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2009年10 月18日 (日)

垂仁の年次表を解読する

神武天皇から崇神天皇までの在位解読方法は、記紀に記載された数字を利用して行ってきた。しかし垂仁天皇の解読は状況がかなり異なる。
年次に記事もあり、記事の内容も加味して判断がなされなければならない。さらに皇太子時代が年代に加わっているのではないかという見解もあることである。また、手元資料には4年違いの2種類のデータがあり、これは垂仁天皇の誕生年と立太子年の年令とに食い違いがあるため生じたようである。このような数値を扱うのは困難である。

そのため、年次表の記事を解読に用いることにする。といっても記事(事跡)の内容ではなく、干支を見ることにする。「干支からは答が得られない」と、その方面の学者が言っておられるのを見たことがある。本当に干支からは答が得られないのであろうか。
干支も数字と同じである。干支は日常の道具であり、遊び心が働いてもおかしくはない。編者は干支を年代(在位)延長のための道具として用いたのである。
筆者は、十干の順序を間違えることがある。十二支と違い十干はなんとなく馴染まないのである。しかし、編者は天文学者なのだから十干も十二支も十二分に精通している。編者が干支で遊ぶなら、時に応じて十干や十二支を使い分けながら行ったであろう。

十二支による合わせ込み
垂仁の場合は、垂仁1年を垂仁25年の辰に合せ、2年を26年の巳に合わせ、と続ける。
後ろの方の90年辛酉は60年遡った30年辛酉に合わせる。そうすると99年庚午は39年庚午に自動的に一致する。
垂仁25年即位、垂仁39年崩御となる。在位は15年(実年)である。
同様の手法で求めた景行天皇の在位15年、成務天皇の在位7年を合計すると37年になり、古事記の数値とぴったり一致するのである。

十干による合わせ込み
上記の年代に合わせて記事を読んでみると、矛盾が見られる。上記の年代解読の場合、垂仁1年と25年を合わせたのは十二支の方であった。しかし、十干の方を基準に年代を合わせることもできる。垂仁3年甲午と垂仁23年甲寅であり、23年以降の年を20年間移動させればよい。垂仁の解読の基本は「十干」である。添付の「表21-2 垂仁の年次表の解読(年次の相互の関係)」で確認していただきたい。
「表21-2・・・」は、面白いことに、B系列の年次の数字は垂仁の実の年齢を表していることが分る。
なお、A系列は、景行の実の年齢を表しているが、垂仁との関係において、1年の狂いが生じていることが分る。これについては別途述べる。

「年代(数字)のからくり」は、重要な復元のための情報を提供する
編者が行った遊びを説明する。「年月日」をみると、関係する年が読み取れる。
例えば、垂仁7年7月7日、垂仁27年8月7日と垂仁87年2月7(25)日の数字に「からくり」があることに気付かれるであろう。7日は実7年次を示す。そこまでしなくても、60年差で読み取りができるのであるが、つい編者は「数字遊び」をしたくなったのである。
注1)垂仁7年次は、上記のとおり3年次分が同年である。2年分が同年であるケースはよく見られるが、3年は珍しい。編者は、解読をするときに間違いのないように配慮してくれているということに気付かなければならない。(これは、冗談で言っているのではない。)

シンメトリックの基準年であるニニギ暦元年は西暦元年、辛酉の年である
西暦1年(実際に編者らは、ニニギ暦1年と考えた)30年6月1日は、61年と読む。ニニギ暦(西暦)1年とニニギ暦(西暦)61年は同年であることを示唆した。年次表上では垂仁30年次辛酉の年と90年次辛酉の年が同年であることになる。重要なのは、ニニギ暦が実際に用いられていたことを証明することである。勿論、筆者の用いた表にはニニギ暦(西暦)に換算した年代が挿入されているが、日本書紀に記載されてはいない。しかし、この数字遊びのような6月1日という数字が、ニニギ暦元年に記載されたかを考えれば納得いくはずである。
注2)697年のシンメトリックの中央年(基準年)は、西暦で示せば、BC1年と元年(1年)である。実際にどちらの年を基準年にしたか、上記の例が答えを示している。「シンメトリックの基準年は西暦元年、辛酉の年である。」BC1年は記事なしの年として扱っており、無視してよい。また、30年および90年次と同年のはずの10年次には記事がないが、10年次は辛丑の年であるから関係しないのである。

田道間守が非時の香菓を持ち帰るのに、10年を要した
記載90年次、実10年次、垂仁は、田道間守を常世国に使わせて非時の香菓(ときじくのかくのみ)を求めさせる。
垂仁崩御の明年即ち翌年の71年次、(実20年次に相当する)に、田道間守が非時の香菓を持ち帰った。どうやら10年を要したようである。

垂仁崩御年337年、39歳、在位19年
上記の内容と「個別年次表」「合成年次表」などの他の検討結果を含めた垂仁の解読結果を述べておく。
垂仁即位は、319年、崩御337年で、在位19年。即位の年齢は21歳、崩御は39歳である。

「表21-1 垂仁の年次表の解読」および「21-2 垂仁の年次表の解読(年次の相互の関係)」を見てください。

表21-1 垂仁の年次表の解読

表21-2 垂仁の年次表の解読(年次の相互の関係)

「合成年次表」に関しては、「日本書紀の修正復元モデル(垂仁~仁徳の復元年代)」に添付した「表12-2 崇神~仁徳復元年代の詳細 」を見ていただきたい。
なお、「住吉大社神代記」に記載された垂仁崩年干支「辛未、53歳」に関しては別途「住吉大社神代記の垂仁崩年干支」に述べたので、参照してください。

