日本書記の記載上の1年の食い違いに思うこと
日本書紀の編者(写本の問題も含めて)の間違いも気になりだした。今までは解読する側の問題としてきたが、明らかに編者側の問題もある。
一例を挙げる。筆者が解読した復元年代が完全であるというつもりではないが、その結果の基づき述べてみる。
成務の個別年次表と全体をとらえた合成年次表の間に、成務崩御後の空位年の扱いに差異が生じている。個別年次表では空位年の存在を無視できないのである。しかし、合成年次表では空位年が存在しないような状態になる。空位年が存在するのかしないのか、成務の範囲では解決できないでいる。
しかも、仲哀の記載内容では、記載された崩御年齢と立太子年齢の間に1年の食い違いがあり、崩御年齢と立太子の年次と年齢の記載が正しいなら、記載内容は空位年1年を含まないことになる。この点は筆者のミスではなく、明らかに、日本書紀の側に問題があると見做さなければならない。
同様の1年の食い違いの問題は、垂仁の記載年代と復元した年代の間に、垂仁の立太子年(記載年代)と誕生年(復元年代)をめぐって1年の食い違いがある。
記載の年数が復元の年数よりも1年少ない状態になっている。
また、景行天皇の即位前の年代(皇太子の時代)と垂仁の年代との間にも1年の食い違いがある。(見方にもよるが、垂仁の側に1年の不足がある。)
1年の食い違いの原因
どうやら、上記の問題は、垂仁の記載年齢140歳に対し、実際には139年分しかなく、1年不足していることに起因すると考えられる。そのことに気付いた編者は、1年の不足を補うために、成務後に空位年1年を加算したと考えられる。そうだとすれば、成務後の空位年は存在しないという結論が得られるのだが。
「仮に、容易に正解が得られるとするなら、なぜ日本書記の編者は正しい対応策を取らなかったのであろうか。これが最大の疑問である。」
筆者には、この問題にこれ以上踏み込む必要性を感じない。
修正を加えるということは、何を活かし何を捨てるかが分らない限り、答えが出たとして、意味はないように思える。
また、修正によって得られる即位年と崩御年は、現状得られている年代になるはずである。なぜなら、「現状の復元年代は、1年の食い違いを受け入れた状態で復元されているためである。」
さらには、復元年代の解読の基本は年次表にあるが、それがすべてではない。現状の解読結果は古事記の復元年代と一致している。ただし、崩御年齢に関しては古事記ではわからない。また、月日の暗号から読めるものもある。それらの結果を無視できない。
追記
「なぜ日本書記の編者は正しい対応策を取らなかったのであろうか。」に対する筆者の答えは、「編者が1年の食い違いに気付いたとき、修正することによって、それまでに編者が作り上げてきた多くの『数字のからくり』が壊れてしまうことを恐れたためである。」