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2009年10 月18日 (日)

垂仁の年次表を解読する

神武天皇から崇神天皇までの在位解読方法は、記紀に記載された数字を利用して行ってきた。しかし垂仁天皇の解読は状況がかなり異なる。
年次に記事もあり、記事の内容も加味して判断がなされなければならない。さらに皇太子時代が年代に加わっているのではないかという見解もあることである。また、手元資料には4年違いの2種類のデータがあり、これは垂仁天皇の誕生年と立太子年の年令とに食い違いがあるため生じたようである。このような数値を扱うのは困難である。

そのため、年次表の記事を解読に用いることにする。といっても記事(事跡)の内容ではなく、干支を見ることにする。「干支からは答が得られない」と、その方面の学者が言っておられるのを見たことがある。本当に干支からは答が得られないのであろうか。
干支も数字と同じである。干支は日常の道具であり、遊び心が働いてもおかしくはない。編者は干支を年代(在位)延長のための道具として用いたのである。
筆者は、十干の順序を間違えることがある。十二支と違い十干はなんとなく馴染まないのである。しかし、編者は天文学者なのだから十干も十二支も十二分に精通している。編者が干支で遊ぶなら、時に応じて十干や十二支を使い分けながら行ったであろう。

十二支による合わせ込み
垂仁の場合は、垂仁1年を垂仁25年の辰に合せ、2年を26年の巳に合わせ、と続ける。
後ろの方の90年辛酉は60年遡った30年辛酉に合わせる。そうすると99年庚午は39年庚午に自動的に一致する。
垂仁25年即位、垂仁39年崩御となる。在位は15年(実年)である。
同様の手法で求めた景行天皇の在位15年、成務天皇の在位7年を合計すると37年になり、古事記の数値とぴったり一致するのである。

十干による合わせ込み
上記の年代に合わせて記事を読んでみると、矛盾が見られる。上記の年代解読の場合、垂仁1年と25年を合わせたのは十二支の方であった。しかし、十干の方を基準に年代を合わせることもできる。垂仁3年甲午と垂仁23年甲寅であり、23年以降の年を20年間移動させればよい。垂仁の解読の基本は「十干」である。添付の「表21-2 垂仁の年次表の解読(年次の相互の関係)」で確認していただきたい。
「表21-2・・・」は、面白いことに、B系列の年次の数字は垂仁の実の年齢を表していることが分る。
なお、A系列は、景行の実の年齢を表しているが、垂仁との関係において、1年の狂いが生じていることが分る。これについては別途述べる。

「年代(数字)のからくり」は、重要な復元のための情報を提供する
編者が行った遊びを説明する。「年月日」をみると、関係する年が読み取れる。
例えば、垂仁7年7月7日、垂仁27年8月7日と垂仁87年2月7(25)日の数字に「からくり」があることに気付かれるであろう。7日は実7年次を示す。そこまでしなくても、60年差で読み取りができるのであるが、つい編者は「数字遊び」をしたくなったのである。
注1)垂仁7年次は、上記のとおり3年次分が同年である。2年分が同年であるケースはよく見られるが、3年は珍しい。編者は、解読をするときに間違いのないように配慮してくれているということに気付かなければならない。(これは、冗談で言っているのではない。)

シンメトリックの基準年であるニニギ暦元年は西暦元年、辛酉の年である
西暦1年(実際に編者らは、ニニギ暦1年と考えた)30年6月1日は、61年と読む。ニニギ暦(西暦)1年とニニギ暦(西暦)61年は同年であることを示唆した。年次表上では垂仁30年次辛酉の年と90年次辛酉の年が同年であることになる。重要なのは、ニニギ暦が実際に用いられていたことを証明することである。勿論、筆者の用いた表にはニニギ暦(西暦)に換算した年代が挿入されているが、日本書紀に記載されてはいない。しかし、この数字遊びのような6月1日という数字が、ニニギ暦元年に記載されたかを考えれば納得いくはずである。
注2)697年のシンメトリックの中央年(基準年)は、西暦で示せば、BC1年と元年(1年)である。実際にどちらの年を基準年にしたか、上記の例が答えを示している。「シンメトリックの基準年は西暦元年、辛酉の年である。」BC1年は記事なしの年として扱っており、無視してよい。また、30年および90年次と同年のはずの10年次には記事がないが、10年次は辛丑の年であるから関係しないのである。

田道間守が非時の香菓を持ち帰るのに、10年を要した
記載90年次、実10年次、垂仁は、田道間守を常世国に使わせて非時の香菓(ときじくのかくのみ)を求めさせる。
垂仁崩御の明年即ち翌年の71年次、(実20年次に相当する)に、田道間守が非時の香菓を持ち帰った。どうやら10年を要したようである。

垂仁崩御年337年、39歳、在位19年
上記の内容と「個別年次表」「合成年次表」などの他の検討結果を含めた垂仁の解読結果を述べておく。
垂仁即位は、319年、崩御337年で、在位19年。即位の年齢は21歳、崩御は39歳である。

「表21-1 垂仁の年次表の解読」および「21-2 垂仁の年次表の解読(年次の相互の関係)」を見てください。

表21-1 垂仁の年次表の解読

表21-2 垂仁の年次表の解読(年次の相互の関係)

「合成年次表」に関しては、「日本書紀の修正復元モデル(垂仁~仁徳の復元年代)」に添付した「表12-2 崇神~仁徳復元年代の詳細 」を見ていただきたい。
なお、「住吉大社神代記」に記載された垂仁崩年干支「辛未、53歳」に関しては別途「住吉大社神代記の垂仁崩年干支」に述べたので、参照してください。

2009年9 月19日 (土)

日本書記は、「暗号」と「からくり」を含む「謎解きの書物」

古代を復元するには、編年体で書かれた日本書記を解読しなければならない。日本書記は独特の手法を用いて年代の構成と年代の延長を行っている。それらの主要な手法について以下に述べる。

「ニニギ降臨の暗号」
筆者は、日本書記は暗号を用いていると述べているが、主要な暗号は「ニニギ降臨の暗号」である。この暗号が関わるのは、神武の年代に限られる。しかし、歴史のスタートの部分であるから、暗号の存在は重いものがある。他にも、「年月日などの暗号」がある。