2009年10 月 8日 (木)

応神天皇の年次表の解読する(外交史を含む)

応神天皇については、「応神天皇は、いつ生まれ、いつ崩御されたか?」において、誕生363年、即位381年、崩御403年、在位23年と述べた。編者が想定した応神の年代の基本的な考え方を示したつもりである。

応神の在位は倍暦では計算できない
日本書紀の年次表では、応神在位41年となっている。記載在位41年から復元在位23年を導き出すことは、2倍暦などの普通の計算ではできない。理由は以下の通りである。
応神天皇の年次表のうち記事のある年と記事のない年を分けてみると、記事のある年は23年間で、記事のない年は18年間である。記事が記載された年のみ在位として有効であり、これが在位23年の根拠の一つである。要するに、倍暦の手法は用いず、年数加算の手法を用いているのである。勿論、前提として倍暦は考慮されていると考える。

次に「表26 応神の年次表を解読する(外交史を含む)」および「表26-1 応神の「年月日」解読結果」を見ていただきたい。

表26 応神の年次表を解読する(外交史を含む)

表26-1 応神の「年月日」解読結果

既に、「表25 神功皇后の年次表を解読する(外交史を含む)」において外交関係の記事の年代を示した。それらのうち応神の年代に関係したものを移し替えている。
応神の年次表の一部の記事は、仁徳の年代に関した記事が含まれている。403年以降の百済関係の記事が該当する。記事の量からすればかなり多いが、応神の崩御の年代の誤りではなく、外交記事を神功皇后と応神天皇に集中させたためである。数字の上では120年という年代差が可能にさせたといえる。

応神天皇は中国への朝貢をしていない
中国への朝貢の使者は阿知使主である。阿知使主の関係記事を百済関係の記事と同じく+120年を加えるのは妥当かどうかである。一般的に、百済関係の記事には、「月日」が記載されないが、が記載されているからである。
添付した「表26-1 応神の「年月日」解読結果」に示した通り、阿知使主の関係記事3件に記載された「月日」を見ると、いずれも年代差「120年」を示唆する。添付した「表26-1 応神の「年月日」解読結果をみていただきたい。

応神天皇の崩御の復元年代がおおよそ420年以降になるのは、年代復元というより妄想にすぎない。410年代半ばに解釈される場合は復元の誤差は約10年の範囲にあり、否定するには説明が必要であろう。
対象は、413年の中国朝貢である。応神崩御は403年であるから応神朝貢はあり得ないのである。しかし、例えば応神崩御を413年と考えれば応神が中国へ朝貢したことになる。筆者の知る限り、応神崩御年よりも中国朝貢の年代が先にあり、応神崩御年を合わせ込んだような記事しか見ていない。一言でいうなら、記紀の編者は基本的に朝貢の記事を嫌がっているのである。誰が朝貢したか分らない413年の朝貢など記載対象にはなっていないということである。

日本書記の記載では、阿知使主らが来日したのは応神20年次である。復元年代は409年で仁徳の時代である。百済関係の記事と同様に120年の年代差で見なければならないのである。
「応神37年次、阿知使主を呉に遣わす」とあるが、復元年代では426年になり、425年の中国朝貢を想定したものであろう。
応神41年次の記事は面白い。「阿知使主らが呉より(帰国し)筑紫に至る。武庫に至りて(応神)天皇崩御を知った。間に合わなかった。」とする。阿知使主らの記事を仁徳の年代に移せば、阿知使主らが425年の中国への朝貢を果たして帰国したときには、仁徳天皇が崩御され(427年1月)、生存中に報告ができなかったのである。

「年代(数字)のからくり」(呉国が朝貢してきたので使いを出した)
また、仁徳天皇の58年時の記事に、「呉と高麗国が朝貢してきた。」とあるが、復元年代は425年(または424年)である。「応神37年次、阿知使主を呉に遣わす」という記事と一対になる記事であり、「425年に呉国が朝貢してきたので、426年に呉国に使いを遣わした。」と読み取れる。これが日本書記の編者の考案した「年代(数字)のからくり」であり、編者の考え方が十分に示されているのである。
併せて、阿知使主らの記事に、120年の年代差を意味する「月日」を用いた理由も分るのである。

2009年9 月13日 (日)

神功皇后の年次表を解読する(外交史を含む)

日本書紀の神功皇后の年次表の解読の基本的なことについて述べる。
神功の記載内容は豊富である。201年から始まり、269年100歳で亡くなるまでの摂政在位69年には中国史書に関係した年代や、百済に関する年代が含まれているためである。現在でもいろいろな解釈が生まれるのは、神功皇后の位置づけが特異なためであるからで、記述に惑わされ、複雑に考えるため在位や年代を見誤るのである。記載された数字について、素直に考えればよいのである。

第一に、神功皇后の在位については、天皇と同等の在位は存在しない。摂政在位69年は架空のものである。
しかし、神功の記述は、応神天皇の誕生が神功皇后摂政元年、記載年代201年、復元年代363年であることを示している。また応神天皇の記載在位41年との関係と、応神崩御記載年代310年は、復元年代403年を示唆する。
関係する天皇の年代と在位については「表12-2 崇神~仁徳復元年代の詳細」に示すので見ていただきたい。

表12-2 崇神~仁徳復元年代の詳細

第二に、日本書記の編者は架空の神功皇后を創作したが、編者が描いた神功皇后の原人物像は年次表の解読によってある程度得られる。神功皇后の存在とそれに伴う摂政在位を信じる学者が主張する年代や在位は、ほとんどがこれに相当するものである。
架空の人物像としての神功皇后に関する解読結果は、「表25 神功の年次表の解読(外交史を含む)」および「表109 神功皇后の年次表の詳細」に示した。その裏付けとなる「表25-1 神功皇后の「年月日」解読結果」も添付する。

