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2009年10 月16日 (金)

日本書記の記載上の1年の食い違いに思うこと

日本書紀の編者(写本の問題も含めて)の間違いも気になりだした。今までは解読する側の問題としてきたが、明らかに編者側の問題もある。
一例を挙げる。筆者が解読した復元年代が完全であるというつもりではないが、その結果の基づき述べてみる。

成務の個別年次表と全体をとらえた合成年次表の間に、成務崩御後の空位年の扱いに差異が生じている。個別年次表では空位年の存在を無視できないのである。しかし、合成年次表では空位年が存在しないような状態になる。空位年が存在するのかしないのか、成務の範囲では解決できないでいる。
しかも、仲哀の記載内容では、記載された崩御年齢と立太子年齢の間に1年の食い違いがあり、崩御年齢と立太子の年次と年齢の記載が正しいなら、記載内容は空位年1年を含まないことになる。この点は筆者のミスではなく、明らかに、日本書紀の側に問題があると見做さなければならない。
同様の1年の食い違いの問題は、垂仁の記載年代と復元した年代の間に、垂仁の立太子年(記載年代)と誕生年(復元年代)をめぐって1年の食い違いがある。
記載の年数が復元の年数よりも1年少ない状態になっている。
また、景行天皇の即位前の年代(皇太子の時代)と垂仁の年代との間にも1年の食い違いがある。(見方にもよるが、垂仁の側に1年の不足がある。)

1年の食い違いの原因
どうやら、上記の問題は、垂仁の記載年齢140歳に対し、実際には139年分しかなく、1年不足していることに起因すると考えられる。そのことに気付いた編者は、1年の不足を補うために、成務後に空位年1年を加算したと考えられる。そうだとすれば、成務後の空位年は存在しないという結論が得られるのだが。

仮に、容易に正解が得られるとするなら、なぜ日本書記の編者は正しい対応策を取らなかったのであろうか。これが最大の疑問である。」

筆者には、この問題にこれ以上踏み込む必要性を感じない。
修正を加えるということは、何を活かし何を捨てるかが分らない限り、答えが出たとして、意味はないように思える。
また、修正によって得られる即位年と崩御年は、現状得られている年代になるはずである。なぜなら、「現状の復元年代は、1年の食い違いを受け入れた状態で復元されているためである。」
さらには、復元年代の解読の基本は年次表にあるが、それがすべてではない。現状の解読結果は古事記の復元年代と一致している。ただし、崩御年齢に関しては古事記ではわからない。また、月日の暗号から読めるものもある。それらの結果を無視できない。

追記
なぜ日本書記の編者は正しい対応策を取らなかったのであろうか。」に対する筆者の答えは、「編者が1年の食い違いに気付いたとき、修正することによって、それまでに編者が作り上げてきた多くの『数字のからくり』が壊れてしまうことを恐れたためである。」

2009年10 月14日 (水)

日本書記の記載数字の食い違いの問題から見えてきたこと

旧ブログの過去の記事をみると、「1年合わない」、「1年狂いがありそう」というような記事が多く載っている。過去の話ではなく、現在でも同じである。
しかし、内容から見れば随分違ってきている。
各天皇の即位年と崩御年は、ほぼ確定できる年代になってきたと考えるが、最終的には、全ての記載記事の年代が±1年に入ることを目標にしている。
最近は、従来とは異なる観点からみて、復元年代を確かなものにしてきた。従来は数字の解読に偏っていたが、記事の内容にも目がいくようになった。濱や陵に葬った時期の記事が即位年に関係していることが分ったことによる。
さらに古事記の解読結果は、日本書紀の解読に大いに寄与している。古事記の復元年代と日本書紀の復元年代とは、ほんの一部を除き、一致していることが分ってきたためである。

