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2009年6 月 5日 (金)

「台与」は倭国香媛(意富夜麻登玖邇阿礼比売命)

「台与」は倭国香媛(意富夜麻登玖邇阿礼比売命)である
孝霊天皇は、最新の年代解読では即位249年、崩御267年、在位19年である。孝霊の妃に倭国香媛がいるが、古事記では意富夜麻登玖邇阿礼比売命と呼ばれる。
日本書記も古事記も倭という文字が関係し、特異である。
倭国香媛(やまとのくにかひめ)を倭国(やまとのくに)の香媛(かひめ)と読むなら、倭宿禰の一族と看做すことができ卑弥呼の「倭国の大井媛」と同族であり、卑弥呼の宗女も意味を持ってくる。そうなると、古事記の意富夜麻登玖邇阿礼比売命は、大倭国(おおやまとのくに)の阿礼比売(あれひめ)と読まなければならないが、古事記の読みと比べても間違いはない。
(注) 古事記に付された読みは、(おおやまとくにあれひめ)であり、古事記内では「阿礼比売命(あれひめ)」と呼ばれている。「国在媛(くにあれひめ)」とする解釈や読み方はしていない。
「阿礼比売(あれひめ)」の阿礼は、神霊の出現の縁となるものを指し、綾絹や鈴で飾られる。巫女を暗示する。
また、古事記には、安寧の皇子、師木津日子(磯城津彦命)-和知都見-泥(はえいろね)またの名は意富夜麻登玖邇阿礼比売命となっていて、この記述だけでは卑弥呼の宗女とすることはできない。しかし、師木津日子および和知都見の妃が不明であり、妃が倭宿禰の一族の可能性も残る。ただし、推測に域を超えない。
さらに、日本書紀では卑弥呼で述べた「大井媛」と同様に、「倭国香媛」と目立たない表現となっている点では共通である。

古事記によれば、孝霊の即位は249年である。

249年は、ちょうど女王卑弥呼が亡くなった後を女王台与が継いだ年代と同じであり、台与と孝霊、言い換えれば、倭国香媛と孝霊が一体で即位したと看做すことができる。このとき台与即ち倭国香媛は13歳であり、孝霊は20歳であった。
倭国香媛は何人かの子を産んでいて、娘に倭迹迹日百襲姫命がいる。巫女が子を産むことはあり得ないという考えもあるだろうから説明をしておく。
魏志倭人伝では卑弥呼は、巫女で、独身であったと記されている。台与についての記載はない。台与も巫女としての性格を持っていたことは、娘の倭迹迹日百襲姫命から推測できる。
また、当時の風習として、巫女は独身でなければならなかった、と決まっていたわけでもなかろう。神功皇后の例もある。
倭国香媛が后として子を産むことができたのは、女王となった早い時期に孝霊の権力が強まり、女王としての役割が不要になったと考えることもできる。
倭国香媛は孝霊の妃となり、倭迹迹日百襲姫命を生み、孝霊が267年に38歳で亡くなった時には31歳になっていた。
266年に中国に朝貢したが、倭の女王として使いを送りだしたか、それとも孝霊自身が使いを出したかは中国の記録にはないので不明である。
仮りに、50歳で亡くなったとすると、崩御年は284年となる。

皇女の倭迹迹日百襲姫命は女王にはならなかったが、巫女として、崇神の初期に活躍する。母親の国香媛が18歳になった254年に生まれたと仮定すると、崇神10年、310年頃57歳で亡くなったことになる。この一族の女性は長生きである。

三輪山伝説と箸墓伝説の紀事は、倭迹迹日百襲姫命に仮託したものと考えればよい。
なお、表題から「台与」で通してきたが、「壹与(いち、いちよ)」の名が正しいかもしれない。

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