表25 神功の年次表の解読(外交史を含む)

表25-1 神功皇后の「年月日」解読結果

表109 神功皇后の年次表の詳細

架空の神功皇后の原人物像を考える場合の年代や年齢に関する情報は、上記の「表25」の注にポイントとなる事項を述べておいた。
以下に補足説明をさせていただく。

記載年代は二系列に分けられる。
A系列は201年から242年までである。この年代を実年代に直すには162年を加えればよい。
その訳は、仲哀崩御200年が実年代では362年であり、その差が162年であるから、201年に162年を加えるのである。記載年代200年=実年代362年が否定されない限りにおいて、それ以外はあり得ないのである。
B系列は243年から始まる。大半の記事は百済関係であり、実年代に直すには120年を加えればよい。百済関係、特に百済王が記載された年次は120年を加えると百済の歴史にほぼ一致する。また、神功の没年である269年も、実年では120年を加えた389年であり、干支が一致するのは60年の整数倍を加えたのであるから当然である。
中国史書に関する年次239年、240年、243年、266年は、編者が中国史書を見て、それぞれ該当する年に組み入れたものである。

神功皇后の摂政在位について
一つ目は、神功摂政元年は363年、摂政退位は371年、在位9年であり、没年を389年とする考え方である。摂政退位371年の考えの根拠は、51年次(復元年代371年)の記事「朕が存(い)けらむ時の如くに、厚く恩恵を加えよ」を摂政退位の言葉と見るからである。
二つ目は、神功摂政元年は363年、崩御389年とし、在位は27年とする考え方である。
神功崩年100歳(実58歳)に相当する年代である。

日本書記の編者は賢い。創作が簡単に見破られるようなことはしない。古事記の編者も抜かりがない。上記の記事をとらえて、神功皇后の摂政の期間9年分が応神在位に含まれているかのような錯覚を起させた。

神功皇后の年齢について
201年、復元年代363年における神功皇后の年齢は、32歳が読み取れる。モデルが誰なのかの検討に役立ちそうな気がするが、筆者はまだ検討できていない。
ただし、年齢からみて、仲哀天皇が14歳で即位したとき神功皇后は41歳(または25歳)であるから、仲哀天皇の皇后とするのは妥当ではない。古事記に記載された通り、大后である点は間違いがない。

応神天皇崩御後の空位年は編者の腕の見せ所
日本書記の編者は年次表の構成において、神功皇后摂政元年の201年、復元年代363年を応神の誕生年とした点も見事である。
さらに、編者の応神天皇崩御後の空位年の扱い方は抜群である応神天皇の崩御の年齢を在位に見せかけ41年(歳)とし、他方で神功皇后の最終年次として42年次を作ったことである。
42年次、即ち404年は、神功皇后と応神天皇の一連の物語の年代に含まれることを示すことによって、404年が空位年であることを示唆した。それに伴い、仁徳天皇の在位は405年から始まることになるのである。
注)摂政69年次は見掛け上最終年次であるが、復元年代は389年であり、42年次404年の方が下った年代になる。

2009年9 月 4日 (金)

孝元天皇~崇神天皇の年次表を解読する

筆者は、「各天皇に、『年代(数字)のからくり』が少なくとも1件は存在する」と主張してきたが、孝元天皇から開化天皇の年代には『年代(数字)のからくり』が見つかっていなかった。さまざまなからくりの仕組みが解読できてきたことから、再度見直しをした結果、孝元天皇と開化天皇の年次表に記載された前の天皇の陵に葬る年次を見ると、孝元天皇にあっては6年次になっていること、開化天皇においては5年次になっていることに気付いた。それぞれの天皇の復元年代、この場合は即位の年代、の位置付けを6年あるいは5年ずらしてみなければならないということであった。
追記(2009/10/14)従来の年次表「表12-1 神武~崇神復元年代の詳細」を修正したので見ていただきたい。

表12-1 神武~崇神復元年代の詳細

新しい復元年代と在位は、次のとおりである。
孝元崩御:293年、在位26年(従来:296年、在位29年)
開化崩御:301年、在位8年(従来:301年、在位5年)
これにより、各天皇のチェック事項における1年ずれおよび開化天皇と崇神天皇の接続の問題が解消した。

開化天皇と崇神天皇の年代の接続
最大の収穫は、孝元天皇~崇神天皇の記載された事項(チェック事項を含む)と復元年代が一致したことである。
特に、開化天皇および崇神天皇において、年代の接続が悪かった従来の復元年代が、整然とした。従来、2年のズレがあり補正が必要としたり、2倍暦と実年記載の切り替わる年代で調整する考え方を示してきた。
上記の新しい解読方法では、2倍暦が用いられたのは開化崩御301年まであり、崇神即位302年から実年による記載に切り替わる。筆者の主張する「2倍暦と実年記載の切り替わる年代が開化と崇神の間にある」という考え方は活かされていて、一層明確な解決となった。

2009年8 月 6日 (木)

日本書記の「神武の時代」を推理する

日本書記の年代を復元しようとすると、推理をしなければならいことが多々ある。
そのうちに、日本書紀自体が推理小説ではないかと思うこともある。それも下手な推理小説家では真似すら出来そうもない素晴らしい内容を持っている。そのような事例を紹介しようと思う。といっても、これから小説を書くわけではない。日本書紀の編者が創作した推理小説のポイントを述べるだけである。
参照「表12-1 神武~崇神復元年代の詳細」

