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2009年10 月13日 (火)

仮説:記紀における雄略天皇崩御年の復元年代を考える

日本書紀の記載年代と復元年代が一致するのは、雄略崩御479年である。
(ただし、雄略以降の記載年代が正しいかどうかは別である。)雄略天皇以前の年代は、徐々に年代が延長されていく。
それに対し、古事記の記載年代と復元年代が一致するのは、神武誕生137年、崇神崩御318年、仁徳崩御427年、履中崩御432年であり、その他の天皇の年代は一致していない。
雄略天皇崩御489年は正しい復元年代とはいえない。10年の狂いがあると見做している。
なぜ古事記の記載年代が、復元年代に一致したり食い違ったりしているのかには理由がある。

古事記の記載年代が、復元年代に一致したり食い違ったりする理由

古事記は、日本書紀と同様に正しい復元年代を「御年や月日や治天下年数」に隠した。また、古事記は実年を基本に書かれた書物であり、年代を延長していないため、正しい年代を記載するのは容易であった。しかし、日本書紀と共通の考え方をもっていた。神功皇后の設定であり、新羅征討に関する記載である。このため、垂仁から応神までの記載年代を記載年代を日本書記の年代と連動させる形で創作した。垂仁から応神まで正しい年代と一致しない理由である。
さらに、反正天皇以降、雄略天皇までの記載年代が復元年代に一致しないのは、恐らく中国への朝貢を書きたくなかったのであろう。これについても日本書記と同じ考え方である。

古事記が、雄略天皇の崩御を10年下った年代に設定したのは、日本書紀の479年に多少の疑問をもっていたのかも知れない。古事記の解読では479年と485年が読み取れるからである。
現在、筆者の解読は雄略天皇までで、顕宗天皇以降は課題としている。従って上記の485年に対する見解は保留したい。その前に、雄略崩御489年について以下に述べることとする。

古事記の編者は、日本書記と同じ年代を表示することを嫌った。日本書記の479年という数字を避けた結果といえる。日本書記の編者に対する対抗意識である。
489という数字が479という数字よりも、吉・凶を比較し、より良い数字であると判断した可能性もある。

シンメトリックの観点から見た489年の意味
筆者は、年代のシンメトリックを重視している。
「表112 古事記の河内王朝と日本書紀の葛城王朝のシンメトリック」を見ていただきたい。
併せて、「表112-1 古事記の記載年代と中国史書における朝貢の比較」を上記表に載せている。

表112 古事記の河内王朝と日本書紀の葛城王朝のシンメトリック

ここでは年代の一部を取り出しているので、「シンメトリック」と言っても、「類似性」や「歴史の繰り返し」を指す。
古事記の記載年代と中国史書の比較は、古事記が朝貢を考慮したことが伺える。また、古事記の489年は、日本書紀の479年を意識したと同時に武の最後の朝貢479年を考慮して10年を加算したのかもしれない。
10年加算すると、日本書記の葛城王朝の復元年代(古事記の葛城王朝の復元年代でもある)と類似した年代構成になり、それは「歴史の繰り返し」を表しているのである

ついでに言えば、489年は古事記編者の創作であり、正しい復元年代と見る必要はない。
上記の仮説は、少し考えれば思いつく常識的な仮説である。
古事記の編者が延長した10年の中には何があったのだろうか。
日本書記は、487年を顕宗天皇の崩御の年とする。古事記は顕宗天皇の治天下(在位)の年数を8年とする。仮に487年が正しい復元年代であるとすれば、そして、古事記には清寧天皇の御年や月日や治天下年数」などの数字の記載はない。古事記の顕宗天皇の在位8年が正しいとすれば、清寧天皇の在位はないことになる。これも仮説であり、これからの検討課題である。

2009年7 月21日 (火)

古事記の崩年干支の読み取り年代に関する一考察(垂仁編)

崇神天皇~仲哀天皇の崩年干支は次のような年代として読み取られている。ここでは干支自体を議論するつもりはないので、年代に置き換える。
崇神崩御年:318年
垂仁崩御年:干支の記載なし→333年
景行崩御年:干支の記載なし→348年
成務崩御年:355年
仲哀崩御年:362年
上記より、垂仁から成務までの合計在位は、37年と計算される。同様に垂仁から仲哀までの合計在位は、44年である。

