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2009年6 月14日 (日)

日本書紀の編者は年代構成に何を考えたか

歴史には全くの素人が記紀(実質的には日本書紀)の復元年代に挑戦して1年と数か月が経過した。復元年代をほぼ明らかにすることができたと思っている。
多くの方々が記紀の復元年代を明らかにしようと努力していたにもかかわらず、なぜ今まで明らかに出来なかったのか、思うところを少し述べてみる。

第一は、記紀の編者の側に立って、記載内容を素直に読み取らなければならない。
神武にはニニギ降臨の暗号「179万2470余年」が記載されている。なぜ、解読しなかったのか。多分、暗号なんて認めたくないという考えがあったのだろう。
解読に挑戦した方もおられるが、「数字を足し算するだけで良い」のに、少数点以下何桁も続く陰暦の数字を持ち出したり、国の正史の編者がそんな「語呂合わせ」をする筈がないとするから解読できないのである。
復元年代を明らかにするには、「紀年」が重要である。日本書記においては、神武に記載されたニニギ降臨の暗号が、編者の「紀年」を明らかにしてくれる。また、古事記は、「紀年」を神武の御年137歳を通して示してくれていて、記紀の答えは一致するのである。さらに、弘仁私紀序の記載は1年異なることを明らかにしてくれている。
各天皇の在位がすべて分かれば、紀年の年代も明らかになるが、それは理屈である。やってみれば、それがいかに困難かが分かる。やはり、最初に「紀年」を明らかにし、紀年の年代(神武即位年)と既知の年代の間を埋めていく方法が最も有効である。

第二は、記紀の編者が「年代構成」に関して、何を考えていたかを追求することである。
いろいろな角度から想像してみる。
日本書記はBC711年から697年までの1408年の歴史である。
見方を変えれば、日本書紀の最後の記載年代は697年即ち神武暦1357年であり、「4倍暦」では339年となる。神武即位元年を暗号から得られた復元年代162年に置き換えれば、物語の最後の年代は「500年」となる(0.25年の違いはある)
編者は最初に、ニニギ降臨から数えて500年目が文武即位年に当たると想定し、神武即位162年を設定した。(697年を珂瑠皇子の立太子年と読むと別の展開になる……後述)
次に編者は、162年から500年までの339年を、4倍の1356年に延長した。そして697年を基準に1356年(実際には1357年)遡ったBC660年を神武即位年とした。
500という数字は編者の記憶されるところとなり、継体の数字に表れる。また、古事記の復元年代の計算式の基準年にも使われる。

珂瑠皇子の立太子年697年は、磐余彦尊の立太子年BC697と「シンメトリック」をつくる。シンメトリックの中央年神武暦661年は、復元年代の紀年である。ニニギ降臨紀元(ニニギ歴)の元年に当たる。

神武即位年の数字が持つ意味

さて、上記の「339年」はどんな意味があるのであろうか。
339を3×3×9と看做す。そうすると、「9×9」で81となる。「九九=81」は神聖な数字である。神武即位年は162年であり、「9×9×2」である。9が3個並べば「極まった三重陽」であるが、162は凄すぎて9が1個余ってしまった。

両方の数字は、適当に決めた数字ではなく、編者が信じていた宗教的な考え(多分陰陽道と思われるが)を根拠にして選択された数字なのである。恐らく、上記のような数字の仕組みを発見した編者は意気軒昂であっただろう。

第三は、年代や数字はきめ細かく見なければならない。
各天皇には「太歳干支」が記載されている。通常は各天皇の即位年に付されている。復元年代を考えるなら、神武前紀7年、神武崩御後3年目や神功39年に付された特異な太歳干支は何らかの意味があるはずである。
ある学者は、日本書記の前の資料では、太歳干支を根拠に、神武即位元年が神武前7年(BC667年甲寅)にあったなどという。年代構成が滅茶苦茶になってしまうのに気づかないのである。なぜなら、東征の記事は実年で書かれ、即位後の記事は4倍暦、正確には、「n×二倍暦」(nの平均値=2)で書かれているからである。また、天武の場合には、太歳干支は元年ではなく、2年に付されているのだから、太歳干支を根拠に元年と決めつけることはできないのである。

太歳を付けたのは、「4倍暦」のスタートの基準年を、東征開始年のBC667年と即位年のBC660年の2種類とし、4倍暦の年代系列が2年違いの2系統を持つためである。(実際には、BC667年を基準年とした場合、単純に4倍暦を用いる場合と7年を引く場合の2種類があるため、合計3系統が存在する)各天皇の崩御年は、どちらかの系統の年代に合致するように構成される。
ちなみに、仁徳崩御年427年は前者の太歳干支に基づく年代であり、崇神崩御年318年は後者の神武即位年に基づく年代である。
同様に、日本書紀には10年の「空位年」がある。神武崩御後の3年の空位年、孝昭崩御後、成務崩御後、応神崩御後の2年、反正崩御後などの空位年も何らかの意味をもった空位年である。
神武崩御後および応神崩御後の「空位年」には物語が記載され、その理由が明らかになっている。他の空位年には説明がないところを見ると、年代の調整かも知れない。

さて、記載にはないが、日本書記の年代構成は、「37の倍数」が用いられている。天武元年672年から1369年遡ると神武立太子年BC697年となるが、1369年は「37年の37倍」の年数である。37年下ったBC660年は神武即位年であり、天武元年から見れば「37年の36倍」となる。
上記の成務崩御後の空位年は神武暦851年であるが、「37年の23倍」であり、空位年と37の倍数年が重なることにより、年代の区切りあるいは節目となる重要な年である。復元年代は4倍暦により373年となる。

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