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2009年10 月23日 (金)

日本書記の暗号に書かれた「孝一族の時代(卑弥呼の時代)」

日本書記には、卑弥呼や壹与については、倭迹迹日百襲姫命の箸墓に関すること以外はほとんど記載されていない。また、卑弥呼や壹与の年代にあったとされる魏との交流については、全く記載がない。
しかし、孝昭、孝安、孝霊の各天皇の「年月日の暗号」を解読すると極めて多くのことが分る。
この時代に関しては、三国志に記載されている年代とその記事が、当時の日本に何があったかを書き残してくれている。日本書紀においても三国志に記載された年代がすべて読めるのである。
次の「表113 日本書記における魏国への朝貢の記録」を見ていただきたい。

表113 日本書記における魏国への朝貢の記録

「年月日の暗号」は、数字の扱いによっていろいろな結果が得られてしまう心配がある。信頼性が乏しいのである。表には、面白い解読方法や信頼性がありそうなものを、地の色を青色に着けておいた。
注)にも重要なことは書いておいたので、関係する記事を読んでいただきたい。

以前に、「日本書記の『神武の時代』を推理する」という記事を投稿したが、孝昭天皇から孝霊天皇までの『孝一族の時代(卑弥呼の時代)』も、まさに推理を必要とする
筆者は今、「表113 日本書記における魏国への朝貢の記録」を作成したばかりである。中途半端な説明をするより、しばらく考えたい。
これを読まれている方は、表を見さえすれば、日本書紀に何が隠されているかがすぐに分るであろう。

2009年7 月 3日 (金)

卑弥呼死す、孝安崩御248年。壹与立つ、孝霊即位249年

日本書記の新復元年代では、孝安崩御西暦248年となる。卑弥呼の亡くなった年代である。ただし、孝安崩御として扱うが、卑弥呼とともに崩御したのか、追放されたのかは分からない。とにかく卑弥呼の時代が終わったのである。
それに伴い、孝霊の即位年は249年となるが、台与が卑弥呼の後を継いで女王になった年である。
年代の「からくり」は巧妙である。太歳干支の付された甲寅年BC667年からBC661年までの7年間は実年である。同時にBC667年は四倍暦の基準年である。
神武の在位14年の計算と同様に、BC667年を基準にし、四倍暦で計算された年代から7年を引かなければならない。孝安の崩御の年代は、従来の復元年代西暦255年から7年引いた(遡った)248年となる。

この「からくり」にはもう一つのからくりが隠されている。孝安崩御年と孝霊即位年のみが変わるだけで、その他の天皇の年代は変わらない。
(神武の在位はすでに取り込んでいる。また孝霊の場合も、同様の計算で、崩御267年が得られるが、従来の復元年代と同じである。)それによって、孝安の在位は、従来の復元在位33年より7年少ない26年、孝霊は7年加えた19年となる。ちなみに、19年は記載在位76年を四倍暦とした数字である。

上記の復元年代と在位について、年次表に基づき確認して見た。
従来の年代解読は、各天皇の年次表の在位の数字(最終年次)を用いて解読してきた。孝安は102年、孝霊は76年で、この数字は、2倍暦である。復元年代は、孝安崩御255年(孝霊即位256年)であった。
新しい年代解読の方法は、記載年齢に基づく。孝安137歳および孝霊128歳の数字を4倍暦と見做し、1/4の実年に直した数字を用いると、孝安崩御248年(孝霊即位249年)が得られる。
しかも、孝安と孝霊の新しい年代は、前後の孝昭と孝元の年代と一致する。偶然の一致ではなく、予め編者によって年代が一致するように年代構成がなされている。

古事記の復元年代を見てみよう。
孝安の復元年代は、今まで読めないでいたが、次のように解読できる。
孝安に記載された御年は、123歳(一百二十三歳)である。分解すると、112歳(一百十二歳)と113歳(一百十三歳)になる。計算の基準年137年に112年または113年を加える。
137+112-1=248
137+113-1=249
得られた数字から推測すると、孝安崩御248年、孝霊即位249年と読める。

次に、古事記の孝安の御年123歳は、日本書紀の年次表においてどうなっているかを確かめてみた。驚いたことに、孝安123歳を日本書記の崩御年齢137歳の復元年代255年から計算すると(7年減じると)、248年になる。孝安の年齢差14年を、2倍暦と見做すと、7年差となる。
日本書記のデータから作成した年次表から、古事記の御年に相当する年代を求めるということは、記紀間に約10年の食い違いがあったため、行ってこなかったためである。