表12-1 神武~崇神復元年代の詳細

追記(2009/10/29)
参照として添付した「表12-1 神武~崇神復元年代の詳細」は、新しい情報を加え、さらに整理されてきた。基本的な内容は全く変わっていないが、以下の説明では分りにくくなっている。
また、記事を読むと、筆者の年代復元における苦労話になってしまっている。本来述べなければならないことがおろそかになっている。次の投稿記事を読んでいただきたい。
綏靖、安寧、懿徳の各天皇の崩御年は同じ年」(カテゴリ「記紀のからくり」)

神武天皇在位14年のシンメトリック」(カテゴリ「シンメトリック」)
神武天皇と懿徳天皇の34年のシンメトリック」(カテゴリ「シンメトリック」)

1)神武天皇が崩御して、皇子の綏靖が天皇になるのだが、綏靖即位まで3年の空位期間がある。よくあることだが、皇子の間で跡目争いがあったのだ。
復元年代として神武崩御年が決まると、次は綏靖が即位するのだが、「綏靖は神武42年次に立太子となり、このとき(計算上)14歳であった。」を基に、綏靖の誕生年が分る。綏靖誕生は、神武29年次(神武実27歳)である。
神武が崩御した神武76年次(神武実51歳)には、綏靖は48歳(実24歳)になっている。3年の空位期間があって即位するから、綏靖は52歳で即位したことになる。
あれ! 綏靖も神武と同じ52歳(実26歳)で即位したのか、と思わせる。何となく解読が正しそうな感じがしてくる。

2)実際には、神武76年次(神武実51歳)や綏靖48年次(綏靖実24歳)は年代延長による架空の年次である。神武が実際に崩御した神武52年次(神武実39歳)まで年代を遡って見ると、綏靖24年次に相当し、実12歳である。空位3年があるとすると、綏靖は177年に実14歳で即位したことになる。どうやら正解にたどり着いたようだ。

3)ところが、筆者は面倒なことは嫌だから、合成年次表の作成において、綏靖の誕生年を直接、空位3年分ずらして表を作成した。
その結果、綏靖は、神武76年次には綏靖45年次(23歳)になり、神武79年次に綏靖48年次(24歳)になる。3年分ずらしたのだから当然のことである。175年の神武崩御のときは綏靖実11歳、177年には綏靖実13歳で即位したことになる。
一体、どっちが正しいのだろうか。13歳でも14歳でもどっちでもいいじゃないか、と思いたくなる。
どちらの場合も、即位の前に空位3年を入れたつもりでいたが、違うようだ。同じ3年ずらしたつもりが、年次表の年代は2倍暦を基本にしているから、1.5年分しかずらしていないのであり、0.5年の食い違いが1歳の違いとして表れるのだ。

4)前述の1)において、綏靖誕生は、神武29年次(実27歳)であると述べた。上記の2)も、綏靖誕生が、神武29年次(実27歳)になっている。上記の3)は、綏靖誕生が、神武32年次(実29歳)になっている。文章で書くと長ったらしくなるから、それぞれの年次のときの年令を( )内に記した。これでお分かりいただけただろうか。
綏靖誕生は、神武29年次ではなく、神武実年齢29歳のときであった。」要するに[年次]から[年齢]への変換が必要だったのである。
合成年次表のチェック次項として見た場合、[神武29-綏靖誕生]であって、「29年次とか29歳というように、単位をつけてはいけないのである。」これが、年代解読のポイントである。

解読手段としての合成年次表の威力
在位や年齢および年代の解読手段として合成年次表は、威力を見せ付けてくれ、綏靖の解読に大きな役割を果たした。
前述した投稿記事は、年代の復元に関する貴重な情報で与えてくれるので、お読みいただきたい。
また、合成年次表は、以上の他にも面白いことを教えてくれる。

5)安寧の即位は、安寧29年次(実15歳)である。綏靖の崩御181年と同年になるため、元年は182年である。
さて、安寧29年次から、安寧の実29歳は何があるのだろうか。日本書紀には安寧の宝算が57歳と記載されている。年次表上で計算される宝算は67年で10年異なり、57歳という記載は間違いである。しかし、57歳が意味をもっていたとしたらどうだろうか。
57歳の記載は、綏靖、安寧、懿徳の3天皇の崩御年を同じにするために必要だった」のである。
神武の時代が終わる195年以降にどのような数字があったとしても全く意味のない数字である。「編者は、それを承知の上で安寧の宝算をわざと間違えた振りして記載した。」仮に、この宝算の改変を編者以外の人物が行ったとしたら、編者が考えた「からくり」を1年と狂いなく知っていたことになる。

安易に、「編者が間違った」としてはならない
「編者が間違いをした」と指摘する学者がよくおられるが、上記のような結果を想定すれば、間違いを犯したのは編者ではない。訳も分らず改変するのは、許されない。
また、綏靖の場合の195年の年次は48年であった。記載された宝算は84歳である。逆数を用いただけなのだ!しかし、安寧の場合と同様に、195年に33歳で崩御されることを示唆する為になされたことである。
こういうことも知っておかないと、日本書記の編者を理解していないことになり、復元はできないのである。

2009年7 月29日 (水)

仮説:仁徳天皇の年次表の解読(年代のからくりの解明)

最初に、この仮説の結果を述べておく。
仁徳天皇は、405年に即位し、427年に崩御された。在位は23年である。
「表27-1 仁徳天皇の年次表の解読」を見ていただきたい。