「年代(数字)のからくり」
日本書記には、全編に渡って多くの「年代(数字)のからくり」が存在する。
「からくり(絡繰り)」とは、計略、企み(たくらみ)、仕掛けなどの意味である。「企み(たくらみ)」と捉える方もおられるかもしれないが、筆者は、年代の大幅延長に伴うアイディアであり、豊かな発想の表れと捉える。
「シンメトリック」が多用されているが、「年代(数字)のからくり」の一つと考える。「37年の倍数のシンメトリック」および「697年のシンメトリック」はその典型であり、下記にその意義などを説明する。
孝元天皇、開化天皇の「前天皇を陵に葬る年次」や允恭天皇の「前天皇の濱の年次」は「からくり」と見做すほどのものではないが年代を狂わせている。年代の延長も実年でみれば数年ずつであるが合計すれば数十年になる。筆者は、これらを年代構成上の一つの手法で、年次表を誕生から記載する手法に対し、即位の数年前の年代から記載する手法である。
この手法には、垂仁天皇の皇太子時代の記載、雄略天皇の安康時代の記載なども含まれる。

「37年の倍数のシンメトリック」の意義
「37年の倍数のシンメトリック」の基準年は、天武元年672年であるが、天武2年に太歳干支が付与されている理由と関係づけて考えればよい。本来なら天武2年を元年にすべきところであるが、672年を基準年として設定するためになされたことである。「37年の37倍の1369年前(前697年)」を神武立太子年に設定し、また、「37年の36倍の1332年(前660年)」を神武即位年としたのは明らかである。
注)筆者の古い記事では672年を天智天皇崩御年と記しているが誤りであり、天武天皇元年が正しい。基準年672年(壬申の年)の重要性をもたせるために天武天皇元年としたのである。
なお、上記の説明は記載年代に関してのことであるが、復元年代の構成上の区切りと関係が見られるようである。この点については、今後の課題である。

「697年のシンメトリック」の意義
復元年代を西暦で読むことは、本来であればあり得ないことである。
記紀の編者は神武暦と共に筆者命名のニニギ暦を用いた。ニニギ暦は「697年のシンメトリック」から導き出される。文武天皇即位年(珂瑠皇子立太子年)神武暦1357年(ニニギ暦697年)と神武立太子年神武暦前37年(ニニギ暦前697年)のシンメトリックの中央年である辛酉の年神武暦661年をニニギ暦元年と設定し、ニニギ暦を復元年代に用いた。ちなみに、ニニギ暦137年は復元年代の神武誕生年であり、ニニギ暦162年は神武即位年である。ところが偶然にもニニギ暦元年と同じ紀元をもつ西暦が14世紀になって考案された。記紀編者がニニギ暦を8世紀に考案したのに対し、6~700年後のことである。
ニニギ暦と西暦は紀元が同じであり、復元年代を西暦に置き直して表示しても、結果としては誤りではないのである。

「個々の数字の吉・凶」
さらに陰陽道などの宗教的な面から来る「個々の数字の吉・凶」が考慮されている。「九九の九の段」が用いられているが、「九九=81」は最も重要な数字であり、神武即位年162年(81の2倍)と応神即位年381年に用いられている。
「九九の九の段」が用いられている天皇には、神武、応神以外では、崇神、仁徳、雄略、天武の各有力天皇がいる。

「正しい在位の記載」
以上に挙げた「暗号」や「年代(数字)のからくり」や「個々の数字の吉・凶」、その他のアイディアが組み合わさって、日本書紀の年代は創作されている。しかし、それらをより有効に機能させるため、仲哀天皇と安康天皇については、年代こそ異なるが、「編者が想定していた正しい在位」が記載されている。ただし、仲哀天皇に関しては、日本書記の編者は在位9年、古事記の編者は在位7年としている。「年代(数字)のからくり」は前後の天皇に存在するため、復元を考慮して、さらに年代や在位を複雑にすることを避けたと考える。また、「九九の九の段」の「八九=72(372年)」の扱いに関わる問題でもあり、記紀の編者によって成務と仲哀天皇の位置付けに対する見解が割れたと考えられる。

日本書紀の復元年代を明らかにする場合に、「暗号」や「年代(数字)のからくり」や「個々の数字の吉・凶」などの究明抜きでは、表面的な解読しかできず、正しい解読はできない。
年代構成や年代延長に関わる各種手法を、「表111 日本書記の年代構成上の各種手法」に挙げた。各種手法の分類や名称などはまだ整理できていないが、いろいろな手法が用いられていることを知ってもらいたいためである。なお、主要な手法はすでに記事や年次表上に明らかにしているので読んでいただきたい。

表111 日本書記の年代構成上の各種手法

日本書記の年代解読ができなかった理由
日本書記の編者が考え、取り込んだアイディアは豊富である。しかし、ほとんどのアイディアは、既に年代解読に挑戦された方々によって明らかにされている。それが正しい解読に結びつかないのは理由がある。
一つ目は、暗号の解読を無視したことである。「ニニギ降臨の暗号」は極めて単純な暗号である。多少の年代に関する知識、例えば『神武暦』などを知っていれば解読できる。それを、「国史に暗号など用いるはずがない」とか、「語呂合わせのような解読結果は認められない」、といった解釈をするようだが、「編者の時代と編者が考えたこと」を理解できていない。
二つ目は、アイディアを一律に適用させようとするためである。明らかにされたアイディアは一部に用いられただけで終わる。次には別のアイディアが登場する。編者は「一律」をバカ者、脳なしと考えた。発見された日本書紀記載における多くのルールを、ある批評家が、ルールの数が多すぎる、一つのルールの適用範囲が狭すぎると評したが、このような批評家に日本書記の解釈を任せられないということである。
三つ目に欠けているのは、多くのアイディアが「年代(数字)のからくり」や「数字の吉・凶」などによって纏め上げられているのに気付かないことである。編者が行った年代構成を明らかにしない限り、何も見えてこない。筆者の作成した「合成年次表」を見れば一目瞭然である。大袈裟な表現かもしれないが、絵になり、芸術的である。そのように見えない個所(年代)はまだ答えになっていないのかもしれない、と思いたくなる。

復元年代の構成から見える編者の思いや考え(思想)
日本武尊と仲哀天皇の年代の関係は、編者の思いや、考え(「思想」といってもよさそう)が垣間見える。
神功皇后の数字は異なる要素を巧みに取り込み、きめ細かく設定している。
編者が作り上げた年代構成の内容には編者の思い、考えが込められている。筆者は文才がないからうまく表現できない。日本武尊や神功皇后に関する年次表をじっくりと見ていただければ、編者の思いや考えが分るはずである。

