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2009年10 月 9日 (金)

記紀編者が考えた年代復元方法(面白い解読の仕方)

記紀(古事記と日本書記)の編者には遊び心がある。
数字の扱いに長けた編者は、年代に関しても遊び心をもって対応した。いたずらもあれば語呂合わせもある。道教や仏教や陰陽道に関係する数字も活用した。
時代が違うから、編者が真剣に考え出したことでも、現在からみれば面白く思われることもあるだろう。筆者は、それらをひっくるめて「編者の遊び心」と呼ぶ。

編者が創作した記紀の記載内容から復元年代を得るには、いろいろな計算が用いられる。各天皇の即位年や崩御年、在位を明らかにするとき、余り突飛な解読方法は、説得力を持つかどうか分らない。ほとんどが数種類の解読方法で解読できるのだが、発表は常識的と思われる解読方法の方を示してしまう。
ここでは、筆者が面白いと思った解読方法を紹介する。解読結果は、注意書きのない場合にはすべて復元年代、在位、年齢として採用したものである。

「表93-1 記紀による崇神以降の暗号解読結果(面白い解読の仕方)」を見ていただきたい。
なお、「こんな事例もある」という説明の意味を持たせたため、「表93 記紀による崇神以降の暗号解読結果」と重複した解読方法も含まれている。

表93-1 記紀による崇神以降の暗号解読結果(面白い解読の仕方)

1.古事記は日本書紀の解読書あるいは日本書記の講義に用いられた参考書である
a 応神の誕生363年、即位381年、崩御403年、崩年41歳、在位23年は、日本書紀では応神誕生の物語の記載年代201年から誕生363年を示し、記載在位41年が崩御403年、41歳を示す。古事記は9月9日で「九九=81」により即位381年を示し、在位32年は逆数23年を示唆する。
このような解読方法というより、記紀の編者がこのような復元方法を創作したことを理解できなければならない。記紀、特に国史である日本書紀の編者がいたずらや語呂合わせなどするはずがないといった発想からは、思いつかないであろう。それとも解読が間違えているとでもいうのだろうか。
また、記紀の関係がここまで強い関係にあるのは何を意味するのであろうか。筆者は「古事記は日本書紀の解読書(あるいは参考書)である」とするがなぜそうなのか明らかにできたわけではなく、課題である。

同様の例をもう一つ紹介する。
b 安康天皇の在位3年は日本書記に記載されているが、記事から得られる年代や在位に関する情報は少なく、3年が正しいかどうか判断が難しい。
古事記には、安康御年56歳としか記載されていないから、在位など分る筈もない。ところが、安康の在位は、允恭と雄略の各天皇の数字に隠されているのである。
安康在位3年は、雄略と允恭との月日の差を求めてもよいし、安康と雄略の御年を加算し、允恭御年を減算すれば3年が得られる。具体的な計算は表の解読方法を見てもらいたい。
偶然そうなる(3年になる)と考えるのは良くない。「数字の暗号は神武誕生から始まり、数字を加算するのであるから、後の天皇ほど大きな数字になっているのである。」雄略の数字から允恭の数字を引くことは、この数字の暗号の原則に沿っていることに気づかなければならない。

記紀は暗号で書かれた書物であり、古事記は日本書記の解読書(あるいは参考書)

また、「編者は、安康の在位が3年と分っているなら、なぜ記載しなかったのか?」という愚問をされる方は、記紀の編者を理解していないし、記紀の何たるかを誤解している。「記紀(古事記と日本書紀)は暗号で書かれた書物であり、古事記は日本書記の解読書(あるいは参考書)なのである。」ということが分っていない。古事記の編者は、日本書紀に記載されている内容を熟知している。仮に安康の在位が3年でないと考えていたとしたら、その年数を素直に(あるいは暗号を用いたかもしれないが)記載していたであろう。仲哀の在位に関して、日本書記9年と古事記7年の食い違いがその例である。

