明治時代、那珂博士は、「上代年紀考」において、古事記の分注崩年干支を基に年代を示した。これが今日においても通説とされている。当時としては画期的なものであったようだ。
実際には、倭の五王に関わる年代と中国史紀の年代にかみ合わない部分があるが、それでも日本書記よりは無理なく整合性を取れるとされる。
古事記の復元年代とは
筆者の応神天皇の復元年代を基に、古事記の復元年代に対する考えを述べる。
「古事記は、日本書紀の解読書である」と述べてきた。この表現は、誤解を招きやすい。古事記に記載された文言や、系譜まで拡大した意味は持っていない。「古事記は、日本書記の年代に関する解読書である」が筆者の主張である。
「古事記は、日本書紀の文言や系譜に関して、批判を加えたものである」という主張に関しては否定しないが、比較検討していないのでコメントは特にない。
日本書記の復元年代を求めた活動は盛んであるが、古事記の年代解読の記事は見たことがない。「解読書」という表現はあるようだが、年代全般に関するものも見当たらない。
古事記の数字から復元年代を解読できていないのだから、古事記を基に日本書紀の年代を解読するということができるはずがないのは当然である。
筆者は、古事記に記載された「御年(みとし)」、崩年時の「月日」、「治天下の年数」を用いて復元年代を得ることができた。
勿論、古事記だけの情報で復元年代が得られたわけではなく、日本書紀の情報があってのことである。ただし、古事記の復元には古事記の数字しか用いていない。
古事記の分注崩年干支の意味
古事記の分注崩年干支に関して、崇神から仁徳までについて述べる。(仁徳以降は別途述べる)
崇神から仁徳までの分注崩年干支は、崇神崩御と仁徳崩御の干支が正しいだけである。逆にいえば、垂仁から応神までの干支は正しくないということである。このような結果は、古事記の編者が神功の年代をどのように評価し、加味したかによって生じた問題である。
先ず、重要なことは、古事記の編者も日本書記の編者もほぼ一致する正しい復元年代を知っていたということである。
古事記は、神功の年代を設定していない。しかし、古事記の編者は、日本書紀における神功皇后が三韓征伐で活躍し、応神が誕生した仲哀9年362年にこだわりを持たざるを得なかった。恐らく、古事記の編者といえども、当時の時代背景や日本書紀によって作られた神功皇后を称える風潮を打ち破れなかったのか、あるいは日本書記の解読書としての性格から362年が妥当であると考えたのかも知れない。それによって、362年以前の垂仁、景行、成務、仲哀の各天皇の在位を合計で18年前倒しをし、誤った年代を記載した。
注1)日本書紀における200年(201年)は、362年(正しくは、363年)に相当し、応神の正しい誕生年が記載されているため、古事記の編者は日本書記の記載に同調せざるを得なかった。
古事記の正しい復元年代
古事記から、応神天皇の正しい年代を知るには、次のように読み替える必要がある。
古事記は、応神天皇の即位年は、9月9日(九九=81)の381年であり、これが正しい年代であるとする。垂仁から仲哀天皇までの年代で18年前倒しをしたと前に述べたが、仲哀天皇の崩御の年代は362年でなく、9月9日(九+九=18)で、18年を加算した380年が正しい年代である。
古事記は、応神天皇の在位を32年と記載したが、逆数の23年に読み替えて(32年から9年差し引いた23年としてもよい)、即位年381年から計算すれば403年が得られる。
また、古事記は、9月9日の9年を応用して次のように応神天皇の年代を解釈することができる。応神在位32年に9年分の摂政期間があるように、含みを持たせた。その結果、摂政なしの応神の実在位は23年であることを示すが、結果として9年分前倒しになっている。応神崩御394年は、9年遡った年代であり、9年分の年代を下げると応神崩御は403年になる。応神即位381年、崩御403年、在位23年が正しい復元年代であり、日本書記の復元年代と一致する。
古事記は、日本書記の講義に使われたようである。例えば、神功皇后と応神天皇の説明は次のようだったかも知れない。
「日本書記は、神功皇后が三韓征伐を行った200年に応神天皇をお産みになられ、69年間摂政につかれた。応神天皇は、即位270年に即位され、310年に崩御、在位41年と記載する。この年代などの数字は延長がなされており、正しい年代ではない。神功皇后の三韓征伐は国威発揚のためであり、応神天皇の記事は応神天皇の正当性を知らしめ、皇室を守るためである。従って古事記においても、日本書紀と同様の記事を載せ、分注崩年干支(年代)を前倒しして、ごまかしているので、古事記の分注崩年干支を見るときには注意しなければならない。」
注2)この記事の冒頭に述べた通説は、まんまとごまかされてしまったのである。
注3)筆者は、古事記の新羅征討、あるいは日本書記の三韓征伐と称される戦いがあったことを否定していない。日本書記の記載は、392年の出来事を、応神3年(382年)と仲哀9年(362年)に分割して記載し、後者は30年分前倒しされていると解釈している。
