンメトリックの図表が出来上がった。日本書記記載年代のシンメトリックの図表とは対をなす。これによって、両方の図表を比較検討することができ、次の点を解明できるかもしれない。図表を添付するので、ご覧いただきたい。

表S1-1 日本書紀の在位のシンメトリック

表S1-2 日本書紀の復元モデルのシンメトリック

筆者は当初から日本書記の年代に関して、「シンメトリック」を年代解読の手法として活用してきた。その後、編者が用いた「37の倍数」や「月日の暗号」などの手法に気付き、解読を進め、現在に至っている。
今思うのは、「シンメトリック」は、多くのヒントを与えてくれたが、その信頼性から年代を決定するものではなかった。上記に述べた、これからの検討においても同様であろう。重要なのは、解明のヒントが得られれば有難いということである。

復元モデルで気付くことは
1.全体に、34(実際には34~37)の数字がみられる。各天皇の年齢の解読は途中段階にあるが、神武~開化の9人の平均寿命は34.6歳であり、神武~仁徳の16人(神功は除く)の平均寿命は35.9歳である。34の数字は平均寿命と関係している可能性がある
在位と組み合わせると、世代数や一世代の年数が導き出せると思われる。一般的に一世代(活躍していた年数)を25年くらいとする見方があり、平均年齢からみるともう少し少ない年数になりそうである。仮に一世代(活躍していた年数)を25年とすると、神武~開化まで少なくとも5世代~6世代となる。系図に詳しい方々の4世代という見方は誤りの可能性が高い。
2.年代構成がどのように行われたかを知るためには、「年代の区切り」を探すことになる。
  例えば、成務と仲哀との間や、安康と雄略の間には区切りがありそうに見える。日本書記は雄略から書き始めた、という見解とも一致する。
3.シンメトリックは数多くみられる。最も主要なのは210年のシンメトリックである。これを小分けすると、140年と70年になる。正確で、正しい年代と思われる顕宗から推古までの141年が、神武から開化までの140年の正しさを示唆する。同様に舒明から持統までの69年は、崇神から成務までの70年の正しさを示唆する。

なお、シンメトリックを認めるということは、整然とした年代構成が存在するということに繋がる。天皇の崩御の年代が数字で決まるはずがないのは当然のことである。それを受けてランダムな(規則性のない)年代を期待するのは期待外れに終わる。崩御の年代が分かっていなかったとしたら、どうなのかである。また、吉・凶の縁起の悪い年代を用いるだろうか。さらに元資料の段階も、作りこむ過程が何段階かあるとしたら、どうだろうか。そのような状況の中では、編者は陰陽道やある種の数学(シンメトリックを含む幾何学)により決めるしかない。シンメトリックなどの幾何学的な年代構成をもった復元年代は、編者が持っていた、正しい年代であると考える方が妥当と思われる。
日本書紀の前半においても、なにがしかの年代の根拠があったことまでを否定しないが、編者はそれらの情報に基づき、年代の再構成をはかった。即ち、年代は編者によって創作された。しかし、たとえ復元年代が創作だとしても、古代史を見るためには、復元年代が必要なのである。

神武天皇在位14年の根拠(まとめ)

神武の在位が、14年か19年か、長い間争われている。両方に何らかの根拠があるからだろう。ここが定まらないと、綏靖、安寧などの年代も決められない。
筆者も14年と19年の間を行ったりきたりしてきたが、現在では「神武在位14年」の考えに落ち着いた。
神武の即位年162年や、崇神崩御年318年は変わらないのだから、どうでも良いのかもしれない。筆者の場合、最近は年代の復元よりも記紀の年代の構成についての方に関心が移ってきていて、結構楽しみながら解読を進めているのである。