表27-1 仁徳天皇の年次表の解読

筆者にとって、仁徳天皇の年代や、在位の解読が最も難しかい。しかし、考えてみれば、そのお陰でいろいろなことが発見できたといえる。
例えば、4倍暦の基準年がある。
神武天皇即位から仁徳天皇崩御年(厳密には、履中天皇即位元年)までの年代は、実年の4倍であるとしてきた
当初は、倍暦の計算の基準を、神武天皇即位年BC660年としていたため、仁徳天皇即位年は復元年代では426年となった。ところが、基準年を神武天皇の太歳干支の付与されたBC667年(東征開始年)とすると427年が得られることが分かった。4倍暦の基準年がBC660年とBC667年の2種類あり、両者の差は1.75年ある。使い分けされているのである。

本題の、年次表の解読に関して述べる。
従来の考え方は、仁徳天皇の在位は記載上87年であるから、1/4は22年と看做す。崩御が427年とすると、即位年は406年となる。
応神天皇は、363年に誕生し、41歳の403年に崩御されたと考えている。
従って、応神崩御後に存在する記載上の空位2年を、実年でも2年あったとすると、仁徳の即位年は406年となるが、空位年が1年しかなかったとすると、即位年は405年になり在位が23年になるのである。
従来の考え方は、一見、応神天皇と仁徳天皇の年代的な繋がりはうまくいっているように思えるが、筆者には納得がいかない。重要視される天皇には、必ず「年代に関わるからくり」がある筈なのに、仁徳天皇には存在しない点であった。聖帝といわれるくらいなら、なおさら何かがなければならない、という筆者の思い込みである。

仁徳天皇に仕掛けられた「からくり」

1)応神天皇と仁徳天皇の在位23年のシンメトリック
応神天皇の崩御後の空位年は、実年で1年とし、1年分を仁徳の在位と仮定すると、仁徳の在位は22年から23年に変わる。これにより両天皇の在位はそれぞれ23年になる。即ち、404年の空位年を基準に23年のシンメトリックが作られている。
(応神天皇の即位381年、崩御403年、在位23年、空位年404年、仁徳天皇の即位405年、崩御427年、在位23年)
このシンメトリックは、応神天皇の崩御と仁徳天皇の即位の年代関係の詳細は編者にも分らなかったための解決方法なのかも知れない。

2)仁徳天皇の年代は3倍暦
仁徳即位年から67年次までは基本的に3倍暦である。3倍暦が成立するには69年にならなければ、23年の在位は得られない。そのために、空位年2年目の1年と履中元年の1年が加算され、合計69年となる。また、68年次から87年次までの20年間は、年代延長のために加算された20年であり、87年次は20年遡り67年次と同年となる。
仁徳67年次の記載を見ると、10月18日の記事には月が記載されていない。仮に10月が記載されていれば、月日の暗号は解読できない。編者の巧妙な工夫である。特別に「天下大きに平らなり。20余年ありて事なし。」は、67年次と87年次が同年であることを示唆するキーである。

3)崩御してから陵を築く
記事のままとすると、仁徳天皇が崩御する20年(記載年代)に陵地を定め、陵を築き始めたことになる。大きな古墳として残っているから、早めに作り始めたと解釈することもできる。仁徳天皇の場合には、4倍暦を基本にしているから、5年前から作り始めたことになる。海外の歴史では崩御前に自らの墓を作ったとする事例も存在するから、あり得ないことと決めつけられない。
仮説の場合には、上記に述べたとおり、20年分が加算されているとするから、崩御された後に古墳(墓)を作り始めたとなる。これにより、20年間何も記載されない不自然さも解消する。
月日に従って、順序を入れ替え、推測を加えると次のようになる。
67年次1月16日、仁徳崩御
濱については記載なし
10月5日、陵地を定める。
10月7日、陵に葬る(陵が完成するまでの仮埋葬)
10月18日、陵を築き始める。
20年後87年次(4倍暦とすると5年後、3倍暦とすると7年後)陵が完成し、陵に埋葬する。

この仮説の意味するところ
ある有力な学者が、日本書紀には2倍暦または4倍暦が用いられており、その他の倍暦は用いられていないという見解を示されていたが、筆者の主張とは異なっている。筆者の主張は「n×2倍暦」や「n倍」の考えに代表されるが、倍暦に関する関係記事を読んでいただきたい。
しかし、仁徳天皇の年代に限れば、筆者も87年次という数字を、4倍暦の88年(22年の4倍)に1年不足した数字であると思っていたのも事実である。3倍暦であるとすれば、前にも述べた通り、67年は2年不足しており、69年(23年の3倍)としなければならない。

3倍暦に気がついたきっかけは、シンメトリックだけではない。古事記において神武天皇から崇神天皇までの年代に5倍暦が用いられていることを発見したことも関係する。
古事記の編者も日本書紀の編者も、物事を一律に処理することを、脳なしと見る。自由な発想で、アイディアを尊重し、同じことを繰り返さない。古事記に至っては、日本書紀の編者の真似は決してしないのである。
4倍暦を例にとれば、神武天皇から仁徳天皇までの期間(合計在位)、あるいは崇神天皇から仁徳天皇までの期間を4倍に延長した。
また、崇神天皇は4倍暦である。しかし、その他の天皇の倍暦は、4倍暦ではない。一律ですべての天皇に4倍暦を用いるような、定型化された、つまらない年代構成など編者の眼中にない。
長い間、古事記や日本書紀の年代解読ができなかったのは、例えば3倍暦や5倍暦などを用いるわけがないという固定された考えが根本にあるためかも知れない。