2.春秋2倍暦だとする考えは、編者の能力を過小評価
崇神の年代、成務崩御後の空位年、仲哀即位年は神武暦の年代を、4倍(1/4)を用いて復元年代を計算する。
記紀の編者は神武暦を自ら作り上げ、活用した。上記1では、古事記では「九九=81」を381年としてもちいている。神武暦では1041年であるから「九九=81」との関係は見られない。重要なことは、神武暦661年を紀元元年とする、筆者命名のニニギ暦(西暦)が用いられていたことを示す。
春秋2倍暦は神武から開化までの記載年代の基礎になっているが、主要な年代や在位は4倍であることが分る。仁徳より古い時代は、春秋2倍暦ではないということである。「中国史書に春秋2倍暦のことが記載されている」ということは、古代に春秋2倍暦が実際に使われたことを示す。しかし、編者の時代には既に暦が用いられている。編者は日本書記の記載に当たって、春秋2倍暦をそのままの形で用いたのではなく、応用したのである。春秋2倍暦だとする考えは、編者の能力を過小評価するもので、逆に、編者に言わせれば、頭の悪い奴に解読はできないということになる。

3.記紀の数字の記載方法はアラビア数字ではない
古事記では、崇神御年一百六十八歳を分解して六百一と十八を得る。一例しか述べていないが、この解読方法は古事記の復元年代を得る基本的な解読方法である。多分、頭が固いと馬鹿げた方法に見えてしまうだろう。
崇神から離れて、六十八歳を一つの事例として説明すると、算用数字(アラビア数字)ではできないことが可能になる。六十八歳(年)を分解すると、6年と16年に分けられる。
また、逆に読むと16年と8年になる。
ついでに述べれば、十八歳(年)は、18年と読むが、「プラス8年(8年を加算せよ)」と読むケースがある。
「十」をプラス(加算)とする解釈がいつ頃から始まったか不明のようである。記紀の編者は知っており、用いたことは明らかである。
それらの使い分けを知った上で解読することにより、はじめて正解にたどり着ける。

4.構成する数字の加算は基本中の基本
仁徳、允恭、雄略の各天皇の在位計算は、古事記の例である。古事記では「御年」を構成する個々の数字を加算する。場合によっては、月日の数字を加算する例もある。上記以外の多くの天皇がこの方法によって在位が得られる。極端な例としては、反正の月日、七月が7年を意味する。
日本書記の最も代表的な数字に「179万2470余歳」があるが、解読の基本は構成する個々の数字を加算することである。

5.正の文字を5と見做す考え方は昔から存在する
允恭の例は、正の文字を5と見做すが、現在でも頻度などを把握するために用いる方法であるが、古代から用いられていたのである。尤も、正月とくると、1月であり、1と読むケースもあり、1か5か迷わされるところである。

6.37の倍数の使われ方
顕宗崩御年、仁賢即位年は、神武暦を用いるが、天武元年神武暦1332年を基準年とした「37の倍数」の年である。天武元年は、37の36倍が1332年であり、神武暦と一致する。37の37倍は1369年で、天武元年672年と神武立太子年神武暦前37年の間が1369年間である。天武元年から数える場合と、神武立太子年または即位年から数える場合がある。
注)顕宗崩御年、仁賢即位年は、復元年代としてはまだ確定していない。
僅かな例外を除き、太歳は各天皇の即位年に付与されている。天武天皇の場合は、太歳が天武2年次に付与される。天武元年とは何を意味するのか考えてみればよい。「年代(数字)のからくり」の観点から見れば、天武元年は「37の倍数の基準年」であることを示している。

応用として、37の倍数の年数も多用されている。例えば、日本書記における応神元年の記載年代270年と復元年代381年は111年の年代差を有する。111年とは、37の3倍である。

面白そうなことを書くつもりが、つまらない説明に終わってしまったようである。解読できたときに感じたことと既に解読済みのことを書くことの違いかもしれない。

2009年8 月 1日 (土)

古事記は、日本書紀の解読書(あるいは参考書)である(反正天皇の事例)

既に投稿した記事において、「古事記は、日本書紀の解読書(あるいは参考書)である」という事例をいくつか述べてきた。
筆者の日本書記の年代解読の手の内を明かすことになるが、つい最近の事例を紹介する。
允恭天皇の5年次の記事に、反正天皇の濱(もがり)の記事がある。倉西裕子氏の研究によると、一般に濱は崩御後半年以内に行われるとのことである。そのことから允恭天皇の年次に何らかの操作がなされていると推測される。