日本書記の編者の良心
日本書記は、以上に述べたとおり、「暗号」、「からくり」、「個々の数字の吉・凶」を含む「謎解きの書物」である。
重要なことは、編者は、解けるだけの情報を記載の中に潜ませていることである。他国の古代の歴史書においても記載年代が延長された例が見られるが、正しい年代が用意された歴史書があるかどうか知らない。この辺りが、日本書記の特異な点であり、編者の良心というものであろうか。日本書記および編者に関するこの事実を見失ってはならないし、日本書記の評価を誤ってはならない。」

2009年8 月12日 (水)

日本書記の年代復元モデルのシンメトリック

念願の復元モデルのシンメトリックの図表が出来上がった。日本書記記載年代のシンメトリックの図表とは対をなす。これによって、両方の図表を比較検討することができ、次の点を解明できるかもしれない。図表を添付するので、ご覧いただきたい。

表S1-1 日本書紀の在位のシンメトリック

表S1-2 日本書紀の復元モデルのシンメトリック

筆者は当初から日本書記の年代に関して、「シンメトリック」を年代解読の手法として活用してきた。その後、編者が用いた「37の倍数」や「月日の暗号」などの手法に気付き、解読を進め、現在に至っている。
今思うのは、「シンメトリック」は、多くのヒントを与えてくれたが、その信頼性から年代を決定するものではなかった。上記に述べた、これからの検討においても同様であろう。重要なのは、解明のヒントが得られれば有難いということである。

復元モデルで気付くことは
1.全体に、34(実際には34~37)の数字がみられる。各天皇の年齢の解読は途中段階にあるが、神武~開化の9人の平均寿命は34.6歳であり、神武~仁徳の16人(神功は除く)の平均寿命は35.9歳である。34の数字は平均寿命と関係している可能性がある
在位と組み合わせると、世代数や一世代の年数が導き出せると思われる。一般的に一世代(活躍していた年数)を25年くらいとする見方があり、平均年齢からみるともう少し少ない年数になりそうである。仮に一世代(活躍していた年数)を25年とすると、神武~開化まで少なくとも5世代~6世代となる。系図に詳しい方々の4世代という見方は誤りの可能性が高い。
2.年代構成がどのように行われたかを知るためには、「年代の区切り」を探すことになる。
  例えば、成務と仲哀との間や、安康と雄略の間には区切りがありそうに見える。日本書記は雄略から書き始めた、という見解とも一致する。
3.シンメトリックは数多くみられる。最も主要なのは210年のシンメトリックである。これを小分けすると、140年と70年になる。正確で、正しい年代と思われる顕宗から推古までの141年が、神武から開化までの140年の正しさを示唆する。同様に舒明から持統までの69年は、崇神から成務までの70年の正しさを示唆する。

なお、シンメトリックを認めるということは、整然とした年代構成が存在するということに繋がる。天皇の崩御の年代が数字で決まるはずがないのは当然のことである。それを受けてランダムな(規則性のない)年代を期待するのは期待外れに終わる。崩御の年代が分かっていなかったとしたら、どうなのかである。また、吉・凶の縁起の悪い年代を用いるだろうか。さらに元資料の段階も、作りこむ過程が何段階かあるとしたら、どうだろうか。そのような状況の中では、編者は陰陽道やある種の数学(シンメトリックを含む幾何学)により決めるしかない。シンメトリックなどの幾何学的な年代構成をもった復元年代は、編者が持っていた、正しい年代であると考える方が妥当と思われる。
日本書紀の前半においても、なにがしかの年代の根拠があったことまでを否定しないが、編者はそれらの情報に基づき、年代の再構成をはかった。即ち、年代は編者によって創作された。しかし、たとえ復元年代が創作だとしても、古代史を見るためには、復元年代が必要なのである。

神武天皇在位14年の根拠(まとめ)

神武の在位が、14年か19年か、長い間争われている。両方に何らかの根拠があるからだろう。ここが定まらないと、綏靖、安寧などの年代も決められない。
筆者も14年と19年の間を行ったりきたりしてきたが、現在では「神武在位14年」の考えに落ち着いた。
神武の即位年162年や、崇神崩御年318年は変わらないのだから、どうでも良いのかもしれない。筆者の場合、最近は年代の復元よりも記紀の年代の構成についての方に関心が移ってきていて、結構楽しみながら解読を進めているのである。

本題の「神武在位14年の根拠」についてであるが、次の点に問題があり、在位19年を否定できないでいた。
日本書紀の各天皇の解読結果からは、
・天皇の崩御の最終年次が崩御年である。
・在位もこの崩御年に絡む。(主要な天皇において、在位は、最終年次年数の1/4である)
神武崩御の最終年次は76年であり、上記の考えに従い、仮に76年が四倍暦とすると19年が在位になる。
神武こそ主要な天皇の頂点にいるのだから、上記の考えに対し、納得できる根拠がなければ在位14年は成立し難いのである。
筆者は、この答を得ることが出来たので説明する。
「日本書紀には何人の神武がいるか」において述べたように、三人あるいは四人の神武が読み取れる。いろいろな要素を神武に託したのであろう。それに比べ、他の天皇は二人の人物しか読み取れない。一人は即位までの年齢分を前天皇の記載に組み入れた、延長された人物であり、宝算の崩御年齢を有する。
特に、神武の宝算は、神武即位前の51歳と即位後の76歳を加算し、127年としたものであり、100歳を超える宝算は天皇の偉大さを示すには手頃な数字だったのだろう。それ以上の意味はない。
二人目の神武は、即位元年、1年次を誕生とし、最終年次年数が崩御の年齢となる人物である。これについて検討をしていく。

1)合成年次表の作成
筆者は、日本書記の復元年代を求めるため、さまざまな角度から解読をしてきた。
「表12-1 神武~崇神復元年代の詳細」(合成年次表)を診ていただけば分かるはずである。
「合成年次表」は、それらをすべて取り込み、集大成したものである。ポイントを述べれば次のようになる。
①神武即位年は、即ち神武元年、BC660年は神武の誕生年である。
神武即位52歳を2倍暦と見做し、実26歳で即位したとする。従って、仮の復元年代(第1次復元年代)として、神武26年次、BC635年を神武即位年とする。
②復元年代は、神武即位年を西暦162年としている。
根拠は、神武紀に記載されたニニギ降臨の暗号「179万2470余歳」の解読結果による。
③チェック事項の拾い上げ
年代(年次)および年齢に関係する記載内容、例えば、誕生、即位、崩御の年代および年齢を拾い上げた。
年齢は2倍暦で記載されていることを前提として、実年齢を加えた。
また、年代(年次)と年齢に基づき、天皇間の年齢関係を重視し、年次表の正しさを確認するためのチェック事項とした。(例、神武42-14綏靖立太子)