2009年6 月27日 (土)

神功皇后は女王卑弥呼ではない

神功皇后が卑弥呼である、という主張は昔からあるようだ。神功皇后の記事に卑弥呼の朝貢の記事があるためである。記事を読むと、神功が卑弥呼であるというより、「魏志倭人伝に倭の女王が魏に大夫難斗米らを遣わすという記事がある。」という他人事のように書かれている。さらに、266年の朝貢は、卑弥呼が死んだ後の年代で、壹与の朝貢と考えられる記事も記載している。要するに、卑弥呼と壹与を区別していない。従って、記事からは神功が卑弥呼を想定したとは全くいえない。神功の年代も300年代後半であるから、当然である。

神功崩御の月日は卑弥呼が死んだ年

さらに記事をよく読むと、266年の次の269年(神功紀としては最後の年)の記事に、神功が100歳で崩御したと記載しているが、その月日は4月17日となっている。
4月17日は、(四月十七日→四十七年)で、247年を意味し、卑弥呼の死んだとされる年である。神功紀には、魏志倭人伝の「卑弥呼死す」の247年に記事がないのは、神功の崩御に合わせて、卑弥呼の死んだ年を記載した、と考えることができるし、2度も死なすわけにはいかなかったのであろう。
また、神功皇后を記載年代の247年に亡くなったとしなかったのは、前述したとおり、「神功皇后は卑弥呼ではない」からであるが、まだ248年以降269年までの出来事を書くために生きていてもらわなければ困るのである。
編者は、数字遊びを楽しんでいるのだ。「月日は正しい」なんて主張する人に対しては、間違いなくおちょくっている。

筆者は、孝昭・孝安の年代が、卑弥呼の年代と一致するという考えを持っている。魏志倭人伝に記載された通り247年に卑弥呼が死んだとして、孝昭即位の196年に卑弥呼が壹与と同じ13歳で女王になったと仮定すると、卑弥呼は64歳で亡くなったことになる。
同様に、孝安即位223年の場合を計算すると、卑弥呼は37歳で亡くなったことになる。
魏志倭人伝には、「年巳長大(年すでに長大)というのだから、卑弥呼が196年に女王になった推測できる。

また、魏志倭人伝では卑弥呼の朝貢が景初2年(238年)にあったと記載されているが、実際には239年ではないかとの考え方が存在する。神功皇后の年次から卑弥呼の最初の朝貢が239年にあったことが分かる。他方で、崇神7~10年次の年代解読では最初の朝貢は238年になっている。編者の見解も割れていたのかもしれないが、239年という数字があることは、景初3年(239年)が正しいということを示唆していると考えてよさそうである。

2009年6 月20日 (土)

日本書紀の孝安天皇崩御は248年(卑弥呼没年)

古事記では、孝安天皇崩御248年が読み取れていたが、日本書紀でも同様に、孝安天皇崩御248年を解読したので紹介する。

孝安天皇の崩御年を説明する前に神武天皇在位の計算方法を見ていただく。(方法が同じであるため)
神武在位は、次のように求める。
神武の太歳付与年BC667年~崩御年BC585年の在位は、83年
在位は四倍暦とし、83×1/4=20.75年
神武即位年BC660年と太歳付与年BC667年の間の7年間は実年である。
神武即位年~崩御年の在位は、20.75年-7年=13.75年≒14年
神武即位年を162年とすると、崩御年は175年[162+14-1=175]

同様の方法で、孝安崩御年を求める。
神武の太歳付与年BC667年~孝安崩御年BC291年の在位は、377年
在位は四倍暦とし、377×1/4=94.25年
神武即位年~孝安崩御年の在位は、94.25年-7年=87.25年≒87年
神武即位年を162年とすると、崩御年は248年である。[162+87-1=248]

同様の計算方法で、
孝昭崩御年は223年。
孝霊崩御年は267年、在位は19年。
孝元崩御年は282年、在位は25年

参考)古事記の孝安御年は123歳から孝安崩御年を求める。
123歳(一百二十三歳)を、112歳(一百十二歳)と113歳(一百十三歳)に分解する。
孝安崩御年は、248年[137+112-1=248](女王卑弥呼死す
孝霊即位年は、249年[137+113-1=249](女王壹与立つ

