仮説:仁徳天皇の年次表の解読(年代のからくりの解明)
最初に、この仮説の結果を述べておく。
仁徳天皇は、405年に即位し、427年に崩御された。在位は23年である。
「表27-1 仁徳天皇の年次表の解読」を見ていただきたい。
筆者にとって、仁徳天皇の年代や、在位の解読が最も難しかい。しかし、考えてみれば、そのお陰でいろいろなことが発見できたといえる。
例えば、4倍暦の基準年がある。
神武天皇即位から仁徳天皇崩御年(厳密には、履中天皇即位元年)までの年代は、実年の4倍であるとしてきた
当初は、倍暦の計算の基準を、神武天皇即位年BC660年としていたため、仁徳天皇即位年は復元年代では426年となった。ところが、基準年を神武天皇の太歳干支の付与されたBC667年(東征開始年)とすると427年が得られることが分かった。4倍暦の基準年がBC660年とBC667年の2種類あり、両者の差は1.75年ある。使い分けされているのである。
本題の、年次表の解読に関して述べる。
従来の考え方は、仁徳天皇の在位は記載上87年であるから、1/4は22年と看做す。崩御が427年とすると、即位年は406年となる。
応神天皇は、363年に誕生し、41歳の403年に崩御されたと考えている。
従って、応神崩御後に存在する記載上の空位2年を、実年でも2年あったとすると、仁徳の即位年は406年となるが、空位年が1年しかなかったとすると、即位年は405年になり在位が23年になるのである。
従来の考え方は、一見、応神天皇と仁徳天皇の年代的な繋がりはうまくいっているように思えるが、筆者には納得がいかない。重要視される天皇には、必ず「年代に関わるからくり」がある筈なのに、仁徳天皇には存在しない点であった。聖帝といわれるくらいなら、なおさら何かがなければならない、という筆者の思い込みである。
仁徳天皇に仕掛けられた「からくり」
1)応神天皇と仁徳天皇の在位23年のシンメトリック
応神天皇の崩御後の空位年は、実年で1年とし、1年分を仁徳の在位と仮定すると、仁徳の在位は22年から23年に変わる。これにより両天皇の在位はそれぞれ23年になる。即ち、404年の空位年を基準に23年のシンメトリックが作られている。
(応神天皇の即位381年、崩御403年、在位23年、空位年404年、仁徳天皇の即位405年、崩御427年、在位23年)
このシンメトリックは、応神天皇の崩御と仁徳天皇の即位の年代関係の詳細は編者にも分らなかったための解決方法なのかも知れない。
2)仁徳天皇の年代は3倍暦
仁徳即位年から67年次までは基本的に3倍暦である。3倍暦が成立するには69年にならなければ、23年の在位は得られない。そのために、空位年2年目の1年と履中元年の1年が加算され、合計69年となる。また、68年次から87年次までの20年間は、年代延長のために加算された20年であり、87年次は20年遡り67年次と同年となる。
仁徳67年次の記載を見ると、10月18日の記事には月が記載されていない。仮に10月が記載されていれば、月日の暗号は解読できない。編者の巧妙な工夫である。特別に「天下大きに平らなり。20余年ありて事なし。」は、67年次と87年次が同年であることを示唆するキーである。
3)崩御してから陵を築く
記事のままとすると、仁徳天皇が崩御する20年(記載年代)に陵地を定め、陵を築き始めたことになる。大きな古墳として残っているから、早めに作り始めたと解釈することもできる。仁徳天皇の場合には、4倍暦を基本にしているから、5年前から作り始めたことになる。海外の歴史では崩御前に自らの墓を作ったとする事例も存在するから、あり得ないことと決めつけられない。
仮説の場合には、上記に述べたとおり、20年分が加算されているとするから、崩御された後に古墳(墓)を作り始めたとなる。これにより、20年間何も記載されない不自然さも解消する。
月日に従って、順序を入れ替え、推測を加えると次のようになる。
67年次1月16日、仁徳崩御
濱については記載なし
10月5日、陵地を定める。
10月7日、陵に葬る(陵が完成するまでの仮埋葬)
10月18日、陵を築き始める。
20年後87年次(4倍暦とすると5年後、3倍暦とすると7年後)陵が完成し、陵に埋葬する。
この仮説の意味するところ
ある有力な学者が、日本書紀には2倍暦または4倍暦が用いられており、その他の倍暦は用いられていないという見解を示されていたが、筆者の主張とは異なっている。筆者の主張は「n×2倍暦」や「n倍」の考えに代表されるが、倍暦に関する関係記事を読んでいただきたい。
しかし、仁徳天皇の年代に限れば、筆者も87年次という数字を、4倍暦の88年(22年の4倍)に1年不足した数字であると思っていたのも事実である。3倍暦であるとすれば、前にも述べた通り、67年は2年不足しており、69年(23年の3倍)としなければならない。
3倍暦に気がついたきっかけは、シンメトリックだけではない。古事記において神武天皇から崇神天皇までの年代に5倍暦が用いられていることを発見したことも関係する。
古事記の編者も日本書紀の編者も、物事を一律に処理することを、脳なしと見る。自由な発想で、アイディアを尊重し、同じことを繰り返さない。古事記に至っては、日本書紀の編者の真似は決してしないのである。
4倍暦を例にとれば、神武天皇から仁徳天皇までの期間(合計在位)、あるいは崇神天皇から仁徳天皇までの期間を4倍に延長した。
また、崇神天皇は4倍暦である。しかし、その他の天皇の倍暦は、4倍暦ではない。一律ですべての天皇に4倍暦を用いるような、定型化された、つまらない年代構成など編者の眼中にない。
長い間、古事記や日本書紀の年代解読ができなかったのは、例えば3倍暦や5倍暦などを用いるわけがないという固定された考えが根本にあるためかも知れない。
さて、「表28-1 仁徳天皇の年次表の解読」の説明をするが、3倍暦に基づき年代を区切っている。年月日(実質は月日)の暗号の解読を書き加えておいた。一部に1年程合致しないところがあるが、3倍暦で構成されていることを否定するものではない。
参考に、仁徳の年代を4倍暦で計算した結果をつけておく。
誤解のないように!
3倍暦は、仁徳の在位中の各年次の割り振りに関して用いられたものである。日本書記全体の中の仁徳崩御年の年代の位置付けは、4倍(暦)であることに変わりはない。この点を誤解してはならない。