それでも、「1年合わない」、「1年狂いがありそう」という点は変わらない。従来と異なるのは、各天皇の各記事の復元年代、復元年次、当該天皇および関係天皇、皇子らの実年齢などを数字の整合性を見ていることである。様々なケースがあるから一概に述べることはできない。なにがしらの数字の整合性が取れない点が見つかっていて、それが直接即位年や崩御年の年代を変えることはないとしても、明らかにすることが重要になってきている。

また、あまり言いたくないことであるが、日本書紀の編者(写本の問題も含めて)の間違いも気になりだした。今までは解読する側の問題としてきたが、明らかに編者側の問題もある。
例えば、垂仁5年次の記事は、垂仁4年次の後半の記事であり、15年次の記事は5年次の記事の間違いであることは、記事の内容から認められるはずである。
垂仁99年次は崩年139歳にしかならないが、140歳という記載がなされており、1年狂いがあることは知られている。このことは景行即位前の年代にも1年の誤差が生じているが、事実として認めなければならない。

上記のような数字の整合性に関する問題はかなり多い。一つ一つ解きほぐしていかなければならない。単に記載数字に食い違いがあるという結論だけでは解決したことにはならない。編者の意をくんだ解決が必要になると考える。このような問題に取り組めるようになったのは、それだけ記紀の復元が進んだ表れと考えてよいだろう。

2009年5 月29日 (金)

古代史取り組みのいきさつ

古代文明」(発行所:デアゴスティーニが平成19年2月に発刊されて読み始めたが、この頃から日本の古代史に関する記事にも多少、目を通すようになった。

最初のうちは、自分が技術屋のせいか年代測定方法などに目が向きがちであった。

7月頃だったと思うが「邪馬台国の会の第219回活動報告を目にした。 
安本美典氏は、「記紀に記載された古代天皇の寿命や即位時の年令、在位、年代に関して調べてみると、記の寿命と書記の寿命、在位との間には強い相関が見られる」という。このことから、古代の年代を明らかにすることが出来るはずと指摘されていた。それ以来、この報告記事の意味を、「記紀の連立方程式を解けと、自分なりに勝手に解釈した。

また、古代史に関する記事を読んで、不思議に思ったのは記紀の年代復元であった。多くの方々の復元年代に極めて大きな年代差がある。端的に言うなら、年代復元くらいのことがなぜ出来ないのか、歯がゆかった。
叙述や文言に対し鋭い分析ができる学者でも、一般に数字は苦手のようである。
それなら、浅学ではあっても「数字に自信があれば、記紀の年代復元も可能」と考え、数字のみ対象として年代復元に取り組み始めた。


古事記日本書紀を手に入れ、取り組み始めてから半年ほどがたちまちのうちに経ってしまった。何しろ予備知識もないのだから、遅々として進まない。

平成20年の初めに、日本書紀のニニギの降臨の暗号の解読ができ、全体が見え始めてきた。忘れないうちに記録しなければいけないと思うようにもなってきた 

平成20年4月に、ブログとして、「記紀の数字が語る古代史/田中真理志」を立ち上げ、各天皇の年代や在位とその根拠を順次発表してきた。現在、神武から継体までの年代と在位をほぼ解明できたと思っている。

記事も、いつのまにか120件を超えてしまった。日記のような書き方をしていたから、新しい発見があった場合に、未修正のまま残ったものや陳腐化したものが混在し、読み難くなってしまったようである。

ここに、新たなブログを立ち上げた。記事については、最新の情報に基づき見直しを行なった。

次に、これからの取り組みついて述べる。基本的には、従来考えてきたことと何ら変わらない。

  1. 多くの学者が記紀の年代復元に成功しなかったのは、歴史家として、記紀編纂の時代やその時代に生きた編者らを理解していないからである。「記紀の解読は、編者になり切れれば容易であろう。ただ、それが難しいだけである。
  2. 記紀の年代を創作した編者らの多くは、陰陽道・天文・暦などに精通し、当時の第一級のプロ集団であり、暗号や、数字を自在に操る能力を有する。数字に特化し挑戦するだけである。
  3. これからは、得られた情報を活用し、活きた古代史を明らかにしていきたい。