さて、「表28-1 仁徳天皇の年次表の解読」の説明をするが、3倍暦に基づき年代を区切っている。年月日(実質は月日)の暗号の解読を書き加えておいた。一部に1年程合致しないところがあるが、3倍暦で構成されていることを否定するものではない。
参考に、仁徳の年代を4倍暦で計算した結果をつけておく。

誤解のないように!
3倍暦は、仁徳の在位中の各年次の割り振りに関して用いられたものである。日本書記全体の中の仁徳崩御年の年代の位置付けは、4倍(暦)であることに変わりはない。この点を誤解してはならない。

2009年7 月26日 (日)

履中天皇~雄略天皇の年次表の解読

先ず、添付の「表28-1 履中~雄略の年次表の解読」を見ていただきたい。

表28-1 履中~雄略の年次表の解読

従来において課題とされたまま解決されていない点を年次表に基づき述べていく。
大きな課題は、次のとおりである。
1) 反正天皇の濱の問題(反正天皇と允恭天皇の在位が関係する)
2) 安康天皇の年代
3) 雄略天皇の在位の問題

解読方法の特徴日本書紀記載の「年月日の暗号」の説明
筆者は、日本書記に記載された年月日は暗号であると主張してきた。しかし、不完全な暗号であり、信頼性に欠ける代物である。だから、「暗号ではない」というなら、そういうことで構わないのだが、解読に役に立ち、有効であるとするなら、何と呼べばよいのだろうか。ということで、筆者は「年月日の暗号」と呼んでいる。
ただし、全ての年月日が暗号というわけではない。上記の年次表に「赤い太字で書いた数字」の部分が暗号に相当し、[ ]内は計算の根拠を示している。
「年月日の暗号」の例は、かなり多く蓄積できている。編者の数字の扱い方の中には、次のような独特な扱い方もある。例えば、11は2とする。12(十二)は、12そのままも場合もあるが、+2の場合や逆数20の場合がある。早い機会に、まとめて紹介することとする。
また、年次表自体は、「年月日の暗号」を用いなくても影響を受けないが、暗号によって裏付けが強化されていると考えている。
さらに、復元年代は、古事記の「御年」、「月日」「治天下年数」の暗号の読み取りによる復元年代と完全に一致している。

反正天皇の濱(もがり)について

反正天皇の濱(陵への埋葬前の葬送の儀礼の意味)の記事は、允恭5年次に記載されている。このため、崩御から5年もたった時期に濱が行われるのは異常であると考えられてきた。その辺りについては、「日本書記の真実」の著者である倉西裕子氏が「書記における14人の濱の記事」にしっかりと纏められている。
倉西裕子氏の調査の結果は、「反正天皇を除いて、全員が崩御後数カ月以内に濱が行われている。」とする。
筆者の解読結果を説明する。
反正天皇の最終年次は5年次で等倍暦(実年)で書かれ、崩御後に1年の空位年がある。それに対し、允恭天皇の年次は42年あり、2倍暦である。半分の21年が実年になる。従って5年次は3年目に当たることになるが、倉西氏の結果と比べると3年では多すぎる。
5年次がどの年代に当たるかを調べると、年次表に示した通り、反正天皇の在位は5年から7年に延ばし、允恭天皇の在位を21年から20年に変えると、全てが満足する結果が得られる。即ち、1月の崩御の6カ月後の7月に濱が行われていたのである。
もしかすると、允恭天皇の年代は2倍暦で記載されているから、春年の7月とすると4月かもしれない。それなら、崩御の3カ月後となる。
さて、上記の「年月日の暗号」は[39]を示唆し、濱の年代が西暦439年にあったことを裏づけてくれている。

倭国王珍は反正天皇

従来の問題点として、中国史書における「宋の文帝に対する倭国王珍の朝貢は西暦438年」とされており、反正天皇が437年に崩御された1年後になり、いろいろな説が提案されてきた。
解読された復元年代では、反正天皇の崩御は439年となり、反正天皇が倭国王珍として438年に朝貢したことが明確になった。
なお、履中天皇在位は428年~432年で、430年の朝貢は履中天皇による。
年次表に記載したとおり、允恭天皇は倭国王済で、安康天皇は倭国王興であり、雄略天皇は倭国王武である。この年次表には載らないが、仁徳天皇が倭国王讃(賛)である。応神天皇は年代から見て対象にはならない。
これで倭の五王(国王名の記載がない履中天皇を含めると、六王になる)はすべて明らかにすることができた。

雄略天皇の在位は6年減じた17年

日本書記の年代は延長されているが、実年に対する年代差を崇神天皇以降の各天皇の崩御年で追っていくと、安康崩御462年の段階において、6年の年代差が残っている。
従って、雄略元年は、記載年代457年に対し年代差6年を加算すると、463年になる。
年代差は、雄略2年次から7年次まで毎年1年ずつ解消され、7年次463年において消滅する。従って、基本的には元年から7年次までの7年間は463年となる。
しかし、この7年間には463年以外の年代の記事が混在している。例えば、雄略2年次の百済の池津媛の記事の正しい年代は不明である。5年次の百済の蓋歯王、昆支、武寧王誕生などの記事は、462年の出来事と考えられる。記事元の「百済新撰」などにおいて1年の狂いがあるとされているが、筆者は確認できていない。いずれにしても461年か462年であり、安康の年代である。残る記事、例えば、「葛城山に狩りをする」や「小野に遊ぶ」などの記事は年代を明らかにできない。
雄略天皇の崩御直前の記事は、中国史書および百済、高麗の記事で、年代が分っている記事である。479年以降の記事が存在しないため、崩御年は記載のとおり479年が正しいと判断する。在位は17年(463~479年)である。

