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2009年6 月 5日 (金)

邪馬台(やまと)国の場所は大和

卑弥呼の後継は台与であるが、台与を「とよ」と呼ぶ。にもかかわらず、邪馬台国を「やまとこく」と云わず、「やまたいこく」と云うのは間違いである。
また、「邪馬台国」という文字が最初に現れるのは魏志倭人伝であるが、長文の中に1か所のみ記載されただけである。他に関係しそうな文字には、「大倭」「倭女王」や「女王国」がある。
このようになったのには理由がありそうだ。

古代より、神聖な山には神が宿っていると考え、その山裾を祈りの場所とした。「やまと」と呼ばれる場所である。人口が増えると、いつしか暮らしの場所に変わり、その一帯を「やまと」と呼んだ。
時を経て、国が成立し始めると、それぞれの国は他国と識別できる国名で呼ばれるようになる。「やまと」の呼び名は、宗教的な位置づけの山を有する地域のみに残り、あとは消えていった。例えば、三輪山とその山裾の地域が残った例である。
西暦57年になると、奴国が漢に朝貢するが、中国サイドから見ると、「やまと」とい言葉は知らないし、もともと東夷の果てには「倭人」が住んでいるという認識から、「倭奴国」(わのなこく)と呼んだ。倭人の住む奴国である。奴が用いられた理由として、「那の縣」から「那」を「奴」に置き換えたという説もある(ただし、発音は異なるようである)が、本当のところは分からない。

西暦107年、再び奴国の使いの師升が朝貢するが、奴国以外の地域の長を引き連れて朝貢したので、中国サイドは全体(国名)を倭国と看做し、奴国を盟主国と考えたのであろう。
徐々に漢字を理解する人々が増えてくると、「倭」や「倭国」や「倭奴国」に対する疑問が生まれる。「倭」の字は「従う」、「奴」は「罪人や捕虜」という意味で、「倭国」や「倭奴国」と云われても良いイメージではないことに気付いたのである。同時に、昔から、多くの地域で用いられていた「やまと」という神聖な意味を持つ言葉が思い起こされた。中国から「倭国」と呼ばれても、国内では「やまと」と読み、呼ぶようになったのはそのためである。

西暦238年、卑弥呼が朝貢する。国名を「やまとのくに」と呼び、「倭国」ではないと主張したのであろう。中国サイドは、奴国から邪馬台国(やまとのくに)に盟主国が変わったと考えた。
また、盟主国に従わない狗奴国の存在にも気付いた。その結果、「邪馬台国」(やまとのくに)を盟主国の名として認めたが、全体(国名)は「倭国」を踏襲した。

「女王国は、大倭(やまと)」

魏志倭人伝をみると、「邪馬台国と「大倭」を1か所ずつ用いながら、あとは「倭国」と「女王国」である。
「大倭」について、魏志倭人伝は、「国国有市、交易有無、使大倭監之。」と記す。
先代旧事本紀の神武紀に、椎根津彦を倭国造(やまとのくにのみやつこ)とし、大倭連の祖先と記す。大倭連となった時期は不明だが、倭国造になったときの復元年代は163年である。国造本紀にはずばり、大倭国造(やまとのくにのみやつこ)と記されている。(日本書紀および古事記は、倭国造(やまとのくにのみやつこ)と記す。)
魏志倭人伝の「大倭」を上記のように国名で卑弥呼の国として解釈すると、「邪馬台国」=「大倭」となり、いずれも(やまと)である。中国サイドが「倭(わ)国」に対して「大」をつけたという見解は、「大倭(だいわ」国の邪馬台国」となり、不自然である。国内においては、既に「邪馬台国」ではなく「大倭(やまとの)国」と呼んでいたのである。従って、上記の文面は「大倭(やまと)をして(市を)監理せしむ」と読むべきである。

以上述べたことから察しがつくと思うが、国の名前が対外的に必要と考えた時、即ち朝貢の都度、国名を考え続けたのである。選ばれた国名は、「やまと」なのである。それが中国に通じなかった。そして「倭国」、「邪馬台国」、「大倭」、「夜麻登」、「夜麻等」、その他多くの当て字が用いられたが、すべて「やまと」である。
多くの当て字の中には、倭には近いが、厳密に見れば、発音等が異なるという表現もあるだろう。各部族によって中国や半島の各地から渡ってきたのであり、訛りがあって当たり前である。大局的に見る必要があり、「重箱の隅を楊枝でほじくる。」のは無意味である。

