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2009年6 月 5日 (金)

魏に朝貢した大夫難升米は誰か

当初、卑弥呼は彦火明六世孫、宇那比姫命を候補者として挙げた。最近では、日本書紀に記載された倭国の大井媛が卑弥呼ではないかと思うようになった。
以下の記事は、宇那比姫命を想定して書いているが、魏国への使者のことであり、大井媛の場合であっても成り立つと考える。

魏志倭人伝には、「魏朝の景初3年(239年)、倭の女王は大夫難升米等を遣わし、郡に到着、京都に朝貢することを求めた。」とあり、その年の12月の記事に「倭の女王の大夫難升米(ナシメ)、次使の都市牛利(ツシグリ)を送ってきて貢献したことを、倭の女王に知らせた。」と記している。
引き続き、「女王を親魏倭王となし、金印・紫綬を仮し、難升米を率善中郎将に、牛利は率善校尉となし、銀印・青授を仮した。」とする。
「大夫難升米」に関しては、正始6年(245年)と正始8年(247年)にも名前が記されている。

籠神社に残された「勘注系図」から宇那比姫命の周辺を見ると、父親は「天登米または建斗米命」であり、兄弟には「建多乎利」や「建田背命」がいて、「建田背命」の子は「建諸隅命」亦の名[由碁理(ユゴリ)]がいる。
さらに「建諸隅命」の子に「大倭姫」亦の名「天豊姫」がいる。

先ず、大夫の「難升米(ナシメ)」であるが、「建斗米」と対応する。朝貢の使者になって「天登米」と名乗ったところ、魏国の役人から天に昇るとはとんでもない名であると指摘され、「天斗米」にした。やはり認められず「天」は「難」に、「「斗米」は「升米」とランクを下げられ、「難升米」とされてしまった。
「斗」と「升」は、量るための「ます」を意味するが、一升は一斗の十分の一である。
次使の「都市牛利(ツシグリ)」は「建多乎利」に対応する。「都市」と「建多」の関係は分からないが、「牛利(グリ)」と「乎利(コリ)」は一致し、同一人である。
卑弥呼である宇那比姫命の父親の「建斗米」と兄弟の「建多乎利」が魏に朝貢したのである。

倭国の「大井媛」についても関係者がいる。
倭氏の系図では、珍彦(椎根津彦命)の後、志摩津見、武速持、邇支倍、と続く。邇支倍は孝安の時代(223年~248年)の人である。
魏志倭人伝には、伊都国の官を「爾支」と記載する。倭氏の「邇支倍」ではなかろうか。伊都国には、邪馬台国の出先機関があり、船や人の出入りを管理する官がいた。倭氏の「邇支倍」は、邪馬臺(やまと)国から派遣されていた。倭氏は海人であることからも適任であったのだろう。

邪馬台(やまと)国の場所は大和

卑弥呼の後継は台与であるが、台与を「とよ」と呼ぶ。にもかかわらず、邪馬台国を「やまとこく」と云わず、「やまたいこく」と云うのは間違いである。
また、「邪馬台国」という文字が最初に現れるのは魏志倭人伝であるが、長文の中に1か所のみ記載されただけである。他に関係しそうな文字には、「大倭」「倭女王」や「女王国」がある。
このようになったのには理由がありそうだ。

古代より、神聖な山には神が宿っていると考え、その山裾を祈りの場所とした。「やまと」と呼ばれる場所である。人口が増えると、いつしか暮らしの場所に変わり、その一帯を「やまと」と呼んだ。
時を経て、国が成立し始めると、それぞれの国は他国と識別できる国名で呼ばれるようになる。「やまと」の呼び名は、宗教的な位置づけの山を有する地域のみに残り、あとは消えていった。例えば、三輪山とその山裾の地域が残った例である。
西暦57年になると、奴国が漢に朝貢するが、中国サイドから見ると、「やまと」とい言葉は知らないし、もともと東夷の果てには「倭人」が住んでいるという認識から、「倭奴国」(わのなこく)と呼んだ。倭人の住む奴国である。奴が用いられた理由として、「那の縣」から「那」を「奴」に置き換えたという説もある(ただし、発音は異なるようである)が、本当のところは分からない。