本題の「神武在位14年の根拠」についてであるが、次の点に問題があり、在位19年を否定できないでいた。
日本書紀の各天皇の解読結果からは、
・天皇の崩御の最終年次が崩御年である。
・在位もこの崩御年に絡む。(主要な天皇において、在位は、最終年次年数の1/4である)
神武崩御の最終年次は76年であり、上記の考えに従い、仮に76年が四倍暦とすると19年が在位になる。
神武こそ主要な天皇の頂点にいるのだから、上記の考えに対し、納得できる根拠がなければ在位14年は成立し難いのである。
筆者は、この答を得ることが出来たので説明する。
「日本書紀には何人の神武がいるか」において述べたように、三人あるいは四人の神武が読み取れる。いろいろな要素を神武に託したのであろう。それに比べ、他の天皇は二人の人物しか読み取れない。一人は即位までの年齢分を前天皇の記載に組み入れた、延長された人物であり、宝算の崩御年齢を有する。
特に、神武の宝算は、神武即位前の51歳と即位後の76歳を加算し、127年としたものであり、100歳を超える宝算は天皇の偉大さを示すには手頃な数字だったのだろう。それ以上の意味はない。
二人目の神武は、即位元年、1年次を誕生とし、最終年次年数が崩御の年齢となる人物である。これについて検討をしていく。

1)合成年次表の作成
筆者は、日本書記の復元年代を求めるため、さまざまな角度から解読をしてきた。
「表12-1 神武~崇神復元年代の詳細」(合成年次表)を診ていただけば分かるはずである。
「合成年次表」は、それらをすべて取り込み、集大成したものである。ポイントを述べれば次のようになる。
①神武即位年は、即ち神武元年、BC660年は神武の誕生年である。
神武即位52歳を2倍暦と見做し、実26歳で即位したとする。従って、仮の復元年代(第1次復元年代)として、神武26年次、BC635年を神武即位年とする。
②復元年代は、神武即位年を西暦162年としている。
根拠は、神武紀に記載されたニニギ降臨の暗号「179万2470余歳」の解読結果による。
③チェック事項の拾い上げ
年代(年次)および年齢に関係する記載内容、例えば、誕生、即位、崩御の年代および年齢を拾い上げた。
年齢は2倍暦で記載されていることを前提として、実年齢を加えた。
また、年代(年次)と年齢に基づき、天皇間の年齢関係を重視し、年次表の正しさを確認するためのチェック事項とした。(例、神武42-14綏靖立太子)

2)神武崩御年を探る
神武紀および綏靖紀には、綏靖立太子の年代と年齢に関する記事がある。上記の例に記した[神武42-14綏靖立太子]である。例に示すように、年代、年次、歳などは記載していない。例の場合、[神武42-14綏靖立太子]の正解は、年次表によれば、記載神武42年次(神武の記載年齢42歳、実年齢34歳、復元年代170年)のとき、綏靖が記載年齢14歳(実年齢7歳)であることを示す。
年次表をたどれば、綏靖が実14歳に達したとき即位したことになる。「立太子」は「即位」に読み替える必要がある。立太子の記載年齢14歳は実の数字であることが分る。
神武崩御年に関しては、綏靖の即位年代が神武56年次、記載年齢56歳、実年齢41歳、西暦177年であり、在位31年(実16年)であることから、それより前であることが分る。これによって、神武の実在位19年はあり得ないことになる。
記載内容から、神武崩御の後に記載3年(実1.5年)空位があること、神武宝算127年の百減は27であることから、神武崩御は神武52年が在位27年に相当することが分かる。
年次表から、52年次と53年次が同年であり、神武実年齢39歳、実在位14年と判断される。

●綏靖立太子の記載年齢14歳が正しく、立太子を即位と読み替えてよい。
 合成年次表によると、即位157年の前年156年に14歳となっている。
 綏靖前紀の記載でも、即位の前年に兄神八井耳命が神渟名川耳尊(綏靖)に天皇位を譲ると書かれていて、解読結果と一致する。