日本書紀及び古事記で248年(卑弥呼没年)が読みとれたことにより、卑弥呼が邪馬台国(やまとの国)の女王であったことが確実になった。
古事記において、249年には壹与と孝霊が、二王体制で邪馬台国(やまとの国)を統治したことも明らかにできた。壹与は、孝霊の妃となった倭国香媛(意富夜麻登玖邇阿礼比売命)である。

2009年6 月16日 (火)

孝昭天皇一族と女王卑弥呼・台与(壹与)

「葛城王朝」には、神武以下、綏靖、安寧、懿徳、孝昭、孝安、孝霊、孝元、開化と9代の天皇がいる。上記の名称は漢風諡号(しごう)といわれ、天皇の死後に奉った「おくりな」である。また、「おくりな」は、生前の事績に対する評価に基づくと考えられている。
誰でもが気付くように、孝昭、孝安、孝霊、孝元の4天皇は「孝」で始まるが、なぜなのか。
「おくりな」の作者、淡海三船(722~785年)は、日本書記撰上の後に生まれたので編纂には関係していない。しかし日本書記撰上から五十年後には大学頭兼文章博士になっているから、日本書紀の記載内容および裏事情に通じていたと思われる。
その淡海三船が上記のような「おくりな」を付けたということは、神武~懿徳の4天皇と孝昭~孝元の4天皇とは、例えば、血縁関係に断絶があることを暗示していると捉える。
復元年代から見ると、神武即位162年~懿徳崩御195年で、神武一族はみな短命であり、4天皇の統治は合わせて34年であった。
なお、後述するが、孝昭天皇即位を女王卑弥呼擁立と看做すと、懿徳から孝昭への交代はある程度の権力闘争があったことも想定され、縁戚への交代というような甘い話ではないかも知れない。

孝昭天皇一族の年代は、卑弥呼・台与(壹与)の年代に重なる。卑弥呼の擁立の年代が不明であるが、孝昭即位196年及び孝安即位222or 223年という年代は、いずれも卑弥呼を立てたとする年代の範疇にある。さらに、孝昭即位196年~孝元崩御296年は期間が100年となるが、卑弥呼の崩御を247年とすると、卑弥呼在位51年・台与在位49年となり合計100年で上記の100年に一致する。それにしても話がうまく出来過ぎている感じである。
現在の日本書紀の復元年代は、孝霊即位は256年であり、現状では台与擁立の年代248年または249年とは7,8年食い違っている。孝霊の在位を12年としているが、四倍暦では19年であり、7年遡ると249年になる。

卑弥呼と孝昭の二人の王による統治

ところが、古事記の復元年代は、孝安崩御248年、孝霊即位249年と読める。卑弥呼の死んだとされる年代も、247年または248年とされる。
孝安の崩御年が卑弥呼死んだ年と一致し、孝霊の即位年が台与擁立の年代と合致するなら、邪馬台国は大和にあったことになる。古事記の結果は重みがある。

改めて、淡海三船が名付けた「孝昭」の意味を考えてみると、「卑弥呼を太陽に見立て、卑弥呼の発する光により照り輝く天皇」を意味することが分かった。
鳥越憲三郎氏が言うところの祭政二重主権の形態がここにある。卑弥呼は、祭事に専念する祭事権者である。孝昭は、政事権や軍事権を持つ。やまと国は、二人の王によって統治されていたのである。鳥越氏の見解と違うのは、本来兄弟姉妹である点が夫妻に変わっているところである。卑弥呼が亡くなったとき孝安が崩御されたように見えるが、必ずしも崩御とする必要はない。お役目が解けたのである。そして新たに、壹与と孝霊の二人による統治が始まった。

2009年6 月 5日 (金)

魏に朝貢した大夫難升米は誰か

当初、卑弥呼は彦火明六世孫、宇那比姫命を候補者として挙げた。最近では、日本書紀に記載された倭国の大井媛が卑弥呼ではないかと思うようになった。
以下の記事は、宇那比姫命を想定して書いているが、魏国への使者のことであり、大井媛の場合であっても成り立つと考える。