西暦107年、再び奴国の使いの師升が朝貢するが、奴国以外の地域の長を引き連れて朝貢したので、中国サイドは全体(国名)を倭国と看做し、奴国を盟主国と考えたのであろう。
徐々に漢字を理解する人々が増えてくると、「倭」や「倭国」や「倭奴国」に対する疑問が生まれる。「倭」の字は「従う」、「奴」は「罪人や捕虜」という意味で、「倭国」や「倭奴国」と云われても良いイメージではないことに気付いたのである。同時に、昔から、多くの地域で用いられていた「やまと」という神聖な意味を持つ言葉が思い起こされた。中国から「倭国」と呼ばれても、国内では「やまと」と読み、呼ぶようになったのはそのためである。

西暦238年、卑弥呼が朝貢する。国名を「やまとのくに」と呼び、「倭国」ではないと主張したのであろう。中国サイドは、奴国から邪馬台国(やまとのくに)に盟主国が変わったと考えた。
また、盟主国に従わない狗奴国の存在にも気付いた。その結果、「邪馬台国」(やまとのくに)を盟主国の名として認めたが、全体(国名)は「倭国」を踏襲した。

「女王国は、大倭(やまと)」

魏志倭人伝をみると、「邪馬台国と「大倭」を1か所ずつ用いながら、あとは「倭国」と「女王国」である。
「大倭」について、魏志倭人伝は、「国国有市、交易有無、使大倭監之。」と記す。
先代旧事本紀の神武紀に、椎根津彦を倭国造(やまとのくにのみやつこ)とし、大倭連の祖先と記す。大倭連となった時期は不明だが、倭国造になったときの復元年代は163年である。国造本紀にはずばり、大倭国造(やまとのくにのみやつこ)と記されている。(日本書紀および古事記は、倭国造(やまとのくにのみやつこ)と記す。)
魏志倭人伝の「大倭」を上記のように国名で卑弥呼の国として解釈すると、「邪馬台国」=「大倭」となり、いずれも(やまと)である。中国サイドが「倭(わ)国」に対して「大」をつけたという見解は、「大倭(だいわ」国の邪馬台国」となり、不自然である。国内においては、既に「邪馬台国」ではなく「大倭(やまとの)国」と呼んでいたのである。従って、上記の文面は「大倭(やまと)をして(市を)監理せしむ」と読むべきである。

以上述べたことから察しがつくと思うが、国の名前が対外的に必要と考えた時、即ち朝貢の都度、国名を考え続けたのである。選ばれた国名は、「やまと」なのである。それが中国に通じなかった。そして「倭国」、「邪馬台国」、「大倭」、「夜麻登」、「夜麻等」、その他多くの当て字が用いられたが、すべて「やまと」である。
多くの当て字の中には、倭には近いが、厳密に見れば、発音等が異なるという表現もあるだろう。各部族によって中国や半島の各地から渡ってきたのであり、訛りがあって当たり前である。大局的に見る必要があり、「重箱の隅を楊枝でほじくる。」のは無意味である。

実は、魏志倭人伝には「邪馬壹国」と書かれているのだが、「後漢書」は「邪馬臺国」としているので、「邪馬台国」として説明してきた。
「邪馬壹(やまいち)国」は「邪馬臺(やまと)国」の間違いである。魏志倭人伝は、写本の影響もあって、間違いが多いのである。ただし、「壹与」は別である。「壹与」まで「台与」の間違いかどうかは分らない。勘ぐれば、「壹与」の文字があったため、「邪馬臺国」を「邪馬壹国」と間違えたとも考えられる。