3)シンメトリックによる在位の確認
①神武~懿徳の34年のシンメトリック
「神武の時代」とは、狭い意味では神武と綏靖である。日本書紀の年代構成上のことであるが、神武の崩御年(神武79年次)と綏靖の崩御年とは同年である。綏靖は神武の分身のようである。
「神武の時代」をもう少し広い意味で捉えると、懿徳までである。懿徳崩御34歳(34年)は懿徳の誕生年を基準としたシンメトリックからなる。
シンメトリックの一方の先端は神武即位元年、BC635年であり、基準年はBC602年とBC601年の間にある。シンメトリックの他端はBC568年である。基準年に対し34年[635-602+1=34と601-568+1=34]のシンメトリックである。
また、復元前の数字であり、2倍暦である。従って、34年のシンメトリックは、合計68年であり、実年に復元すると34年となる。復元では神武即位から懿徳崩御までの合計在位が34年であることを示している。

●別角度からの補足
神武即位年のBC635年は、復元年代に置き換えれば西暦162年である。
懿徳崩御年のBC568年は、懿徳34年次のBC477年と同じである。懿徳崩御の復元年代は神武から懿徳までの合計在位34年から求めた西暦195年となる。[162+34-1=195]
なお、懿徳崩御の翌年の空位年はBC476年で、神武暦に直すと185年になり、「37の5倍」となる。年代の区切りであることを示している。
なお、上記のシンメトリックからは、神武即位から懿徳崩御までの合計在位が34年であることを示すが、直接的に神武在位14であることを示してはくれない。

②神武の14年のシンメトリック
神武は26年次26歳で即位し、神武52年次39歳で崩御された。14年の在位である。[52/2-26/2+1=14、または39-26+1=14]
他方、53年次39歳から79年次52歳までの神武崩御後の仮想の在位計算は14年となる。[79/2-53/2+1=14、または52-39+1=14]
これは、神武復元在位と仮想の延長在位のシンメトリックである。神武の復元在位は、14年となる。

4)神武太歳干支付与年を基準とした4倍(4倍暦)の計算
一般に太歳干支は、各天皇の即位年に付与されている。しかし神武の場合には、太歳干支は即位年には付与されていない。東征出発の年に付与されている。他に見られない特異な太歳干支の付与の仕方である。この東征出発の年から崩御年までの期間は83年(BC667年からBC585年)であり、83年の1/4は20.75年(21年)である。
くどいようだが、21年は神武の在位ではなく、神武が東征に出発した年から崩御の年までの期間である。
ところが、東征の期間7年間は実年(記載の1年は実際の1年)で書かれているから、神武即位後の在位は、21年から7年を引いた14年となる。

●上記の説明は、分り易く神武の在位76年として話を進めた。
 実際には、合成年次表の解読から77年と捉えた方が正しい。77年には空位3年のうち1年目が該当する。神武76年次と空位1年目は2二倍暦で同年である。本来なら神武77年に当たるが、76年(春年)に崩御したと記載したため神武77年次(秋年)は表向き存在しなくなり、空位年とされた。本当の空位年は2年目および3年目の2年間が、2倍暦で書かれていて、実1年の空位年になる。

●上記の文面を正しく表現し直すと、次のようになる。
 「東征出発の年から崩御年までの期間は84年(BC667年からBC584年)であり、84年の1/4は21年である。神武即位後の在位は、21年から7年を引いた14年となる。
 従って、小数点以下の問題は解消する。

●神武天皇の年次表に関しては「1年が4倍の4年になっている」部分と「1年が1年のまま」の部分が合成されている。言い換えれば、神武即位後の76年間は4倍ではなく、約5.53倍になっている。[76÷13.75=5.53] 77年間とすれば、5.5倍である。[76÷13.75=5.53] 

なお、この倍率には特別な意味はない。

2009年6 月10日 (水)