魏志倭人伝には、「魏朝の景初3年(239年)、倭の女王は大夫難升米等を遣わし、郡に到着、京都に朝貢することを求めた。」とあり、その年の12月の記事に「倭の女王の大夫難升米(ナシメ)、次使の都市牛利(ツシグリ)を送ってきて貢献したことを、倭の女王に知らせた。」と記している。
引き続き、「女王を親魏倭王となし、金印・紫綬を仮し、難升米を率善中郎将に、牛利は率善校尉となし、銀印・青授を仮した。」とする。
「大夫難升米」に関しては、正始6年(245年)と正始8年(247年)にも名前が記されている。

籠神社に残された「勘注系図」から宇那比姫命の周辺を見ると、父親は「天登米または建斗米命」であり、兄弟には「建多乎利」や「建田背命」がいて、「建田背命」の子は「建諸隅命」亦の名[由碁理(ユゴリ)]がいる。
さらに「建諸隅命」の子に「大倭姫」亦の名「天豊姫」がいる。

先ず、大夫の「難升米(ナシメ)」であるが、「建斗米」と対応する。朝貢の使者になって「天登米」と名乗ったところ、魏国の役人から天に昇るとはとんでもない名であると指摘され、「天斗米」にした。やはり認められず「天」は「難」に、「「斗米」は「升米」とランクを下げられ、「難升米」とされてしまった。
「斗」と「升」は、量るための「ます」を意味するが、一升は一斗の十分の一である。
次使の「都市牛利(ツシグリ)」は「建多乎利」に対応する。「都市」と「建多」の関係は分からないが、「牛利(グリ)」と「乎利(コリ)」は一致し、同一人である。
卑弥呼である宇那比姫命の父親の「建斗米」と兄弟の「建多乎利」が魏に朝貢したのである。

倭国の「大井媛」についても関係者がいる。
倭氏の系図では、珍彦(椎根津彦命)の後、志摩津見、武速持、邇支倍、と続く。邇支倍は孝安の時代(223年~248年)の人である。
魏志倭人伝には、伊都国の官を「爾支」と記載する。倭氏の「邇支倍」ではなかろうか。伊都国には、邪馬台国の出先機関があり、船や人の出入りを管理する官がいた。倭氏の「邇支倍」は、邪馬臺(やまと)国から派遣されていた。倭氏は海人であることからも適任であったのだろう。

「台与」は倭国香媛(意富夜麻登玖邇阿礼比売命)

「台与」は倭国香媛(意富夜麻登玖邇阿礼比売命)である
孝霊天皇は、最新の年代解読では即位249年、崩御267年、在位19年である。孝霊の妃に倭国香媛がいるが、古事記では意富夜麻登玖邇阿礼比売命と呼ばれる。
日本書記も古事記も倭という文字が関係し、特異である。
倭国香媛(やまとのくにかひめ)を倭国(やまとのくに)の香媛(かひめ)と読むなら、倭宿禰の一族と看做すことができ卑弥呼の「倭国の大井媛」と同族であり、卑弥呼の宗女も意味を持ってくる。そうなると、古事記の意富夜麻登玖邇阿礼比売命は、大倭国(おおやまとのくに)の阿礼比売(あれひめ)と読まなければならないが、古事記の読みと比べても間違いはない。
(注) 古事記に付された読みは、(おおやまとくにあれひめ)であり、古事記内では「阿礼比売命(あれひめ)」と呼ばれている。「国在媛(くにあれひめ)」とする解釈や読み方はしていない。
「阿礼比売(あれひめ)」の阿礼は、神霊の出現の縁となるものを指し、綾絹や鈴で飾られる。巫女を暗示する。
また、古事記には、安寧の皇子、師木津日子(磯城津彦命)-和知都見-泥(はえいろね)またの名は意富夜麻登玖邇阿礼比売命となっていて、この記述だけでは卑弥呼の宗女とすることはできない。しかし、師木津日子および和知都見の妃が不明であり、妃が倭宿禰の一族の可能性も残る。ただし、推測に域を超えない。
さらに、日本書紀では卑弥呼で述べた「大井媛」と同様に、「倭国香媛」と目立たない表現となっている点では共通である。