邪馬台国と倭国の関係から「やまと」と呼ばれる理由を述べたが、これらのことが「邪馬台国」がどこにあるのかのカギになるので、それについて述べてみたい。
「やまと」の語源からすれば複数あっても不思議でない。しかし、国名のレベルでは一つである。同じ国名の国が、同時期に二ヶ国存在することは考えられないからである。
先に述べて置くが、「邪馬台国(やまとのくに)東遷説」があるが、この場合も「やまと」は一つである。その意味であるなら、東遷説は一つの説として認められる。しかし、「邪馬台国(やまたいこく)東遷説」という表現はあり得ない。説明は次に述べるが、存在しない国が東遷することはできない。

前述したとおり、三輪山とその山裾の地域には「やまと」と呼ばれた痕跡が多くあるといわれる。しかし、例えば、邪馬台国の有力候補地である筑紫を見ると、同じ地名が豊富に残されている。しかし、「やまと」の痕跡は見られないようである。(未確認である。)
邪馬台国の東遷説において、「やまと」という名は九州の方が先であるとするが、筆者は、「やまと」という地名が存在するかを問題視しているので、意味するところが異なる。
筑後の「山門」あるいは菊池郡の「山門」は、「邪馬台」とは発音が異なるし、「水門」に通じるもので、語源が違うので対象外である。
宇佐地方には、「やまと」、「大和」、「山戸」があったとされるので検討を要するかも。
邪馬台国の候補地の地域に「やまと」の痕跡が見られないとすれば、そこが「邪馬台国(やまと)」であるはずがない。
上記の考えは、学者(九州説の学者)の世界では、すでに検討済みのようで、結論としては、「取るに足らない考え」ということのようである。認めたくないからである。

「虚空見つ日本(やまと)国」

日本書紀をみると、上記に述べたことが間違いではないことが分かる。
饒速日命は、「虚空見つ日本(やまと)国」という。重要なことは、饒速日命も「やまと」呼んでいたことである。饒速日命は神武に帰順したが、国名は神武に引き継がれたのである。本来なら、神武の即位の記事であるはずだが、神武の建国の前に、饒速日命の建国があり、国名は「やまと」であったとは書けなかったのである。

「邪馬台国探し」

一時は流行ったのに、「邪馬台国探し」という表現があるが、読み方は「やまたいこくさがし」である。「やまとさがし」なら、初めから存在するのだから探す必要などない。「やまたいこく」にこだわると、そのように呼ばれる国は存在しないのだから、いくら探しても見つからない。
「奴国」と「やまたいこく」が争い、「狗奴国」ができた、というのもあり得ない。
昔、「邪馬台国」を「やまたいこく」と読んだ大バカの学者がいて、いまだにそこから解放されていないのである。

さて、筆者は「邪馬台国はどこにあるのか」において、中国→朝鮮半島→北九州→大和の順に文化が移行してきて、卑弥呼の時代は北九州の方が大和より文化水準が高かった、と述べた。古墳の遺物からみても間違いないと思っている。しかし、文化水準の高低には関係なく国は成立するのである。それさえも、大和は、筑紫をはじめ北九州から、継続的に移住してきた人々によって築かれ、卑弥呼擁立の際にもさらに移住が進んだとすれば、文化水準が低いと片づけることはできないのである。

移住が起こった一因は、狗奴国と接する筑紫は危険地域だったからである。「魏志倭人伝」に「倭女王卑弥呼与狗奴国男王卑弥弓呼素不和(もとより和せず)」と書かれているが、女王国の誕生以前も同様であった。筑紫には、移住してきた人々の縁者や関係者がまだ多く残っていた。女王国は、筑紫の状況を憂慮していたのである。
卑弥呼は、九州の狗奴国から遠く離れた、安全な「やまと」にいるのである。卑弥呼が狗奴国に殺されることなど全くなく、天寿を全うしたのである。

