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2009年6 月 5日 (金)

邪馬台国はどこにあるのか

聞かれれば、「九州のどこかじゃないの」と答えてきた。
特に調べたわけでもないが、そのように思いこんでいるのは、一つは、文化水準に関してである。中国→朝鮮半島→北九州→大和の順に文化が移行してきて、卑弥呼の時代は北九州の方が大和より文化水準が高かったはずとおもっているからである。
二つ目は、昭和60年代の吉野ケ里遺跡の発掘で、物見櫓などがあって、「ここが邪馬台国だ」とブームになったほどで、強く印象に残っている。
その結果、「九州のどこかじゃないの」になっていた。
記憶によると、アンケート調査(調査時期不明)でも、60%の人が九州にあると思っているようだし、筆者もその一人であった。

記紀の年代解読もある程度進んだが、邪馬台国や卑弥呼・台与について考えなければ、古代史は見えてこない。
邪馬台国に関しては、九州説と大和説があり、多くの学者や歴史好きな方々が学説を発表されている。素人のできることは、どちらの説の方が説得力を持っているかを判断するということになる。

魏志倭人伝」について、ずばり言わせてもらえば、ひどい内容である。松本清張氏が言うように方向や距離や戸数の数字など信用できるものではない。
学者にも問題がある。ある学者が何らかの新しい読み方を提案すれば、必ず反論が出る。しかし見方を変えれば、そのくらい「魏志倭人伝」の記述が曖昧であることに起因する。
例えば、東西南北について角度ずらして読むことを提案すると、それはおかしいという。
大和説であっても、九州説であっても、角度をずらさなければ読めないのを忘れ、「ああ言えばこう言う」だけのことである。
距離も、九州説の中には大和までの距離がないという見解もあるが、九州にするには距離が大き過ぎてしまう。
戸数にしても当時の人口からみて大きすぎるし、二万戸、五万戸、七万戸も作られた数字という。しかし、半分以下の数字とみた場合でも、投馬国五万戸(半分として、二万五千戸)に相当する国が九州説には見当たらない。筑紫野辺りか。
「狗古智卑狗」を「菊池彦」と看做すのが決め手の一つかと思いたいが、「魏略」に記載された「拘右智卑狗」を「河内彦」と看做す。
と云う具合で、「魏志倭人伝」に記載された方向や距離や戸数の数字などからは決められない。
さらに、卑弥呼のいる国には「邪馬壱国」と書かれていて、「邪馬台国」ではないとする見解がある。「後漢書」は「邪馬臺国」としていることから、「邪馬壹(やまいち)国」は「邪馬臺(やまと)国」の間違いである。「魏志倭人伝」は、写本の影響もあって、間違いが多いのである。

「邪馬壱国」を主張する場合には、「邪馬台国」とするのを誤りとする。「後漢書」の記述も誤りとしなければならない。中国史書には誤りがあるということを主張されていることになる。そうすると、「魏志倭人伝」が誤っているか、「後漢書」が誤っているかのどちらかになる。上記の主張は「魏志倭人伝」が誤っているとしたのである。誤りを根拠とするのを認めなければならない。

まともな学者の説ではないが、「女王国東渡海千余里、復有国。皆倭種。・・・朱儒国あり…裸国、黒歯国・・・」を、「大和の東には海がないから、九州である。」とする主張を知ったが、大和(橿原)の東の方には海しかないのである。「朱儒国」、「裸国」、「黒歯国」などあるわけがない一連の記述を考えれば、こんな文章を九州説の根拠に取り上げる方がおかしい。

同様に、「阿蘇山」を持ち出す人がいる。
「近畿地方に阿蘇山があるわけないんです。火を噴く阿蘇山のある島が、倭国。ということになれば、九州が倭国であり、九州以外は考えられない。」という。
「隋書」帝紀、列伝は636年完成した。開皇20年(600)倭王阿毎字多利思北狐の朝貢以降の記事に「阿蘇山」がある。卑弥呼の朝貢から多利思北狐の朝貢までの間に倭の五王の朝貢もある。日本書記の仁徳紀に呉と高麗から使者がきた記述がある。この記事の真偽については分からないが、247年以降600年までに中国からの使者が何度かきたであろう。その時に得た情報である。
三国志」は、陳寿、280~290年完成、「魏志倭人伝」裴松之(はいしょうし)、新資料発見、429年補注完成としても「隋書」とは170年の差がある。
有阿蘇山、其石無故火起接天者、俗以為異、因行禱祭。」と、火山の凄さを記している。では、魏志倭人伝にはなぜ書かれていないのだろうか。邪馬台国へ行く使者は、近くで見ていないか、その頃は火を吹いていなかったのであろう。阿蘇山の記事は邪馬台国がどこにあるのかの決め手にはならない。「阿蘇山」を強調すればするほど、「魏志倭人伝」の記事が中途半端で、信頼できないことになる。

筆者は、九州だと思っていたが、魏志倭人伝をよく読むと、上記に述べた通りで、どちらも根拠がほとんどないことが分かった。
もう少し、最近の考えを付け加えれば、
第一は、狗奴国である。九州説の方が理解し易く、大和説では狗奴国がどこにあるのか分からない。狗奴国を南九州と仮定すると、卑弥呼と卑弥弓呼の戦場も九州となり、大和との関係が分からない。「武埴安彦の乱」を指摘する方があるが、年代も疑問だし、短期の争いのようで、魏志倭人伝の記述と様相が異なる。(信用できないという魏志倭人伝を持ち出すのも気が引ける。)
第二は、日本書紀の孝昭から孝安までの100年が空白になっていて、年代がカギになると考えている。特に孝霊の即位年に注目している。孝霊の即位年が248年または249年になれば、台与との関係から「邪馬台国は大和」である。
卑弥呼と台与の候補者はいるのだが、筆者の復元年代が多少噛み合わない。現状、孝霊即位年と卑弥呼崩御年に7年の食い違いがあり、それが解決しない限り大和とはいえない。復元年代の再検討が必要である。

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