実は、魏志倭人伝には「邪馬壹国」と書かれているのだが、「後漢書」は「邪馬臺国」としているので、「邪馬台国」として説明してきた。
「邪馬壹(やまいち)国」は「邪馬臺(やまと)国」の間違いである。魏志倭人伝は、写本の影響もあって、間違いが多いのである。ただし、「壹与」は別である。「壹与」まで「台与」の間違いかどうかは分らない。勘ぐれば、「壹与」の文字があったため、「邪馬臺国」を「邪馬壹国」と間違えたとも考えられる。

邪馬台国と倭国の関係から「やまと」と呼ばれる理由を述べたが、これらのことが「邪馬台国」がどこにあるのかのカギになるので、それについて述べてみたい。
「やまと」の語源からすれば複数あっても不思議でない。しかし、国名のレベルでは一つである。同じ国名の国が、同時期に二ヶ国存在することは考えられないからである。
先に述べて置くが、「邪馬台国(やまとのくに)東遷説」があるが、この場合も「やまと」は一つである。その意味であるなら、東遷説は一つの説として認められる。しかし、「邪馬台国(やまたいこく)東遷説」という表現はあり得ない。説明は次に述べるが、存在しない国が東遷することはできない。

前述したとおり、三輪山とその山裾の地域には「やまと」と呼ばれた痕跡が多くあるといわれる。しかし、例えば、邪馬台国の有力候補地である筑紫を見ると、同じ地名が豊富に残されている。しかし、「やまと」の痕跡は見られないようである。(未確認である。)
邪馬台国の東遷説において、「やまと」という名は九州の方が先であるとするが、筆者は、「やまと」という地名が存在するかを問題視しているので、意味するところが異なる。
筑後の「山門」あるいは菊池郡の「山門」は、「邪馬台」とは発音が異なるし、「水門」に通じるもので、語源が違うので対象外である。
宇佐地方には、「やまと」、「大和」、「山戸」があったとされるので検討を要するかも。
邪馬台国の候補地の地域に「やまと」の痕跡が見られないとすれば、そこが「邪馬台国(やまと)」であるはずがない。
上記の考えは、学者(九州説の学者)の世界では、すでに検討済みのようで、結論としては、「取るに足らない考え」ということのようである。認めたくないからである。

「虚空見つ日本(やまと)国」

日本書紀をみると、上記に述べたことが間違いではないことが分かる。
饒速日命は、「虚空見つ日本(やまと)国」という。重要なことは、饒速日命も「やまと」呼んでいたことである。饒速日命は神武に帰順したが、国名は神武に引き継がれたのである。本来なら、神武の即位の記事であるはずだが、神武の建国の前に、饒速日命の建国があり、国名は「やまと」であったとは書けなかったのである。

「邪馬台国探し」

一時は流行ったのに、「邪馬台国探し」という表現があるが、読み方は「やまたいこくさがし」である。「やまとさがし」なら、初めから存在するのだから探す必要などない。「やまたいこく」にこだわると、そのように呼ばれる国は存在しないのだから、いくら探しても見つからない。
「奴国」と「やまたいこく」が争い、「狗奴国」ができた、というのもあり得ない。
昔、「邪馬台国」を「やまたいこく」と読んだ大バカの学者がいて、いまだにそこから解放されていないのである。

さて、筆者は「邪馬台国はどこにあるのか」において、中国→朝鮮半島→北九州→大和の順に文化が移行してきて、卑弥呼の時代は北九州の方が大和より文化水準が高かった、と述べた。古墳の遺物からみても間違いないと思っている。しかし、文化水準の高低には関係なく国は成立するのである。それさえも、大和は、筑紫をはじめ北九州から、継続的に移住してきた人々によって築かれ、卑弥呼擁立の際にもさらに移住が進んだとすれば、文化水準が低いと片づけることはできないのである。

移住が起こった一因は、狗奴国と接する筑紫は危険地域だったからである。「魏志倭人伝」に「倭女王卑弥呼与狗奴国男王卑弥弓呼素不和(もとより和せず)」と書かれているが、女王国の誕生以前も同様であった。筑紫には、移住してきた人々の縁者や関係者がまだ多く残っていた。女王国は、筑紫の状況を憂慮していたのである。
卑弥呼は、九州の狗奴国から遠く離れた、安全な「やまと」にいるのである。卑弥呼が狗奴国に殺されることなど全くなく、天寿を全うしたのである。

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