卑弥呼の時代、やまと国は強大であった

神武天皇が新やまと国を建国したのは、162年であったが、既に130年代には饒速日命の建国したやまと国があった。「虚空見つやまとの国」である。
神武天皇は、「蜻蛉の臀舐めの如く(あきずのとなめ)」と称し、始めて秋津州(あきつしま)と名付けた。しかし、国名は、従来と同じ「やまと国」に落ち着いた。「トンボの××国」では、国名として、賛同は得られる筈もない。
神武天皇一族は、ほとんどが短命であったため、神武の直系は懿徳で終わる。この頃には、饒速日命の一族の物部が力を取り戻していた。
西暦196年、九州では戦乱が絶えなかったが、卑弥呼の共立に当たっては、「やまと国」の意向も強く反映された。卑弥呼を「やまと国の女王」とし、孝昭天皇をその補佐役とした。

すでに、やまと国は強大であった。
日本書紀の読み方には注意しなければならない。旧やまと国については記載していないし、物部一族の傘下の国は明示されていない。
先代旧事本紀の記述内容を、日本書紀に加えないと、やまと国の勢力範囲を表すことができない。
先代旧事本紀と日本書紀の問題点は、重複している部分である。やまと建国に関して議論するなら、饒速日命について行った一族か、神武に協力した一族か、重複した部分の解明が必要になるだろう。どちらの書物も自分たちに都合よく書いているからである。(神武の論功行賞から見れば、神武の一団はそれほど強大な勢力ではなさそうである。)
しかし、西暦196年における卑弥呼共立時のやまと国の勢力範囲をみる場合には、両者が合体?してしまうのだから、問題にはならない。
孝昭以降の大臣は物部の一族である。従って、日本海側の国は、九州の一部を除き、越から筑前まで、やまと国の傘下である。
九州の筑紫は神武の出身地である。
瀬戸内海に面した国は、神武東征に協力した国である。紀伊半島南部は、神武東征において制圧した国である。
日本書紀だけでは、やまと国は如何にも貧弱な国としか読めないが、先代旧事本紀やその他の情報を加えれば、やまと国は強大な国になっていたのである。
魏志倭人伝によれば、やまと国と対立している国は、九州南部の狗奴国のみであり、上記に合致する。

卑弥呼と壹与の時代の年表

卑弥呼と壹与の時代、やまと国がいかに強大であったか、年表の中に示した。

「表57 やまと国の年表」を添付するので見ていただきたい。

表57 やまと国の年表

邪馬台国はどこにあるのか

聞かれれば、「九州のどこかじゃないの」と答えてきた。
特に調べたわけでもないが、そのように思いこんでいるのは、一つは、文化水準に関してである。中国→朝鮮半島→北九州→大和の順に文化が移行してきて、卑弥呼の時代は北九州の方が大和より文化水準が高かったはずとおもっているからである。
二つ目は、昭和60年代の吉野ケ里遺跡の発掘で、物見櫓などがあって、「ここが邪馬台国だ」とブームになったほどで、強く印象に残っている。
その結果、「九州のどこかじゃないの」になっていた。
記憶によると、アンケート調査(調査時期不明)でも、60%の人が九州にあると思っているようだし、筆者もその一人であった。

記紀の年代解読もある程度進んだが、邪馬台国や卑弥呼・台与について考えなければ、古代史は見えてこない。
邪馬台国に関しては、九州説と大和説があり、多くの学者や歴史好きな方々が学説を発表されている。素人のできることは、どちらの説の方が説得力を持っているかを判断するということになる。

魏志倭人伝」について、ずばり言わせてもらえば、ひどい内容である。松本清張氏が言うように方向や距離や戸数の数字など信用できるものではない。
学者にも問題がある。ある学者が何らかの新しい読み方を提案すれば、必ず反論が出る。しかし見方を変えれば、そのくらい「魏志倭人伝」の記述が曖昧であることに起因する。
例えば、東西南北について角度ずらして読むことを提案すると、それはおかしいという。
大和説であっても、九州説であっても、角度をずらさなければ読めないのを忘れ、「ああ言えばこう言う」だけのことである。
距離も、九州説の中には大和までの距離がないという見解もあるが、九州にするには距離が大き過ぎてしまう。
戸数にしても当時の人口からみて大きすぎるし、二万戸、五万戸、七万戸も作られた数字という。しかし、半分以下の数字とみた場合でも、投馬国五万戸(半分として、二万五千戸)に相当する国が九州説には見当たらない。筑紫野辺りか。
「狗古智卑狗」を「菊池彦」と看做すのが決め手の一つかと思いたいが、「魏略」に記載された「拘右智卑狗」を「河内彦」と看做す。
と云う具合で、「魏志倭人伝」に記載された方向や距離や戸数の数字などからは決められない。
さらに、卑弥呼のいる国には「邪馬壱国」と書かれていて、「邪馬台国」ではないとする見解がある。「後漢書」は「邪馬臺国」としていることから、「邪馬壹(やまいち)国」は「邪馬臺(やまと)国」の間違いである。「魏志倭人伝」は、写本の影響もあって、間違いが多いのである。