筆者は、既に解読済みの古事記の復元年代をチェックしてみた。
古事記の復元年代は、既投稿の「古事記の暗号解読と復元年代(まとめ)」に添付した「表93 記紀による崇神以降の暗号解読結果(新説古事記復元モデル)」を見ていただきたい。
古事記の復元年代は、反正天皇の在位が7年となっている。古事記の崩年干支から読み取った年代から計算される反正天皇の在位は5年であり、2年長くなっている。日本書紀に記載された反正天皇の在位も5年である。
以上より、日本書記の復元年代と在位が古事記の復元年代と同じになるかを検討してみると、全体として整合性のある、採用できるレベルの結果が得られた。日本書記における反正天皇の復元された即位年は433年、崩御年は439年、在位7年であり、古事記の結果と全く同じである。
筆者の日本書記の復元年代には、以上のようにして得られた反正天皇の年代と在位を採用している。詳細は、既投稿の「履中天皇~雄略天皇の年次表の解読」を読んでいただきたい。

反正天皇の在位は、特異である

考えてみると、ほとんどの天皇の記載在位は延長されているから、復元在位と記載在位と比較すると、復元在位の方が短い。その点で反正天皇の在位は記載より2年長く、特異である。
多くの学者の反正天皇の復元在位を見ると、5年のままか、5年以下に短くされている。反正天皇の在位を長くした例は筆者の記憶にない。
これほど特異な例であるから、日本書紀だけ見ていても解決できないのは、上記の説明でお分かりいただけるであろう。

筆者にしても、古事記の情報がなければ、多分、多くの方々と同じであったかも知れない。
それにしても、反正天皇の在位を短くする方々は、何を根拠にされているのだろうか。
1985年に発行された貝田禎造氏の「古代天皇長寿の謎」から脱皮できないのかもしれない。この書物は、功罪二つが同居したものである。他の方の書かれた書物の批評などしたくないが、いつか、述べなければならないのかも知れない。
それに比べ、古事記は多くのことを示唆してくれる。

2009年7 月20日 (月)

古事記の崩年干支の読み取り年代に関する一考察(応神編)

明治時代、那珂博士は、「上代年紀考」において、古事記の分注崩年干支を基に年代を示した。これが今日においても通説とされている。当時としては画期的なものであったようだ。
実際には、倭の五王に関わる年代と中国史紀の年代にかみ合わない部分があるが、それでも日本書記よりは無理なく整合性を取れるとされる。

古事記の復元年代とは

筆者の応神天皇の復元年代を基に、古事記の復元年代に対する考えを述べる。
古事記は、日本書紀の解読書である」と述べてきた。この表現は、誤解を招きやすい。古事記に記載された文言や、系譜まで拡大した意味は持っていない。「古事記は、日本書記の年代に関する解読書である」が筆者の主張である。
「古事記は、日本書紀の文言や系譜に関して、批判を加えたものである」という主張に関しては否定しないが、比較検討していないのでコメントは特にない。

日本書記の復元年代を求めた活動は盛んであるが、古事記の年代解読の記事は見たことがない。「解読書」という表現はあるようだが、年代全般に関するものも見当たらない。
古事記の数字から復元年代を解読できていないのだから、古事記を基に日本書紀の年代を解読するということができるはずがないのは当然である。
筆者は、古事記に記載された「御年(みとし)」、崩年時の「月日」、「治天下の年数」を用いて復元年代を得ることができた。
勿論、古事記だけの情報で復元年代が得られたわけではなく、日本書紀の情報があってのことである。ただし、古事記の復元には古事記の数字しか用いていない。

古事記の分注崩年干支の意味

古事記の分注崩年干支に関して、崇神から仁徳までについて述べる。(仁徳以降は別途述べる)
崇神から仁徳までの分注崩年干支は、崇神崩御と仁徳崩御の干支が正しいだけである。逆にいえば、垂仁から応神までの干支は正しくないということである。このような結果は、古事記の編者が神功の年代をどのように評価し、加味したかによって生じた問題である。
先ず、重要なことは、古事記の編者も日本書記の編者もほぼ一致する正しい復元年代を知っていたということである。
古事記は、神功の年代を設定していない。しかし、古事記の編者は、日本書紀における神功皇后が三韓征伐で活躍し、応神が誕生した仲哀9年362年にこだわりを持たざるを得なかった。恐らく、古事記の編者といえども、当時の時代背景や日本書紀によって作られた神功皇后を称える風潮を打ち破れなかったのか、あるいは日本書記の解読書としての性格から362年が妥当であると考えたのかも知れない。それによって、362年以前の垂仁、景行、成務、仲哀の各天皇の在位を合計で18年前倒しをし、誤った年代を記載した。
注1)日本書紀における200年(201年)は、362年(正しくは、363年)に相当し、応神の正しい誕生年が記載されているため、古事記の編者は日本書記の記載に同調せざるを得なかった。

