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2009年6 月 5日 (金)

卑弥呼の時代、やまと国は強大であった

神武天皇が新やまと国を建国したのは、162年であったが、既に130年代には饒速日命の建国したやまと国があった。「虚空見つやまとの国」である。
神武天皇は、「蜻蛉の臀舐めの如く(あきずのとなめ)」と称し、始めて秋津州(あきつしま)と名付けた。しかし、国名は、従来と同じ「やまと国」に落ち着いた。「トンボの××国」では、国名として、賛同は得られる筈もない。
神武天皇一族は、ほとんどが短命であったため、神武の直系は懿徳で終わる。この頃には、饒速日命の一族の物部が力を取り戻していた。
西暦196年、九州では戦乱が絶えなかったが、卑弥呼の共立に当たっては、「やまと国」の意向も強く反映された。卑弥呼を「やまと国の女王」とし、孝昭天皇をその補佐役とした。

すでに、やまと国は強大であった。
日本書紀の読み方には注意しなければならない。旧やまと国については記載していないし、物部一族の傘下の国は明示されていない。
先代旧事本紀の記述内容を、日本書紀に加えないと、やまと国の勢力範囲を表すことができない。
先代旧事本紀と日本書紀の問題点は、重複している部分である。やまと建国に関して議論するなら、饒速日命について行った一族か、神武に協力した一族か、重複した部分の解明が必要になるだろう。どちらの書物も自分たちに都合よく書いているからである。(神武の論功行賞から見れば、神武の一団はそれほど強大な勢力ではなさそうである。)
しかし、西暦196年における卑弥呼共立時のやまと国の勢力範囲をみる場合には、両者が合体?してしまうのだから、問題にはならない。
孝昭以降の大臣は物部の一族である。従って、日本海側の国は、九州の一部を除き、越から筑前まで、やまと国の傘下である。
九州の筑紫は神武の出身地である。
瀬戸内海に面した国は、神武東征に協力した国である。紀伊半島南部は、神武東征において制圧した国である。
日本書紀だけでは、やまと国は如何にも貧弱な国としか読めないが、先代旧事本紀やその他の情報を加えれば、やまと国は強大な国になっていたのである。
魏志倭人伝によれば、やまと国と対立している国は、九州南部の狗奴国のみであり、上記に合致する。

卑弥呼と壹与の時代の年表

卑弥呼と壹与の時代、やまと国がいかに強大であったか、年表の中に示した。

「表57 やまと国の年表」を添付するので見ていただきたい。

表57 やまと国の年表

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