2)神武崩御年を探る
神武紀および綏靖紀には、綏靖立太子の年代と年齢に関する記事がある。上記の例に記した[神武42-14綏靖立太子]である。例に示すように、年代、年次、歳などは記載していない。例の場合、[神武42-14綏靖立太子]の正解は、年次表によれば、記載神武42年次(神武の記載年齢42歳、実年齢34歳、復元年代170年)のとき、綏靖が記載年齢14歳(実年齢7歳)であることを示す。
年次表をたどれば、綏靖が実14歳に達したとき即位したことになる。「立太子」は「即位」に読み替える必要がある。立太子の記載年齢14歳は実の数字であることが分る。
神武崩御年に関しては、綏靖の即位年代が神武56年次、記載年齢56歳、実年齢41歳、西暦177年であり、在位31年(実16年)であることから、それより前であることが分る。これによって、神武の実在位19年はあり得ないことになる。
記載内容から、神武崩御の後に記載3年(実1.5年)空位があること、神武宝算127年の百減は27であることから、神武崩御は神武52年が在位27年に相当することが分かる。
年次表から、52年次と53年次が同年であり、神武実年齢39歳、実在位14年と判断される。

●綏靖立太子の記載年齢14歳が正しく、立太子を即位と読み替えてよい。
 合成年次表によると、即位157年の前年156年に14歳となっている。
 綏靖前紀の記載でも、即位の前年に兄神八井耳命が神渟名川耳尊(綏靖)に天皇位を譲ると書かれていて、解読結果と一致する。

3)シンメトリックによる在位の確認
①神武~懿徳の34年のシンメトリック
「神武の時代」とは、狭い意味では神武と綏靖である。日本書紀の年代構成上のことであるが、神武の崩御年(神武79年次)と綏靖の崩御年とは同年である。綏靖は神武の分身のようである。
「神武の時代」をもう少し広い意味で捉えると、懿徳までである。懿徳崩御34歳(34年)は懿徳の誕生年を基準としたシンメトリックからなる。
シンメトリックの一方の先端は神武即位元年、BC635年であり、基準年はBC602年とBC601年の間にある。シンメトリックの他端はBC568年である。基準年に対し34年[635-602+1=34と601-568+1=34]のシンメトリックである。
また、復元前の数字であり、2倍暦である。従って、34年のシンメトリックは、合計68年であり、実年に復元すると34年となる。復元では神武即位から懿徳崩御までの合計在位が34年であることを示している。

●別角度からの補足
神武即位年のBC635年は、復元年代に置き換えれば西暦162年である。
懿徳崩御年のBC568年は、懿徳34年次のBC477年と同じである。懿徳崩御の復元年代は神武から懿徳までの合計在位34年から求めた西暦195年となる。[162+34-1=195]
なお、懿徳崩御の翌年の空位年はBC476年で、神武暦に直すと185年になり、「37の5倍」となる。年代の区切りであることを示している。
なお、上記のシンメトリックからは、神武即位から懿徳崩御までの合計在位が34年であることを示すが、直接的に神武在位14であることを示してはくれない。

②神武の14年のシンメトリック
神武は26年次26歳で即位し、神武52年次39歳で崩御された。14年の在位である。[52/2-26/2+1=14、または39-26+1=14]
他方、53年次39歳から79年次52歳までの神武崩御後の仮想の在位計算は14年となる。[79/2-53/2+1=14、または52-39+1=14]
これは、神武復元在位と仮想の延長在位のシンメトリックである。神武の復元在位は、14年となる。

4)神武太歳干支付与年を基準とした4倍(4倍暦)の計算
一般に太歳干支は、各天皇の即位年に付与されている。しかし神武の場合には、太歳干支は即位年には付与されていない。東征出発の年に付与されている。他に見られない特異な太歳干支の付与の仕方である。この東征出発の年から崩御年までの期間は83年(BC667年からBC585年)であり、83年の1/4は20.75年(21年)である。
くどいようだが、21年は神武の在位ではなく、神武が東征に出発した年から崩御の年までの期間である。
ところが、東征の期間7年間は実年(記載の1年は実際の1年)で書かれているから、神武即位後の在位は、21年から7年を引いた14年となる。

●上記の説明は、分り易く神武の在位76年として話を進めた。
 実際には、合成年次表の解読から77年と捉えた方が正しい。77年には空位3年のうち1年目が該当する。神武76年次と空位1年目は2二倍暦で同年である。本来なら神武77年に当たるが、76年(春年)に崩御したと記載したため神武77年次(秋年)は表向き存在しなくなり、空位年とされた。本当の空位年は2年目および3年目の2年間が、2倍暦で書かれていて、実1年の空位年になる。

●上記の文面を正しく表現し直すと、次のようになる。
 「東征出発の年から崩御年までの期間は84年(BC667年からBC584年)であり、84年の1/4は21年である。神武即位後の在位は、21年から7年を引いた14年となる。
 従って、小数点以下の問題は解消する。

●神武天皇の年次表に関しては「1年が4倍の4年になっている」部分と「1年が1年のまま」の部分が合成されている。言い換えれば、神武即位後の76年間は4倍ではなく、約5.53倍になっている。[76÷13.75=5.53] 77年間とすれば、5.5倍である。[76÷13.75=5.53] 

なお、この倍率には特別な意味はない。

2009年8 月 4日 (火)

日本書記の在位と年齢の倍暦に関する一考察

日本書記の年代復元を行なうためには、倍暦に関する解明がなくして解明することはできない。試行錯誤はあったもののある程度の精度で「在位」を読みとることができた。

Wikipedia の「日本書紀」の注釈に次のようなことが記載されているのに気づいた。
『三國志』魏書 東夷伝 倭人にある裴松之注に引用される『魏略』逸文に「其俗不知正歳四節但計春耕秋収爲年紀」(その俗、正歳四節を知らず。ただ春耕秋収を計って年紀と為す)との倭の風俗記事があることから、1年を2倍にして年次を設定したとする2倍暦説がある。しかし2倍暦で『書紀』紀年の該当期間が矛盾なく説明できる訳ではないことから、学界では支持するものは少ない。(筆者も同じ見解である。)

筆者の年代解読は、神武即位年から開化崩御年までを「n×二倍暦」と見做し、解読を行ってきた。「n×二倍暦」も基本は「二倍暦」である。上記の「2倍暦」が文字通りの意味なら、「n×二倍暦」とは異なる。
「n×二倍暦」が用いられている神武即位年から開化崩御年までを該当期間とし、在位と年齢の倍暦について考察する。