古事記の崩年干支の読み取り年代との関係
古事記の崩年干支の読み取り年代と解読した復元年代を比較してみると、反正天皇崩御年437年に対し2年、允恭天皇崩御年454年に対し5年食い違う。それだけの食い違いしかないのだが、中国史書の年代から見ると、きわめて大きな影響を与え、倭の五王の年代は分らなくなっていた。
古事記の編者は正しい年代を知っていながら、年代を変えたのは、中国への朝貢を明らかにしたくなかったのであろう。この点、日本書紀も同様である。
さらに、雄略天皇は重要な位置付けにあったようで、日本書紀では、在位を17年から23年へ伸ばした。同様に、古事記では崩御を489年と、10年下った年代に延ばした。いずれの場合も、雄略天皇を重要視して在位期間を少しでも長くしたかったと考えられる。

2009年7 月 7日 (火)

開化天皇の年次表を解読する 

年代の解読を始めたばかりのことだが、開化の在位は、日本書紀に記載された年次60年から、1/2の30年や1/4の15年が推測できる。何しろ数字が限られているのだから、これ以上は解読できないのではないかと思っていた。多くの学者の方々の年代復元で神武即位が西暦100年以前にいくのも、開化の在位を二倍暦として30年と読むことが影響している。他人様の復元年代を批判するわけではない。実は、筆者もつい1か月前までは開化在位5年を主張していた。現在(2009年9月)は、在位8年に訂正している。
在位8年の根拠は、次の合成年次表「表12-1 神武~崇神復元年代の詳細」によるものである。

表12-1 神武~崇神復元年代の詳細

開化16立太子は、「孝元22-16開化立太子」に基づく
「孝元22-16開化立太子」は、日本書紀に記載された重要なチェック事項である。合成年次表上で、上記の条件に合致する年代を探すことになる。この場合は、孝元の実年齢22歳と開化の実年齢16歳が一致する年代が選ばれた。
また、開化と崇神の関係は、「開化28-19崇神立太子」がチェック事項になっており、この関係式から二つの結果が得られる。「開化28年-崇神誕生」と「開化10-崇神誕生」である。
開化に戻ってチェックすると、開化28年の崇神の立太子年を誕生年と読み替えると、実年の崇神が誕生する。開化10年には、記載上の崇神が誕生する。

「開化5年次、孝元を陵に葬る」は、5年の年代延長がされている
崩御から陵に葬るまでの期間は、他の天皇の例から見て1年程度である。開化の場合は5年分が年代延長の一環として加えられている。5年分の修正を加えた場合の記載上の元年は、立太子年から始まっていることが分る。この場合の見掛け上の開化の在位は13年となるが、実在位は、上記5年分を差し引いた8年となる。
なお、孝元の場合にも「孝元6年次、孝霊を陵に葬る」の記載があるが、上記と同様に年代がずらされており、記載上の元年が立太子年から始まっている。

神武即位162年から開化崩御301年までは2倍暦
日本書記の記載は、神武即位162年から開化崩御301年までは2倍暦で記載されている。2倍暦で記載された期間(合計在位)は140年である。
この件については、別途詳細を述べているので省略する。
カテゴリ「倍暦(2倍暦、4倍暦)」の記事「日本書記の在位と年齢の倍暦に関する一考察」などを参照してください

以前(2009年8月)の筆者の主張(従来、筆者が述べてきた記事である。)
即位前の神武天皇を引き継ぐ崇神天皇
あるとき、年次表を眺めていて、崇神の誕生年が開化10年であることに気付いた。開化の在位は9年分で、後の51年は崇神のための数字だったのだ。ここから、いろいろな数字が繋がった。御肇國天皇である崇神天皇が即位前の神武を引き継ぐには、神武と同様に52歳でなければならなかったのであり、そのために崇神の即位までの51年は重要な数字であった。編者は、どこかに紛れ込ませたのではなく、開化の本来の在位9年の後に堂々と51年を加えたのである。開化の在位は、実年で在位5年である。筆者はこの解読が正しいと信じているのだが、「編者が考えそうなこと」と「必ずキーとなるものが隠されている」がその理由である。多分まともな根拠でないと言われそうである。

開化天皇の在位5年の根拠
筆者の考える標準在位計算式では、開化在位5年[60/2-52/2+1=5年]となり、在位のあり方として典型的な構造をしている。この標準在位計算式で、崇神以前の天皇の在位は大半が計算できるのであるから、在位は5年で正しいとおもわれる。
合成年次表から読み取った開化即位年は、296年で修正値は297年、崩御年は300年で修正値は301年で、在位は5年である。

2009年7 月 4日 (土)

成務天皇と仲哀天皇の年次表を解読する

筆者は、崇神天皇から仲哀天皇までを一つの王朝の物語と考えている。崇神天皇から順次、各天皇の年次表の解読内容を説明してきた。成務天皇と仲哀天皇が残っているが、二人の天皇の在位と年代には分けがたい点があるため、まとめてのべる。
「表23-2 成務天皇と仲哀天皇の年次表の解読]を見たうえで読んでいただきたい。

表23-2 成務天皇と仲哀天皇の年次表の解読

年代解読は、天皇ごとの「個別年次表」と各天皇を一表にまとめた「合成年次表」の二通りで行っている。
成務天皇と仲哀天皇の場合には、個別年次表と合成年次表において、成務崩御年および崩御後の空位年の有無について、結果が異なっている。
成務即位年359年、仲哀即位年372年および仲哀崩御年380年、仲哀在位9年は同じ結果であるから、基本的には問題は大きくないのかもしれない。
「個別年次表」と「合成年次表」の食い違いの個所を詳しく述べると次のようになる。
個別年次表においては、成務の崩御年(成務60年次)は370年であり、崩御後の1年の空位年は371年とする。在位は12年となる。
他方、合成年次表では、成務60年が371年となり、空位年はなく、在位は13年となる。