「邪馬壱国」を主張する場合には、「邪馬台国」とするのを誤りとする。「後漢書」の記述も誤りとしなければならない。中国史書には誤りがあるということを主張されていることになる。そうすると、「魏志倭人伝」が誤っているか、「後漢書」が誤っているかのどちらかになる。上記の主張は「魏志倭人伝」が誤っているとしたのである。誤りを根拠とするのを認めなければならない。

まともな学者の説ではないが、「女王国東渡海千余里、復有国。皆倭種。・・・朱儒国あり…裸国、黒歯国・・・」を、「大和の東には海がないから、九州である。」とする主張を知ったが、大和(橿原)の東の方には海しかないのである。「朱儒国」、「裸国」、「黒歯国」などあるわけがない一連の記述を考えれば、こんな文章を九州説の根拠に取り上げる方がおかしい。

同様に、「阿蘇山」を持ち出す人がいる。
「近畿地方に阿蘇山があるわけないんです。火を噴く阿蘇山のある島が、倭国。ということになれば、九州が倭国であり、九州以外は考えられない。」という。
「隋書」帝紀、列伝は636年完成した。開皇20年(600)倭王阿毎字多利思北狐の朝貢以降の記事に「阿蘇山」がある。卑弥呼の朝貢から多利思北狐の朝貢までの間に倭の五王の朝貢もある。日本書記の仁徳紀に呉と高麗から使者がきた記述がある。この記事の真偽については分からないが、247年以降600年までに中国からの使者が何度かきたであろう。その時に得た情報である。
三国志」は、陳寿、280~290年完成、「魏志倭人伝」裴松之(はいしょうし)、新資料発見、429年補注完成としても「隋書」とは170年の差がある。
有阿蘇山、其石無故火起接天者、俗以為異、因行禱祭。」と、火山の凄さを記している。では、魏志倭人伝にはなぜ書かれていないのだろうか。邪馬台国へ行く使者は、近くで見ていないか、その頃は火を吹いていなかったのであろう。阿蘇山の記事は邪馬台国がどこにあるのかの決め手にはならない。「阿蘇山」を強調すればするほど、「魏志倭人伝」の記事が中途半端で、信頼できないことになる。

筆者は、九州だと思っていたが、魏志倭人伝をよく読むと、上記に述べた通りで、どちらも根拠がほとんどないことが分かった。
もう少し、最近の考えを付け加えれば、
第一は、狗奴国である。九州説の方が理解し易く、大和説では狗奴国がどこにあるのか分からない。狗奴国を南九州と仮定すると、卑弥呼と卑弥弓呼の戦場も九州となり、大和との関係が分からない。「武埴安彦の乱」を指摘する方があるが、年代も疑問だし、短期の争いのようで、魏志倭人伝の記述と様相が異なる。(信用できないという魏志倭人伝を持ち出すのも気が引ける。)
第二は、日本書紀の孝昭から孝安までの100年が空白になっていて、年代がカギになると考えている。特に孝霊の即位年に注目している。孝霊の即位年が248年または249年になれば、台与との関係から「邪馬台国は大和」である。
卑弥呼と台与の候補者はいるのだが、筆者の復元年代が多少噛み合わない。現状、孝霊即位年と卑弥呼崩御年に7年の食い違いがあり、それが解決しない限り大和とはいえない。復元年代の再検討が必要である。