次に、日本書記の解読方法を説明しよう。
「表12-2 崇神~仁徳の復元年代の詳細」および「表109 神功皇后の年次表の詳細」を見ながら読まれると理解できるはずである。
表12-2 崇神~仁徳の復元年代の詳細
表109 神功皇后の年次表の詳細
日本書記における神功皇后の記事は、年代を過去に大幅に遡るための設定であり、69年間は無視すればよい。
日本書記では、仲哀天皇の即位は192年、崩御は200年、在位9年である。神功皇后は存在しないから、仲哀天皇の年代は下ることになり、即位372年、崩御380年となる。在位9年は変わらない。復元年代は、記載年代に180年を加算することになる。(これに伴い、成務、景行、垂仁の年代も下るが、説明は省略する。)
応神天皇の誕生363年、崩御403年の根拠
日本書記では、応神天皇の誕生は、201年である。神功紀の記載では、200年、仲哀9年に生まれたことになっているが、父親不明を避けたごまかしである。日本書記の応神紀では、誕生年(203年、年3歳)と宝算110歳(201年誕生、310年崩御、宝算110歳)が明確にされている。
正しい復元年代は、201年に神武即位年162年を加算した363年である。応神天皇の誕生の記載は神功皇后に記載されたものであり、復元年代は162年を加算すればよいのである。
そして応神の在位41年は、41歳で崩御されたことを示し、363年1歳から計算すると、403年が41歳で、崩御年は403年となる。日本書記が年代と年齢について事実をズバリ書いた珍しい例である。尤も、事実といっても、編者が想定した数字であることに変わりはない。
注4)神功皇后の摂政元年の国内記事は、正しい年代に対し162年のズレを持っている。よく120年ズレているかのように受け取れる主張を見受けるが、神功皇后および応神天皇の中の百済関係の記事が120年のズレを持っていることとごっちゃにしてはならない。
応神天皇の年代差は111年(37の3倍)から93年に変わる
日本書記の記載では、応神即位270年となっているが、古事記で説明したとおり、復元年代は381年である。復元年代に対するズレは、111年(37年の3倍)に設定されている。
注5)神功皇后の摂政69年次、記載年代269年は、復元すると380年である。摂政元年には162年のズレがあったが、摂政69年次、380年には111年のズレに変わる。年代差は162年から111年に低下し、年代のズレ(年代差)は51年消費した(減じた)ことになる。残りの18年が有効年代であり、363年応神1歳から380年18歳までの年数に相当する。
日本書記の応神の即位381年は、神功の在位の69年分が影響し、倍暦の計算では読み取れない。合成年次表で、仲哀の崩御年を読みとって、はじめて応神即位年が読み取れる。古事記が示唆してくれているから分るものの、日本書紀だけでは容易には分らない。従って、応神即位381年を主張する学者の方々を見受けないのは当然のことである。
なお、応神崩御403年の時点の年代のズレ(年代差)は、111年から18年減じた93年になるはずである。
記載では、応神崩御310年で、復元では403年であるから、年代差は93年で、上記のとおりである。
応神即位381年の正しさ
仮説として、応神の即位年を381年と設定し、日本書紀の年代解読上の各種手法に当てはめてみれば、その正しさが分るであろう。
(例1)神武、崇神、応神の3天皇は神の文字が入っている。この3天皇の誕生年、即位年または崩御年には、神聖な「九九」の数字が入っている。神武誕生137年(七八56+九九81=137)、神武即位162年(九九81×2=162)、崇神崩御318年(二九=18)、応神誕生363年(七九=63)応神即位381年(九九=81)である。聖帝といわれる仁徳の崩御427年(三九=27)にも入っている。同じ「九九」でも、神武には2組、応神には1組である。しかし他の天皇には「九の段」はあっても「九九」は入っていない。応神天皇は、神武天皇に次いで重要視されていたのである。
注6)「九」は、「極まった数字」であり、「九九」は重節、重九である。
(例2)応神在位は381年から403年までの23年である。他方、仁徳天皇の在位は405年から42年までの23年であり、404年を基準にした23年のシンメトリックを形成する。
注7)本来年代については、神武暦およびニニギ暦を用いて説明しなければならないが、簡略化させてもらい、西暦で説明した。
日本書記の講義の締め括りの言葉
「この講義を受けているあなたたち(皇子や貴族の子弟)は、これから国を動かしていく立場にある。従って正しい歴史と解読方法を教えたが、前に述べた理由(国威発揚と応神の正当性)から年代や年齢、文言など誇張して書かれている。あなたたちが知っていれば良く、国民に事実を知らせる必要はない。特に、正しい復元年代の解読方法は、他言無用である。」
というわけで、いつの間にか正しい解読方法は忘れられ、古事記及び日本書紀に記載された通りの内容が国内に広まった。