古事記の正しい復元年代

古事記から、応神天皇の正しい年代を知るには、次のように読み替える必要がある。
古事記は、応神天皇の即位年は、9月9日(九九=81)の381年であり、これが正しい年代であるとする。垂仁から仲哀天皇までの年代で18年前倒しをしたと前に述べたが、仲哀天皇の崩御の年代は362年でなく、9月9日(九+九=18)で、18年を加算した380年が正しい年代である。
古事記は、応神天皇の在位を32年と記載したが、逆数の23年に読み替えて(32年から9年差し引いた23年としてもよい)、即位年381年から計算すれば403年が得られる。
また、古事記は、9月9日の9年を応用して次のように応神天皇の年代を解釈することができる。応神在位32年に9年分の摂政期間があるように、含みを持たせた。その結果、摂政なしの応神の実在位は23年であることを示すが、結果として9年分前倒しになっている。応神崩御394年は、9年遡った年代であり、9年分の年代を下げると応神崩御は403年になる。応神即位381年、崩御403年、在位23年が正しい復元年代であり、日本書記の復元年代と一致する。

古事記は、日本書記の講義に使われたようである。例えば、神功皇后と応神天皇の説明は次のようだったかも知れない。
日本書記は、神功皇后が三韓征伐を行った200年に応神天皇をお産みになられ、69年間摂政につかれた。応神天皇は、即位270年に即位され、310年に崩御、在位41年と記載する。この年代などの数字は延長がなされており、正しい年代ではない。神功皇后の三韓征伐は国威発揚のためであり、応神天皇の記事は応神天皇の正当性を知らしめ、皇室を守るためである。従って古事記においても、日本書紀と同様の記事を載せ、分注崩年干支(年代)を前倒しして、ごまかしているので、古事記の分注崩年干支を見るときには注意しなければならない。」
注2)この記事の冒頭に述べた通説は、まんまとごまかされてしまったのである
注3)筆者は、古事記の新羅征討、あるいは日本書記の三韓征伐と称される戦いがあったことを否定していない。日本書記の記載は、392年の出来事を、応神3年(382年)と仲哀9年(362年)に分割して記載し、後者は30年分前倒しされていると解釈している。

次に、日本書記の解読方法を説明しよう。
「表12-2 崇神~仁徳の復元年代の詳細」および「表109 神功皇后の年次表の詳細」を見ながら読まれると理解できるはずである。

表12-2 崇神~仁徳の復元年代の詳細

表109 神功皇后の年次表の詳細

日本書記における神功皇后の記事は、年代を過去に大幅に遡るための設定であり、69年間は無視すればよい
日本書記では、仲哀天皇の即位は192年、崩御は200年、在位9年である。神功皇后は存在しないから、仲哀天皇の年代は下ることになり、即位372年、崩御380年となる。在位9年は変わらない。復元年代は、記載年代に180年を加算することになる。(これに伴い、成務、景行、垂仁の年代も下るが、説明は省略する。)

応神天皇の誕生363年、崩御403年の根拠
日本書記では、応神天皇の誕生は、201年である。神功紀の記載では、200年、仲哀9年に生まれたことになっているが、父親不明を避けたごまかしである。日本書記の応神紀では、誕生年(203年、年3歳)と宝算110歳(201年誕生、310年崩御、宝算110歳)が明確にされている。
正しい復元年代は、201年に神武即位年162年を加算した363年である。応神天皇の誕生の記載は神功皇后に記載されたものであり、復元年代は162年を加算すればよいのである。
そして応神の在位41年は、41歳で崩御されたことを示し、363年1歳から計算すると、403年が41歳で、崩御年は403年となる。日本書記が年代と年齢について事実をズバリ書いた珍しい例である。尤も、事実といっても、編者が想定した数字であることに変わりはない。
注4)神功皇后の摂政元年の国内記事は、正しい年代に対し162年のズレを持っている。よく120年ズレているかのように受け取れる主張を見受けるが、神功皇后および応神天皇の中の百済関係の記事が120年のズレを持っていることとごっちゃにしてはならない。