「n×二倍暦」とは
各天皇の在位や年齢は、単純2倍暦を基礎とし、その上に延長分が加算されている。延長分は天皇ごとに異なるため、「n×二倍暦」として示している。すなわち「n」は各天皇固有の数値を持つ。ただし天皇全体では、「n=2」となり、「4倍」あるいは「4倍暦」と見做せる。

1.在位と年齢の解読と倍暦
各天皇の在位と年齢を復元する。その復元を通じて、「n×二倍暦」がどのように用いられているかを明らかにする。説明のため、事例として孝昭天皇の数字を用いる。
1)在位や年齢の解読には、日本書記に記載された宝算c、即位年齢d、立太子年齢eおよび最終年次年数(=崩御年齢)f、が必要になる。
注1)筆者の従来の記事では「崩御年齢」と表示してきたが、実の崩御年齢もあり、紛らわしいので「宝算」と呼ぶ。
  注2)最終年次年数は、崩御年齢である。(ただし2倍暦の数字である。)
それぞれの年齢は、直接記載されていない場合があるが、立太子年と立太子年齢から求める。孝昭天皇の数字を次に示す。
宝算c=114歳、即位年齢d=32歳、立太子年齢e=18歳、最終年次年数(=崩御年齢)f=83年(歳と読み替える)

2)宝算c、即位年齢d、立太子年齢eおよび最終年次年数(=崩御年齢)fの関係は次のようになっている。
宝算は、次に示す通り、即位の前年の年齢に最終年次数を加算した値である。
宝算c=(即位年齢d-1)+最終年次年数f
先ず、1)で求めた数字が正しいか、事例について確認する。
[宝算c114=即位年齢d32-1+最終年次年数83=114(数字の整合性が取れている)]

解読に用いる数字が正しく整合性を持った数字であるか確認することは重要である。事例の孝昭天皇の場合は正しい数字と確認されたが、同様のことを各天皇の数字に対し行うと、安寧天皇の宝算は記載では57歳となっているが、67歳の誤りである。ただし、以下に述べるとおり、宝算自体意味の薄い数字であり、実の年齢や在位には影響しない。

3)上記の宝算c、即位年齢d、最終年次年数f、の数字は2倍暦の数字である。あらかじめ実の数字である1/2の数字を求める。
実宝算c/2=114/2=57(歳)
実即位年齢d/2=32/2=16(歳)
実最終年次年数f/2=83/2=41.5(≒42)→f/2を実崩御年齢に読み替える42(歳)

4)実在位を求める。
実在位=実崩御年齢f/2-実即位年齢d/2+1
事例に当てはめると、次のようになる。
[実在位=実崩御年齢42-実即位年齢16+1=27(年)]

5)事例の場合の実数を基に、記載値の倍数を求める。
宝算の倍数=c/(f/2)=114/42=2.71倍
崩御年齢の倍数=f/(f/2)=83/42=(84)/42=2(2倍暦である)
注3)83年に空位1年を加算し、84年と見做す。
在位の倍数=83/27=3.07倍(n=1.54)

6)実立太子年齢e/2=18/2=9(歳)
注4)実立太子年齢は、実即位年齢と比較し、2倍暦か実年かを見極める。

7)孝昭天皇の事例に基づき考察する。
宝算について
日本書記は年次における元年を即位年と位置付けた記載をしているため、元年における年齢(即位時の年齢)を示さざるを得ない。
日本書記は、即位時の年齢に、実年齢の2倍暦の数字を用いることを基本としている。これを可能にするため、前天皇の年次表上に立太子の時期と年齢を設定している。宝算は、即位時の年令を基に最終年次まで延ばされた年齢である。

従って、孝昭天皇の宝算114歳は、即位年の年齢32歳に最終年次年数83歳を加え、1年減じた数字である。上記の説明では即位前年の年齢31歳に最終年次年数83歳を加えているが同じことである。
宝算を2倍暦とすると、57歳になるが、年次表の作成上から生まれた数字であり、それ以上の意味はない。ただし、100歳を超える年齢を想定して決めたシステムと考えることができる。宝算の倍暦2.71倍も特に意味をもたない。

年齢と在位について
年次表が2倍暦を基本にできている。
従って、即位年齢は、実年齢を2倍にした年齢としている。
同様に、最終年次年数は、実崩御年齢を2倍にした年齢に相当する。年次は年齢と考えればよい。
孝昭天皇の実即位年齢は、記載即位年齢36歳の1/2の16歳であり、実崩御年齢は、最終年次年数83歳の1/2の42歳である。
在位は、上記の実即位年齢と実崩御年齢から計算すればよい。

2.年次表における2倍暦
上記1.において、日本書紀に記載された数字から実年齢と実在位を解読した。年次表は2倍暦で作られていると述べたが、実感が湧かないであろう。
「表12-1 神武~崇神復元年代の詳細」を添付するので見ていただきたい。

表12-1 神武~崇神復元年代の詳細

孝昭天皇を例に説明する。
左側には、記載年代を書いている。年代の始まりをBC635年=神武26年次から始まるようにしているのは、この年代を即位年にすると解読しやすいからであって、最終的には,BC635年=神武26年次は、復元年代の西暦162年に移動する。左から5列目に移動先の西暦が示されている。
重要なことは、記載年代は1年ごとに書かれているが、復元年代に相当する西暦の年代は1年が記載年代の2年分に相当するように書かれている。すなわち、記載年代は2倍暦で書かれていることを示している。
孝昭天皇の年齢欄には、(二倍暦の年令)/(実年齢)の両方が書かれている。
復元年代と年齢欄を照らすと次の結果が得られる。
孝昭即位196年、32歳(実16歳)
孝昭崩御222年、83歳(実42歳)、在位27年
上記1.で得られた即位年齢と崩御年齢のときの復元年代が得られる。
表12-1から、日本書記の記載年代が2倍暦でできていることが証明される。
なお、神武即位年が、西暦162年であることに関しては、日本書紀に記載された「ニニギ降臨の暗号」の解読から得られた年代である。

説明は略させていただく。「日本書紀の紀年論と復元年代の紀元」を読んでいただきたい。

3.「n×二倍暦」の説明の中で、次のように述べた。
「n×二倍暦」の「n」は各天皇固有の数値を持つ。ただし天皇全体では、「n=2」となり、「4倍」あるいは「4倍暦」と見做せる。
このことについて、説明をする。
神武天皇から開化天皇までの記載された期間を、合計在位(空位を含む)としてみると、BC660~BC98年は、563年になる。神武暦の年代と同じである。
4倍暦と見做すと、140.75年(140年)である。
さて、復元された在位は、9人の天皇の復元された実在位をすべて加算すると、139年になる。神武崩御後の西暦176年は空位年である。空位年を含む合計在位は140年となる。
即ち、神武から開化までの期間(在位)140年は、復元された合計在位と同じになり、記載在位563年は復元在位の4倍になっている。
注4)記載在位から計算された140.75年は、141年としてはならない。編者の数字の見方は、「小数点以下は切り捨て」を原則としている。この場合、記載された崇神即位年BC97年は神武暦564年であり、1/4は141年となる。