古事記によれば、孝霊の即位は249年である。

249年は、ちょうど女王卑弥呼が亡くなった後を女王台与が継いだ年代と同じであり、台与と孝霊、言い換えれば、倭国香媛と孝霊が一体で即位したと看做すことができる。このとき台与即ち倭国香媛は13歳であり、孝霊は20歳であった。
倭国香媛は何人かの子を産んでいて、娘に倭迹迹日百襲姫命がいる。巫女が子を産むことはあり得ないという考えもあるだろうから説明をしておく。
魏志倭人伝では卑弥呼は、巫女で、独身であったと記されている。台与についての記載はない。台与も巫女としての性格を持っていたことは、娘の倭迹迹日百襲姫命から推測できる。
また、当時の風習として、巫女は独身でなければならなかった、と決まっていたわけでもなかろう。神功皇后の例もある。
倭国香媛が后として子を産むことができたのは、女王となった早い時期に孝霊の権力が強まり、女王としての役割が不要になったと考えることもできる。
倭国香媛は孝霊の妃となり、倭迹迹日百襲姫命を生み、孝霊が267年に38歳で亡くなった時には31歳になっていた。
266年に中国に朝貢したが、倭の女王として使いを送りだしたか、それとも孝霊自身が使いを出したかは中国の記録にはないので不明である。
仮りに、50歳で亡くなったとすると、崩御年は284年となる。

皇女の倭迹迹日百襲姫命は女王にはならなかったが、巫女として、崇神の初期に活躍する。母親の国香媛が18歳になった254年に生まれたと仮定すると、崇神10年、310年頃57歳で亡くなったことになる。この一族の女性は長生きである。

三輪山伝説と箸墓伝説の紀事は、倭迹迹日百襲姫命に仮託したものと考えればよい。
なお、表題から「台与」で通してきたが、「壹与(いち、いちよ)」の名が正しいかもしれない。

日本書記に記載された卑弥呼の候補者、倭国の大井媛

邪馬台国(やまとのくに)が大和にあるとすれば、卑弥呼は必ず記紀のどこかに記載されているはずである。そのような考えで見ると、日本書記に卑弥呼の候補者が記載されている。
孝昭天皇の皇后に、「一に云わく、倭国の豊秋狭太媛の女、大井媛」とある。
孝昭の在位は196年~222年とみているから、卑弥呼の擁立の年代として合ってくる年代である。196年に大井媛が女王として擁立されたとき、台与と同じ13歳だと仮定すると、卑弥呼の死んだとされる247年には64歳である。魏志倭人伝に記載された「年すでに長大」に照らし、妥当な年齢と思われる。

大井媛」という名を見ただけでは、卑弥呼を想像できない。日本書記の編者は、中国に朝貢した卑弥呼のことを書きたくなかったが、分からないならよいだろうと、名も目立たない「大井媛」と記載した。
母親の名は、「倭国の豊秋狭太媛」というから、神武が倭国造(やまとのくにのみやつこ)に任命した珍彦(椎根津彦命)の娘か孫である。「豊秋」も「豊秋津州」を連想させ、倭国(大和の国)を指している。
注1)先代旧事本紀、国造本紀に、「椎根津彦命を大倭国造とする」とある。
「大井媛」は「倭国の豊秋狭太媛」の娘とされているから、倭国造の家に生まれた媛であり、年代、年齢としても、邪馬台国(やまとのくに)の女王に最もふさわしい人物である。

「大井」を考えると、「井」はまちや人の集まる所を意味し、「市井」に繋がる。「市井」は市場の意味である。そこに大がつけば「大市(井)」となる。
崇神十年、卑弥呼を仮託された倭迹迹日百襲姫命の話として、「大市に葬る」と記載される。「大井」とは、「大市」を示唆し、大井媛が卑弥呼であることを暗示する。

さらに時代を神代に遡れば、珍彦(椎根津彦命)の祖先は彦火明命とか、綿積豊玉彦とかに繋がるようであるが定かでない。(「勘注系図」による。)
魏志倭人伝には、伊都国の官を「爾支」と記載する。倭氏の「邇支倍」ではなかろうか。海外との貿易の拠点である伊都国において、出入りを管理する官とすれば、海人族の倭氏がその任に当たる最適の人物といえる。倭氏と「大井媛」が同族とすれば、なおさらである。
また、魏志倭人伝には、朝貢の使者の名「難升米」が記載されている。「大井媛」の時代には、彦火明命から出た一族に天登目命(建斗目命)がいて、魏国への使者である難升米を示唆する。