応神天皇の年代差は111年(37の3倍)から93年に変わる
日本書記の記載では、応神即位270年となっているが、古事記で説明したとおり、復元年代は381年である。復元年代に対するズレは、111年(37年の3倍)に設定されている。
注5)神功皇后の摂政69年次、記載年代269年は、復元すると380年である。摂政元年には162年のズレがあったが、摂政69年次、380年には111年のズレに変わる。年代差は162年から111年に低下し、年代のズレ(年代差)は51年消費した(減じた)ことになる。残りの18年が有効年代であり、363年応神1歳から380年18歳までの年数に相当する。

日本書記の応神の即位381年は、神功の在位の69年分が影響し、倍暦の計算では読み取れない。合成年次表で、仲哀の崩御年を読みとって、はじめて応神即位年が読み取れる。古事記が示唆してくれているから分るものの、日本書紀だけでは容易には分らない。従って、応神即位381年を主張する学者の方々を見受けないのは当然のことである。
なお、応神崩御403年の時点の年代のズレ(年代差)は、111年から18年減じた93年になるはずである
記載では、応神崩御310年で、復元では403年であるから、年代差は93年で、上記のとおりである。

応神即位381年の正しさ

仮説として、応神の即位年を381年と設定し、日本書紀の年代解読上の各種手法に当てはめてみれば、その正しさが分るであろう。
(例1)神武、崇神、応神の3天皇は神の文字が入っている。この3天皇の誕生年、即位年または崩御年には、神聖な「九九」の数字が入っている。神武誕生137年(七八56+九九81=137)、神武即位162年(九九81×2=162)、崇神崩御318年(二九=18)、応神誕生363年(七九=63)応神即位381年(九九=81)である。聖帝といわれる仁徳の崩御427年(三九=27)にも入っている。同じ「九九」でも、神武には2組、応神には1組である。しかし他の天皇には「九の段」はあっても「九九」は入っていない。応神天皇は、神武天皇に次いで重要視されていたのである。
注6)「九」は、「極まった数字」であり、「九九」は重節、重九である。

(例2)応神在位は381年から403年までの23年である。他方、仁徳天皇の在位は405年から42年までの23年であり、404年を基準にした23年のシンメトリックを形成する。
注7)本来年代については、神武暦およびニニギ暦を用いて説明しなければならないが、簡略化させてもらい、西暦で説明した。

日本書記の講義の締め括りの言葉

この講義を受けているあなたたち(皇子や貴族の子弟)は、これから国を動かしていく立場にある。従って正しい歴史と解読方法を教えたが、前に述べた理由(国威発揚と応神の正当性)から年代や年齢、文言など誇張して書かれている。あなたたちが知っていれば良く、国民に事実を知らせる必要はない。特に、正しい復元年代の解読方法は、他言無用である。」
というわけで、いつの間にか正しい解読方法は忘れられ、古事記及び日本書紀に記載された通りの内容が国内に広まった。

2009年7 月 3日 (金)

崇神天皇~応神天皇の御年は、在位を表す

垂仁天皇の御年は、一百五十三歳である。153歳としてはいけない。
一百五十三歳を分解すると、一と十五と三となる。十五は逆方向から読んだ値である。
[1+15+3=19]となるが、垂仁の在位は19年であることを示している。
以上は、古事記の解読結果であるが、日本書紀の解読結果も19年となり、一致する。

古事記は、日本書紀の解読書

なぜかと言えば、「古事記は、日本書紀の解読書」であるから、古事記を正しく解読できれば、それは日本書紀の結果が得られたことになるのである。

古事記が表に現した崩年干支による年代は、神功皇后と応神の年代を確保した上で、残った数字319年~362年の44年分を、垂仁在位15年、景行在位15年、成務在位7年、仲哀在位7年(合計44年)に割り振ったものである。上記に解読された復元年代は、神功を非存在とした(カットした)場合である。これは、古事記が裏に隠した秘密であり、正しい復元年代である。引き続き各天皇の正しい在位を述べるが、垂仁から仲哀までの合計在位は、62年である。従って、崩年干支からの読み取り年代は18年分少なくなっている。
年代でみると、仲哀崩御年は崩年干支壬戌362年に対し、380年となるから、18年差である。