4.孝昭天皇以外の天皇の在位と年齢
日本書記が2倍暦で書かれていることを孝昭天皇の例に基づき述べた。他の天皇も基本的に同じである。
在位計算は、
実在位=実崩御年齢f/2-実即位年齢d/2+1
である。この計算式[在位=f/2-d/2+1]を標準計算式と呼ぶ。
この標準計算式は、神武天皇から開化天皇までの、2倍暦で記載された天皇にしか適用できない。
また、当たり前のことだが、実崩御年齢f/2と実即位年齢d/2は、記載された情報から得られている。
「表6-1 天皇の在位計算(神武~開化)」および「表7 天皇の実年齢」を見ていただきたい。

表6-1 天皇の在位計算(神武~開化)

表7 天皇の実年齢

大半の天皇は、標準計算式に基づき、実崩御年齢、実即位年齢や在位が得られる。
標準計算式で直接得られない場合も、次のように読み替える必要がある。
綏靖天皇の場合、即位年齢52歳が4倍になっているから、1/4の数字13歳を用いる。
孝元天皇の場合、実崩御年齢を宝算116歳に読み替えればよい。(最終年次57歳は在位の2倍暦の数字である)
神武天皇は、多少説明を加えなければならないため、「神武天皇在位14年の根拠(まとめ)」を読んでいただきたい。

2009年7 月 7日 (火)

開化天皇の年次表を解読する 

年代の解読を始めたばかりのことだが、開化の在位は、日本書紀に記載された年次60年から、1/2の30年や1/4の15年が推測できる。何しろ数字が限られているのだから、これ以上は解読できないのではないかと思っていた。多くの学者の方々の年代復元で神武即位が西暦100年以前にいくのも、開化の在位を二倍暦として30年と読むことが影響している。他人様の復元年代を批判するわけではない。実は、筆者もつい1か月前までは開化在位5年を主張していた。現在(2009年9月)は、在位8年に訂正している。
在位8年の根拠は、次の合成年次表「表12-1 神武~崇神復元年代の詳細」によるものである。

表12-1 神武~崇神復元年代の詳細

開化16立太子は、「孝元22-16開化立太子」に基づく
「孝元22-16開化立太子」は、日本書紀に記載された重要なチェック事項である。合成年次表上で、上記の条件に合致する年代を探すことになる。この場合は、孝元の実年齢22歳と開化の実年齢16歳が一致する年代が選ばれた。
また、開化と崇神の関係は、「開化28-19崇神立太子」がチェック事項になっており、この関係式から二つの結果が得られる。「開化28年-崇神誕生」と「開化10-崇神誕生」である。
開化に戻ってチェックすると、開化28年の崇神の立太子年を誕生年と読み替えると、実年の崇神が誕生する。開化10年には、記載上の崇神が誕生する。

「開化5年次、孝元を陵に葬る」は、5年の年代延長がされている
崩御から陵に葬るまでの期間は、他の天皇の例から見て1年程度である。開化の場合は5年分が年代延長の一環として加えられている。5年分の修正を加えた場合の記載上の元年は、立太子年から始まっていることが分る。この場合の見掛け上の開化の在位は13年となるが、実在位は、上記5年分を差し引いた8年となる。
なお、孝元の場合にも「孝元6年次、孝霊を陵に葬る」の記載があるが、上記と同様に年代がずらされており、記載上の元年が立太子年から始まっている。

神武即位162年から開化崩御301年までは2倍暦
日本書記の記載は、神武即位162年から開化崩御301年までは2倍暦で記載されている。2倍暦で記載された期間(合計在位)は140年である。
この件については、別途詳細を述べているので省略する。
カテゴリ「倍暦(2倍暦、4倍暦)」の記事「日本書記の在位と年齢の倍暦に関する一考察」などを参照してください

以前(2009年8月)の筆者の主張(従来、筆者が述べてきた記事である。)
即位前の神武天皇を引き継ぐ崇神天皇
あるとき、年次表を眺めていて、崇神の誕生年が開化10年であることに気付いた。開化の在位は9年分で、後の51年は崇神のための数字だったのだ。ここから、いろいろな数字が繋がった。御肇國天皇である崇神天皇が即位前の神武を引き継ぐには、神武と同様に52歳でなければならなかったのであり、そのために崇神の即位までの51年は重要な数字であった。編者は、どこかに紛れ込ませたのではなく、開化の本来の在位9年の後に堂々と51年を加えたのである。開化の在位は、実年で在位5年である。筆者はこの解読が正しいと信じているのだが、「編者が考えそうなこと」と「必ずキーとなるものが隠されている」がその理由である。多分まともな根拠でないと言われそうである。

開化天皇の在位5年の根拠
筆者の考える標準在位計算式では、開化在位5年[60/2-52/2+1=5年]となり、在位のあり方として典型的な構造をしている。この標準在位計算式で、崇神以前の天皇の在位は大半が計算できるのであるから、在位は5年で正しいとおもわれる。
合成年次表から読み取った開化即位年は、296年で修正値は297年、崩御年は300年で修正値は301年で、在位は5年である。

2009年7 月 4日 (土)

成務天皇と仲哀天皇の年次表を解読する

筆者は、崇神天皇から仲哀天皇までを一つの王朝の物語と考えている。崇神天皇から順次、各天皇の年次表の解読内容を説明してきた。成務天皇と仲哀天皇が残っているが、二人の天皇の在位と年代には分けがたい点があるため、まとめてのべる。
「表23-2 成務天皇と仲哀天皇の年次表の解読]を見たうえで読んでいただきたい。

表23-2 成務天皇と仲哀天皇の年次表の解読

年代解読は、天皇ごとの「個別年次表」と各天皇を一表にまとめた「合成年次表」の二通りで行っている。
成務天皇と仲哀天皇の場合には、個別年次表と合成年次表において、成務崩御年および崩御後の空位年の有無について、結果が異なっている。
成務即位年359年、仲哀即位年372年および仲哀崩御年380年、仲哀在位9年は同じ結果であるから、基本的には問題は大きくないのかもしれない。
「個別年次表」と「合成年次表」の食い違いの個所を詳しく述べると次のようになる。
個別年次表においては、成務の崩御年(成務60年次)は370年であり、崩御後の1年の空位年は371年とする。在位は12年となる。
他方、合成年次表では、成務60年が371年となり、空位年はなく、在位は13年となる。

