日本書記に記載された卑弥呼の候補者、倭国の大井媛
邪馬台国(やまとのくに)が大和にあるとすれば、卑弥呼は必ず記紀のどこかに記載されているはずである。そのような考えで見ると、日本書記に卑弥呼の候補者が記載されている。
孝昭天皇の皇后に、「一に云わく、倭国の豊秋狭太媛の女、大井媛」とある。
孝昭の在位は196年~222年とみているから、卑弥呼の擁立の年代として合ってくる年代である。196年に大井媛が女王として擁立されたとき、台与と同じ13歳だと仮定すると、卑弥呼の死んだとされる247年には64歳である。魏志倭人伝に記載された「年すでに長大」に照らし、妥当な年齢と思われる。
「大井媛」という名を見ただけでは、卑弥呼を想像できない。日本書記の編者は、中国に朝貢した卑弥呼のことを書きたくなかったが、分からないならよいだろうと、名も目立たない「大井媛」と記載した。
母親の名は、「倭国の豊秋狭太媛」というから、神武が倭国造(やまとのくにのみやつこ)に任命した珍彦(椎根津彦命)の娘か孫である。「豊秋」も「豊秋津州」を連想させ、倭国(大和の国)を指している。
注1)先代旧事本紀、国造本紀に、「椎根津彦命を大倭国造とする」とある。
「大井媛」は「倭国の豊秋狭太媛」の娘とされているから、倭国造の家に生まれた媛であり、年代、年齢としても、邪馬台国(やまとのくに)の女王に最もふさわしい人物である。
「大井」を考えると、「井」はまちや人の集まる所を意味し、「市井」に繋がる。「市井」は市場の意味である。そこに大がつけば「大市(井)」となる。
崇神十年、卑弥呼を仮託された倭迹迹日百襲姫命の話として、「大市に葬る」と記載される。「大井」とは、「大市」を示唆し、大井媛が卑弥呼であることを暗示する。
さらに時代を神代に遡れば、珍彦(椎根津彦命)の祖先は彦火明命とか、綿積豊玉彦とかに繋がるようであるが定かでない。(「勘注系図」による。)
魏志倭人伝には、伊都国の官を「爾支」と記載する。倭氏の「邇支倍」ではなかろうか。海外との貿易の拠点である伊都国において、出入りを管理する官とすれば、海人族の倭氏がその任に当たる最適の人物といえる。倭氏と「大井媛」が同族とすれば、なおさらである。
また、魏志倭人伝には、朝貢の使者の名「難升米」が記載されている。「大井媛」の時代には、彦火明命から出た一族に天登目命(建斗目命)がいて、魏国への使者である難升米を示唆する。
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