記載年代と復元年代は干支が一致

個別年次表(上記の「表23-2 成務天皇と仲哀天皇の年次表」を指す)では、次の点で記載年代の干支と復元年代の干支が一致している。復元年代は信じられると考える。
370年庚午、成務崩御、在位12年【書記記載190年庚午の崩年干支と一致】
371年辛未、空位【書記推定191年辛未の干支と一致】
372年壬申、仲哀即位元年【書記記載192年壬申の干支と一致】
380年庚辰、仲哀崩御22歳、在位9年【書記記載200年庚辰の崩年干支と一致】
381年辛巳、応神即位元年

では、何が問題なのか。
合成年次表の「成務60年、371年」と個別年次表の「成務60年次、370年」の食い違いである。上記に述べたとおり、個別年次表の復元年代は信じられるとすると、合成年次表の数字は何なのだ、ということになってしまう。理由が分かればよいのだが、今は分らない状況にある。おろそかにしてはいけない点である。

当初は、神功が存在するとして解読を進めた結果、古事記に記載された崩年干支にたどり着いた。その後、神功という人物はいたかもしれないが、年代に関わることはないと考えて解読を進めてきた。4倍暦にも合致するし、上記のように一部の天皇の干支が日本書紀に記載された干支に一致した。「干支一周り60年であることから、干支が一致するのは一部の天皇で十分である。」すべての天皇に干支が一致するなど理論的にあり得ないことを期待しないことである。

成務と仲哀の記事なし年次は、神功紀の外交関係の記事で埋まる
成務も仲哀も、記事の書かれた年次は少ない。それだけに在位を解読するのは難しい。
仲哀は、日本書紀では在位9年、古事記では7年である。どうやら、この件に関してだけは双方の編者が譲れなかったことと理解する。日本書紀にあっては9年が正解のようだ。
また、成務も仲哀も有効年次であって記事なしの年次が多い。しかし、神功皇后に記載された百済などの半島との外交関係の記事を120年加算し、成務と仲哀の該当する年次に戻すと、記事なしの年次が埋まることになっている。

2009年7 月 3日 (金)

景行天皇の年次表を干支から解読する

景行天皇の在位の解読には、十干を利用する。景行天皇の事跡の特徴として行幸がでてくることである。有難いことに、歴史学者の多くの方が行幸は皇太子時代のもので在位の延長に用いられているから、この分を差し引かなければならないと教えてくれる。
景行17年から20年までは行幸の記事のようであるから、これを外に放り出してしまおう。そうすると自動的に景行4年が25年と続くから景行4年を24年に置き換える。結果として、景行1年は景行21年になるのである。この作業が正しいかどうかは、十干を見比べれば歴然である。即ち、景行4年(24年)は甲であり、25年は乙である。
まだ納得いかない方のために、別の根拠を述べておこう。
景行4年の記事は、2月11日の出来事であり、次の景行25年の記事は2月12日である。
放り出した景行17年には3月12日の出来事が記載されている。景行4年の記事の後にどちらの記事が続くのが良いかは並べてみれば明らかである。
さて、放り出した景行17年から20年までの記事は、皇太子時代のこととして垂仁天皇の中に収めればよい。

古事記の崩年干支の空白を埋める

以下の記事は、以前に書いた記事であり、古事記の崩年干支の年代に結びつく。現在の考え方とは異なるが、どこが異なるかを知っておくのも重要である。
記事のない空白を見ると、当然景行1年から20年までの20年間は空白になっている。
また、景行29年から38年の10年間と景行45年から50年の6年間が空白である。
上記の空白期間のうち30年分を在位60年から引くと30年が残る。景行在位は30年の2倍暦を解消した15年が実年在位である。(6年間が空白は無視する)
景行の年代は、即位334年、崩御は348年、在位15年となる。これにより、垂仁在位15年、景行在位15年、成務在位7年の合計は37年になり、古事記の崩年干支の空白が埋まる。

現在の年代復元考え方
空年は、1年から20年までの20年間と29年から38年の10年間および42~50年次の9年の合計39年あり、60年から39年を減年すると21年が正味の在位となる。
前述した説と比べると、2倍暦の考えを捨てていることである。倍暦は[60÷21=2.86倍]で、意味はない。
垂仁崩御337年であるから、景行即位338年、崩御358年、在位21年となる。
垂仁崩御の記載年790年(神武暦)は、4倍暦を解消すると、358.5年≒358年となる。これが年代決定の根拠になっている。
なお、前述の空年6年を9年としたが、一部の記事(43年次の日本武尊の白鳥陵に関する記事)が年次を示す記事ではないため、前後の空年を含め、除外した結果である。
「表22-2 景行の年次表の解読]を見ていただきたい。

表22-2 景行の年次表の解読

筆者の雑感
「干支からは答が得られない」と考えた方は、真面目すぎて、干支の使われ方を見誤ったのである。また、編者の考えに目を向けなかったのである。
編者である天文学者は、高級官僚である。遊んでいても食うに困るわけでもない。20年もかけて作ったのであるから、時間も持て余すほどある。編纂の内容を面白くするために干支を操るくらいた易いことである。それに年代延長をすれば、没年干支を正しい干支で表示することは無意味と、始めから無視したのである。