記載年代と復元年代は干支が一致

個別年次表(上記の「表23-2 成務天皇と仲哀天皇の年次表」を指す)では、次の点で記載年代の干支と復元年代の干支が一致している。復元年代は信じられると考える。
370年庚午、成務崩御、在位12年【書記記載190年庚午の崩年干支と一致】
371年辛未、空位【書記推定191年辛未の干支と一致】
372年壬申、仲哀即位元年【書記記載192年壬申の干支と一致】
380年庚辰、仲哀崩御22歳、在位9年【書記記載200年庚辰の崩年干支と一致】
381年辛巳、応神即位元年

では、何が問題なのか。
合成年次表の「成務60年、371年」と個別年次表の「成務60年次、370年」の食い違いである。上記に述べたとおり、個別年次表の復元年代は信じられるとすると、合成年次表の数字は何なのだ、ということになってしまう。理由が分かればよいのだが、今は分らない状況にある。おろそかにしてはいけない点である。

当初は、神功が存在するとして解読を進めた結果、古事記に記載された崩年干支にたどり着いた。その後、神功という人物はいたかもしれないが、年代に関わることはないと考えて解読を進めてきた。4倍暦にも合致するし、上記のように一部の天皇の干支が日本書紀に記載された干支に一致した。「干支一周り60年であることから、干支が一致するのは一部の天皇で十分である。」すべての天皇に干支が一致するなど理論的にあり得ないことを期待しないことである。

成務と仲哀の記事なし年次は、神功紀の外交関係の記事で埋まる
成務も仲哀も、記事の書かれた年次は少ない。それだけに在位を解読するのは難しい。
仲哀は、日本書紀では在位9年、古事記では7年である。どうやら、この件に関してだけは双方の編者が譲れなかったことと理解する。日本書紀にあっては9年が正解のようだ。
また、成務も仲哀も有効年次であって記事なしの年次が多い。しかし、神功皇后に記載された百済などの半島との外交関係の記事を120年加算し、成務と仲哀の該当する年次に戻すと、記事なしの年次が埋まることになっている。

2009年7 月 3日 (金)

景行天皇の年次表を干支から解読する

景行天皇の在位の解読には、十干を利用する。景行天皇の事跡の特徴として行幸がでてくることである。有難いことに、歴史学者の多くの方が行幸は皇太子時代のもので在位の延長に用いられているから、この分を差し引かなければならないと教えてくれる。
景行17年から20年までは行幸の記事のようであるから、これを外に放り出してしまおう。そうすると自動的に景行4年が25年と続くから景行4年を24年に置き換える。結果として、景行1年は景行21年になるのである。この作業が正しいかどうかは、十干を見比べれば歴然である。即ち、景行4年(24年)は甲であり、25年は乙である。
まだ納得いかない方のために、別の根拠を述べておこう。
景行4年の記事は、2月11日の出来事であり、次の景行25年の記事は2月12日である。
放り出した景行17年には3月12日の出来事が記載されている。景行4年の記事の後にどちらの記事が続くのが良いかは並べてみれば明らかである。
さて、放り出した景行17年から20年までの記事は、皇太子時代のこととして垂仁天皇の中に収めればよい。

古事記の崩年干支の空白を埋める

以下の記事は、以前に書いた記事であり、古事記の崩年干支の年代に結びつく。現在の考え方とは異なるが、どこが異なるかを知っておくのも重要である。
記事のない空白を見ると、当然景行1年から20年までの20年間は空白になっている。
また、景行29年から38年の10年間と景行45年から50年の6年間が空白である。
上記の空白期間のうち30年分を在位60年から引くと30年が残る。景行在位は30年の2倍暦を解消した15年が実年在位である。(6年間が空白は無視する)
景行の年代は、即位334年、崩御は348年、在位15年となる。これにより、垂仁在位15年、景行在位15年、成務在位7年の合計は37年になり、古事記の崩年干支の空白が埋まる。

現在の年代復元考え方
空年は、1年から20年までの20年間と29年から38年の10年間および42~50年次の9年の合計39年あり、60年から39年を減年すると21年が正味の在位となる。
前述した説と比べると、2倍暦の考えを捨てていることである。倍暦は[60÷21=2.86倍]で、意味はない。
垂仁崩御337年であるから、景行即位338年、崩御358年、在位21年となる。
垂仁崩御の記載年790年(神武暦)は、4倍暦を解消すると、358.5年≒358年となる。これが年代決定の根拠になっている。
なお、前述の空年6年を9年としたが、一部の記事(43年次の日本武尊の白鳥陵に関する記事)が年次を示す記事ではないため、前後の空年を含め、除外した結果である。
「表22-2 景行の年次表の解読]を見ていただきたい。

表22-2 景行の年次表の解読

筆者の雑感
「干支からは答が得られない」と考えた方は、真面目すぎて、干支の使われ方を見誤ったのである。また、編者の考えに目を向けなかったのである。
編者である天文学者は、高級官僚である。遊んでいても食うに困るわけでもない。20年もかけて作ったのであるから、時間も持て余すほどある。編纂の内容を面白くするために干支を操るくらいた易いことである。それに年代延長をすれば、没年干支を正しい干支で表示することは無意味と、始めから無視したのである。

卑弥呼死す、孝安崩御248年。壹与立つ、孝霊即位249年

日本書記の新復元年代では、孝安崩御西暦248年となる。卑弥呼の亡くなった年代である。ただし、孝安崩御として扱うが、卑弥呼とともに崩御したのか、追放されたのかは分からない。とにかく卑弥呼の時代が終わったのである。
それに伴い、孝霊の即位年は249年となるが、台与が卑弥呼の後を継いで女王になった年である。
年代の「からくり」は巧妙である。太歳干支の付された甲寅年BC667年からBC661年までの7年間は実年である。同時にBC667年は四倍暦の基準年である。
神武の在位14年の計算と同様に、BC667年を基準にし、四倍暦で計算された年代から7年を引かなければならない。孝安の崩御の年代は、従来の復元年代西暦255年から7年引いた(遡った)248年となる。

