応神天皇に抹殺された仲哀天皇一族
仲哀天皇は「国内平定」派
仲哀天皇は372年13歳で即位した。仲哀天皇は父日本武尊の意思を継ぎ、「国内の版図拡大と国内の平定」を目論み、熊襲と戦った。それは、崇神天皇以来の三輪王朝の宿願であった。
372年には、百済からは、平和協定の印として、七枝刀が贈られた。仲哀天皇とその支持者は、半島との関わり合いには消極的で、まして半島への武力による進出には反対であった。
仲哀天皇は380年22歳のとき、記載によれば、「朕(われ)周望するに、海のみありて国なし」と言わせ、神の信託を信じなかったため殺されたという。反対派に殺害されたのであろう。その理由を、神功皇后という架空の人物を通して明らかにしている。「この国に勝りて宝ある国、海の向こうにある新羅の国、まばゆい金・銀・彩色その国にあり。神を祭るなら、その国かならず服するであろう」と、神に言わせている。
注1)上記に内容は記載に基づく。実際の復元年代からすれば、半島の事情も知っていたし、百済との関係も生まれている。
「半島への介入」派が勢力を持ち始める
崇神天皇から仲哀天皇までとは異なる考えを持った新しい勢力であり、応神天皇から始まる河内王朝の各天皇である。河内王朝は、国内に飽き足らず、半島に利権を求めた王朝である。どの程度のもくろみと勝算があったのか不明であるが、新羅のみならず高句麗を相手にしてまで戦ったことからすると、かなり強気の考え方を持っていた可能性がある。
半島への介入を実現させるには、反対勢力の仲哀天皇を亡きものにしなければならなかったのである。
幼少の仲哀天皇皇子も抹殺された
362年、仲哀天皇が殺害されたときには二人の皇子がいた。仲哀天皇が13歳と若くして即位した後、間もなく皇子が生まれたとしても、皇子らは10歳以下(8歳とか5歳)であったと推測される。香坂王(かごさかのみこ)は狩りに出て猪に食い殺されてしまった。残された忍熊王(おしくまのみこ)には、倉見別や五十狭茅宿禰らの支持者が付いていた。
日本書記の記載では、このとき、応神天皇は生まれたばかりであり、母親の神功皇后は、武内宿禰と武振熊に命じて、数万の軍勢により攻め、忍熊王と支持者を殺害した。
以上が日本書紀に記載された内容(年齢を除く)である。復元年代を当てはめると、次のようになる。
応神は380年に18歳となっていた。応神を支持する側は、武内宿禰と武振熊に命じて、数万の軍勢により攻め、忍熊王と支持者を殺害した。
仲哀天皇の一族を抹殺し終えた応神は、381年、19歳で天皇に即位した。応神紀には神功が摂政となったことは書かれていない。
神功皇后は「半島への介入」と「応神天皇の正当性」の代弁者
362年に、神功皇后が行ったとされる新羅征討(古事記)、三韓(新羅、高麗、百済)が日本に降伏する記事(日本書紀)は、年代として合致しない。現に、仲哀は380年まで存在し、神功の記事は仲哀崩御直後の362年の出来事として記したもので、年代的にもあり得ない。
日本書記の編者は、神功皇后に、応神天皇が行った新羅征討などの半島への介入に関する代弁者の役割を持たせた。神功の記事は、応神3年次、392年に記載された半島への武力進出の記事を30年間前倒しして、362年としたものである。
同時に、応神誕生から即位までの19年間が上記30年間の中に含まれていて、応神天皇誕生の正当性を持たせた。