景行天皇は、一百三十七歳である。同様に計算すると、[1+13+7=21]で、在位21年である。
成務天皇の御年は、九十五歳であるから、[9+5=14]で、在位14年である。
仲哀天皇の御年は、五十二歳であるから、[5+2=7]で、在位7年である。
仲哀天皇の場合は、ご丁寧にも、崩御の月日が、六月十一日になっている。ここは頭を柔らかくしないといけない。[6+1=7]と読まなければならない。多分、日本書紀の仲哀の在位が9年であるため、「9年ではなく、7年である。」と強調したかったのであろう。
応神天皇の御年は、一百三十歳であるが、これを計算しても在位にはならない。月日は、九月九日になっている。[1+13+9=23]で、在位は23年である。
最後になったが、崇神天皇の場合は、御年は一百六十八歳で、月日は、十二月となっている。[1+6+8+2=17]で、在位17年である。
崇神の説明を後回しにしたのは、冒頭から、月日を説明するのが面倒なためであった。
仁徳については、応神の後に2年の空位があることは分るが、在位については1年食い違うため、よく分らない。

上記の在位を合計すると101年となる。1年だけ、成務の後に空位年があるため、加算すると、102年となる。
崇神の即位年を、仮に302年とすると、応神崩御年は403年になる。
検算は、[403-302+1=102]である。

詳細は、「表93  記紀による崇神以降の暗号解読結果(新説古事記復元モデル)」を見ていただきたい。

表93 記紀による崇神以降の暗号解読結果

さて、日本書紀の年代解読結果は、上記の在位と完全に一致する。順次、天皇ごとに解読した結果を投稿していく。
上記の結果を信じられない方は、筆者の他の投稿記事を読んで、頭を柔らかくした方がよい。それでも理解できなければ、自ら年代を復元しようなどと思わない方がよい。記紀の編者の素晴らしい、自由な発想や考え方を理解できないからである。

少し興味をもたれた方は、次の問題を解いてみませんか
古事記の垂仁から仲哀までの崩年干支の年代は44年であるが、正しくは18年加算した62年となる。差は18年(9年×2)である。また、古事記の応神在位は32年であるが、日本書紀は41年とする。その差は9年である。古事記の応神の崩御年は、甲午の年394年であるが、正しくは403年で、その差は9年である。以上の例は、「9」が絡む。
さて、もっと重要なところで、「9」が関係するが、それは何であろうか?
この記事の中に答えは隠されている。お気づきであろうか。

2009年6 月14日 (日)

記紀(古事記と日本書紀)の間を行ったり来たり

当初、記紀の年代解読は、数字の比較から始まった。そのうちに、日本書紀の年代解読に夢中になってしまった。そのお陰か、解読は順調に進み、これで終わりと思う所に達していた。そして、古事記の方は、データも少なく、解読は無理と考えていた。

あるとき、古事記に、日本書紀のニニギの暗号「179万2470余歳」が記載されていないのはどういうことか、という記事を目にした。
その瞬間に、古事記の「神武天皇御年137歳」が、日本書紀で読み込んでいた数字と結びつき、暗号であることに気付いた。
極めて短時間のうちに、古事記の数字から復元年代が得られた。解読方法も独特な方法で、漫画チックな方法であったから、大いに楽しめた。それには、日本書紀の数字の知識が役立ったのは言うまでもない。

古事記から得られた復元年代は、多少曖昧な年代であった。日本書紀の復元年代との間にも食い違いがあるのを見て、読み終えたと思っていた日本書紀にも疑問が生まれた。
それからは、記紀の年代解読に取り掛かり始めたころと同じように、記紀の間を行ったり来たりするようになった。

しばらくすると、記紀の復元年代は基本的に一致すると思えた。記紀の食い違いの個所も分ってきて、例えば仲哀の在位である7年と9年は、どこまでいっても一致はしない数字と捉えるようになった。

なぜ、記紀の間を行ったり来たりできるのか、考えてみれば容易なことである。
一方(日本書紀)をもとに、他方(古事記)が作られたからで、それもどちらを先といっても不思議でないほど酷似しているから、双方向に移動できるのである。

ずばり言えば、古事記の原型は日本書紀の編纂状況を熟知している人物の手によるものである。現存の古事記はさらに書き換えが行われたようだが、数字に関しては手を入れなかったと思われる。逆に、手の入れようがなかったのかもしれない。以前、古事記の方が古い、といった意見を書いたことがあったが、数字だけ見ればそのように思わせるものがある。