この「からくり」にはもう一つのからくりが隠されている。孝安崩御年と孝霊即位年のみが変わるだけで、その他の天皇の年代は変わらない。
(神武の在位はすでに取り込んでいる。また孝霊の場合も、同様の計算で、崩御267年が得られるが、従来の復元年代と同じである。)それによって、孝安の在位は、従来の復元在位33年より7年少ない26年、孝霊は7年加えた19年となる。ちなみに、19年は記載在位76年を四倍暦とした数字である。

上記の復元年代と在位について、年次表に基づき確認して見た。
従来の年代解読は、各天皇の年次表の在位の数字(最終年次)を用いて解読してきた。孝安は102年、孝霊は76年で、この数字は、2倍暦である。復元年代は、孝安崩御255年(孝霊即位256年)であった。
新しい年代解読の方法は、記載年齢に基づく。孝安137歳および孝霊128歳の数字を4倍暦と見做し、1/4の実年に直した数字を用いると、孝安崩御248年(孝霊即位249年)が得られる。
しかも、孝安と孝霊の新しい年代は、前後の孝昭と孝元の年代と一致する。偶然の一致ではなく、予め編者によって年代が一致するように年代構成がなされている。

古事記の復元年代を見てみよう。
孝安の復元年代は、今まで読めないでいたが、次のように解読できる。
孝安に記載された御年は、123歳(一百二十三歳)である。分解すると、112歳(一百十二歳)と113歳(一百十三歳)になる。計算の基準年137年に112年または113年を加える。
137+112-1=248
137+113-1=249
得られた数字から推測すると、孝安崩御248年、孝霊即位249年と読める。

次に、古事記の孝安の御年123歳は、日本書紀の年次表においてどうなっているかを確かめてみた。驚いたことに、孝安123歳を日本書記の崩御年齢137歳の復元年代255年から計算すると(7年減じると)、248年になる。孝安の年齢差14年を、2倍暦と見做すと、7年差となる。
日本書記のデータから作成した年次表から、古事記の御年に相当する年代を求めるということは、記紀間に約10年の食い違いがあったため、行ってこなかったためである。

2009年7 月 1日 (水)

崇神天皇~清寧天皇の合成年次表の特徴

以前、神武の復元年代をみて、「日本書紀の最高傑作にめぐり合えた」と述べた。
年代を復元するため、数字のみを追いかけてきたが、復元された[合成年次表]に対して感じた素直な気持ちである。崇神天皇~仁徳天皇の「合成年次表」に対しても同様である。
きれいに出来上がったからではない。今までに日本書紀の年代解読を試みた方なら、編者が考えた年代の構成に驚かれるはずである。
「表12-2 崇神~仁徳の復元年代の詳細」に基づき、特徴を述べる。

表12-2 崇神~清寧の復元年代の詳細

崇神天皇~仁徳天皇の年代は創作によるものである。合成年次表を見ていると、編者らがどのような考え方で作成したかがよく分るはずである。
合成年次表の備考欄には、「年代復元に対するチェック事項」を挙げている。
例えば、「崇神48-20垂仁立太子」は日本書紀に記載されたものである。従って、チェック事項を満足しないなら、復元が正しいとはいえないことになる。数字などをどのように解釈するかが重要な意味を持ってくる。

立太子の記載年代が誕生年
垂仁、成務、仲哀の3天皇は、「立太子の記載年代が誕生年」である。立太子の年齢は正しく、実年齢の立太子年の年齢として活かされている。
注1) 垂仁の場合、「立太子の記載年代が誕生年」とすると、1年のズレが見られる。この1年のズレについては、別途説明する。編者としては「立太子の記載年代が誕生年」を考えていたと思われるが、年代構成に何らかの問題が生じ、1年ズレが残ったままとなってしまったと考える。
景行の場合は、垂仁と連携した年代構成になっている。垂仁の実年齢に合わせて景行の記載年齢が構成されている。垂仁の実の誕生年と景行の記載上の誕生年が同年になっている。
さらに、景行の立太子年が極めて巧妙な設定になっている。景行の実の立太子年齢21歳を同年の記載年齢37歳に合わせ、垂仁の記載年齢37歳と同年を景行の誕生年としている。
説明より表を見ていただいた方が分り易いであろう。筆者は、「年齢を用いた見事なからくり」だと思うが、いかがであろうか。

応神の実年齢は、記載された誕生年363年と在位41年がキーになっている。最も特異な、神功皇后を出しに使ったからくりである。神功皇后の在位分が他の天皇の在位を少なくさせており、関係天皇は垂仁から応神までの各天皇である。
神功皇后に関する記事を見ていただければよい。

前の天皇の即位年または崩御年が誕生年
仁徳以降の多くの天皇の誕生年の決め方は、「前の天皇の即位年または崩御年が誕生年」となる。いずれも実年齢、実在位である。
仁徳の誕生年は、応神の即位年に当たる。
反正は、仁徳の即位年に誕生する。
安康は、反正の崩御年に誕生する。
清寧は、雄略元年に誕生する。(雄略即位年は、安康の崩御年であるため)

履中の場合は、記載にある[仁徳31年、履中立太子15歳]から年代を見ていく。とんでもないと思われる「年齢(数字)のからくり」がここにある。
仁徳の実年齢は、記載年齢に対し40年減じている。実年齢の31歳は記載年齢では71歳であるが71の逆数は17歳である。仁徳の実年齢17歳のとき、履中が誕生する。
反正の場合は、履中2年に誕生したと記載されている。履中2年は履中2歳のときではなく、履中の実在位における2年次が誕生年である。

允恭の場合は特別である

日本書記の記載では、允恭崩御年42年次は西暦453年に相当する。42年次を42歳とすればよい。
古事記においては、允恭崩御年が454年であり、日本書記と1年違いである。記紀は、允恭崩御年に関する年代で、ほぼ一致していたことになる。ただし、筆者の解読では允恭はさらに6年年代が下り、崩御は48歳となる。記紀の編者は、共通の認識を持って、これを隠したことになる。

「合成年次表」を見れば、編者の「記載年齢と実年齢のからくり」の様子がよく分る筈である。
なお、読者の中には、筆者が作り込んだと勘違いされるのを恐れる。筆者の用いたチェック事項は、記載された生の情報である。年齢を考えるにあたって、推定から始めることはあっても、チェック事項を変えることはしていない。それどころか、チェック事項の扱い方によっては次のようなことが起こる可能性があり、注意を要するのである。
例1) 記載された生の情報が、仮に「仁徳21年次」とされていても、信じられるのは[21]のみである。復元時には、21年次、21年、21歳のすべてが考えられるのである。
例2) チェック事項が「仁徳21-11履中」とあったとき、それぞれの数字から10を減じ「仁徳11-1履中」と変換してはならない。倍暦が考慮されないためである。