日本書紀の「シンメトリック」の最高傑作を紹介する

パソコンで記事を読むのが習慣になっているが、すばらしい記事にめぐり合った。
筆者は数字を基に記紀解読を進めてきた。編者がある種の数字を重視し、技法としてシンメトリック(対称性)を用いたと考え、いろいろと考えを巡らしてきた。この記事を目にしシンメトリックを見たたとき、その発見に驚きあるいは先を越されたことへの嫉妬さえ感じた。そのような気持ちは、数字を追いかけている者にしか分からないであろう。日本書紀の数字に関する発見として、最高の傑作である。発見者に敬意を表したい。
考えられた方の正確な名前などが分からないので、関係個所全てを記載する。

ホームページの名称:「古代史研究メモ(日本書紀の実年代設定と世系の研究)」(2006年11月1日建設開始、by征東大将軍
該当記事:上記ホームページの「主張」の記事
記事の内容:
・日本書紀は、神代上、神代下、神武前紀7年、185、185、133/60/68/99/121、121/99/68/60/133、天武下14、持統11年
以上のような構成になっており、治世年間の配布の対称関係が存在する。
・185は37の倍数である(37×5)。133/60/68/99/121=481で、これも37の倍数である(37×13)。
(37×5)+(37×5)+(37×13)+(37×13)=(37×36)=1332=666×2
・133/60/68/99/121、121/99/68/60/133の対称関係は「16/YXRFBRM」氏の発見による。

筆者は、神武からスタートし、継体の所に入ろうとしていた。上記の「16/YXRFBRM」氏発見のシンメトリックは日本書紀の最後まで見なければ分からない対称関係であるが、多分最後まで進んだとしても容易には気付かないだろう。

上記の記事の中で述べられていること以外について、少し述べる。
添付した「表S-9  日本書紀記載在位の37倍数のシンメトリック」を見ていただくと、シンメトリックの重要性や「37」の倍数について分ってもらえると考える。

表S-9 日本書紀記載在位の37倍数のシンメトリック

481年のシンメトリックについて
前半の481年の始まりは孝霊元年(BC290年)で、終りは成務崩御後の空位年(191年)である。後半の481年の始まりは仲哀元年(192年)で、終りは天武天皇元年(672年)である。ポイントは成務崩御年と仲哀即位年の間に1年の空位年が存在するが、この年を前半の最終年として、シンメトリックの境にしていることである。空位年の位置付けが成務崩御年と関係することが明らかとなった。

「37」の倍数
二つ目は、編者が「37」という数字を重視していて、日本書紀全般に渡って、「37」の数字を特別な数字として位置づけていることである。
「37」の始まりは、天武天皇元年672年である。この年を基準年として、「37」の倍数の年を各天皇の年代と比較すると、次のような関係になっている。
神武即位年BC660年は、基準年から数えて、「37」の36倍、すなわち1332年目に相当する。[37×36=1332]
神武立太子年はBC697年は基準年から数えて「37」の37倍、すなわち1369年目に相当する。[37×37=1369]
その他にも、185年(「37」の5倍)、370年(「37」の10倍)、481(「37」の13倍)などの数字に該当する年代は重要な節目になっている。
百増の137も「37」の変形の一種と考える。
従って、「37」の倍数は、日本書紀の年代構成に深く関与していることが分かる。
最終的には、年代解読によって得られた復元年代にも何らかの影響を与えている可能性があると思われる。

三つ目は、天武14年と持統11年を加算すると、25年になるが、神武前紀の7年は東征開始の年代でこのままではシンメトリックとしては成立しない。しかし、ここに25年という数字が現れたということは面白いことである。解読により復元された神武誕生年(西暦前660年/西暦137年)から即位前年(西暦前636年/西暦161年)までの期間は25年である。神武即位前紀の解読に役立つと思われる。
注1)この記事は、ブログ「記紀の数字が語る古代史/田中真理志」(2008/10/01投稿)の記事である。