日本書記の新復元年代では、孝安崩御西暦248年となる。卑弥呼の亡くなった年代である。ただし、孝安崩御として扱うが、卑弥呼とともに崩御したのか、追放されたのかは分からない。とにかく卑弥呼の時代が終わったのである。
それに伴い、孝霊の即位年は249年となるが、台与が卑弥呼の後を継いで女王になった年である。
年代の「からくり」は巧妙である。太歳干支の付された甲寅年BC667年からBC661年までの7年間は実年である。同時にBC667年は四倍暦の基準年である。
神武の在位14年の計算と同様に、BC667年を基準にし、四倍暦で計算された年代から7年を引かなければならない。孝安の崩御の年代は、従来の復元年代西暦255年から7年引いた(遡った)248年となる。
この「からくり」にはもう一つのからくりが隠されている。孝安崩御年と孝霊即位年のみが変わるだけで、その他の天皇の年代は変わらない。
(神武の在位はすでに取り込んでいる。また孝霊の場合も、同様の計算で、崩御267年が得られるが、従来の復元年代と同じである。)それによって、孝安の在位は、従来の復元在位33年より7年少ない26年、孝霊は7年加えた19年となる。ちなみに、19年は記載在位76年を四倍暦とした数字である。
上記の復元年代と在位について、年次表に基づき確認して見た。
従来の年代解読は、各天皇の年次表の在位の数字(最終年次)を用いて解読してきた。孝安は102年、孝霊は76年で、この数字は、2倍暦である。復元年代は、孝安崩御255年(孝霊即位256年)であった。
新しい年代解読の方法は、記載年齢に基づく。孝安137歳および孝霊128歳の数字を4倍暦と見做し、1/4の実年に直した数字を用いると、孝安崩御248年(孝霊即位249年)が得られる。
しかも、孝安と孝霊の新しい年代は、前後の孝昭と孝元の年代と一致する。偶然の一致ではなく、予め編者によって年代が一致するように年代構成がなされている。
古事記の復元年代を見てみよう。
孝安の復元年代は、今まで読めないでいたが、次のように解読できる。
孝安に記載された御年は、123歳(一百二十三歳)である。分解すると、112歳(一百十二歳)と113歳(一百十三歳)になる。計算の基準年137年に112年または113年を加える。
137+112-1=248
137+113-1=249
得られた数字から推測すると、孝安崩御248年、孝霊即位249年と読める。
次に、古事記の孝安の御年123歳は、日本書紀の年次表においてどうなっているかを確かめてみた。驚いたことに、孝安123歳を日本書記の崩御年齢137歳の復元年代255年から計算すると(7年減じると)、248年になる。孝安の年齢差14年を、2倍暦と見做すと、7年差となる。
日本書記のデータから作成した年次表から、古事記の御年に相当する年代を求めるということは、記紀間に約10年の食い違いがあったため、行ってこなかったためである。