古事記の崩年干支の欠落の穴を埋める
先ず、垂仁天皇と景行天皇の崩年干支がないため、空白となっている年代の穴を埋めておこう。
垂仁崩御年:333年[318+12+153=333](318は崇神崩御年、12は崇神に記載された12月、153は垂仁の御年)
景行崩御年:348年[318+12+168=348](318は崇神崩御年、12は崇神に記載された12月、168は崇神の御年)
以上より、垂仁の在位15年、景行の在位15年、成務在位7年となり、合計在位は37年で、上記の計算上得られる合計在位と一致する。

新説古事記復元モデル

古事記の分注崩年干支に関する一考察(応神編)において、仲哀天皇の崩御年は18年遡って設定されていると述べた。
とすると、仲哀天皇の崩御年は、362年に18年を加算すれば、380年になる。応神天皇の即位年は、381年が正しい年代である。
成務天皇の崩御年は、仲哀天皇の在位7年が変わらないとすれば、355年に18年を加算した373年となる。
それでは、この18年は、垂仁、景行、成務の在位と年代に対し、どのような影響を与えるか、古事記に記載の数字を用いて解読する。
仮説は、「古事記記載の御年(および月日)を構成する各数字を加算すると、在位が得られる。」である。
崇神在位:御年一百六十八歳、月日十二月→1+6+8+2=17→17年(318年)
垂仁在位:御年一百五十三歳→1+5+13または1+15+3=19→19年(337年)
景行在位:御年一百三十七歳→1+13+7または1+3+17=21→21年(358年)
成務在位:御年九十五歳→9+5=14→14年(372年、崩御後の373年は空位年)
仲哀在位:御年五十二歳、月日六月十一日→5+2=7、または6+1=7→7年(380年)
注1)( )内は復元年代である
垂仁から仲哀までの合計在位は、61年である。他方、319年から380年までは62年の在位であり、上記の仮説から計算された61年とは1年の誤差がある。
日本書記には、成務崩御後に1年の空位が存在する。この1年を活かすと、合計在位は62年となる。
さらに、成務崩御後に1年の空位年は、神武暦851年(37年の23倍)である。4倍暦で計算される年代は、373.75年で373年と見做すことができる。[851/4+161=373.75]
仲哀崩御380年から逆算すると、仲哀即位年は374年となり、その前年の373年が空位年であるとすると、年代として整合性が取れる。仮説は、正しいことになる。
筆者はこの復元年代を「新説古事記復元年モデル」と呼んでいる。

古事記の暗号は用意周到
古事記の御年と月日の暗号は、用意周到である。
記載された崩年干支に合わせて、崩年干支が欠落している垂仁と景行の崩御年を、解読できるようにした。その上で、正しい年代を導き出す各天皇の在位を、別の方法で計算できるように用意した。知りたいと考える二種類の年代あるいは在位を、暗号が教えてくれるのである。

記紀の解読結果が一致する重み
御年と月日の数は極めて少ない。各天皇に一つ、または二つの数字しかない点で、無理のない解読がなされれば、日本書紀以上に正確な年代や在位が読み取れる。また、古事記から得られた数字は、日本書紀の解読に大きな手掛かりを与えてくれる。記紀の解読結果が一致する年代と在位は、今まで以上に重みがあると考えられる。
古事記の編者は、数字を巧みに操って暗号を作り上げている。今から千数百年前の知識人が、数字とにらめっこしている姿を想像するのは楽しいことである。
古事記に記載された御年や月日は、各天皇の在位や年代を示す暗号である。」という主張も理解していただけるであろう。

古事記は、神功皇后の年代への関与を否定

さて、ここで終わったのでは、単に投稿済み、下記添付の「表91-3 古事記の崇神~仁徳の暗号解読結果(垂仁、景行の欠落年代の追加) 」および「表93 記紀による崇神以降の暗号解読結果(新説古事記復元モデル)」に記載されたことを繰り返し述べたにすぎない。
従来の古事記の分注崩年干支から読み取りされた年代とは異なる、新たな復元年代が存在するということである。新たな復元年代の必要性がなければ、暗号も必要がないはずである。
新たな復元年代は、「神功皇后の年代への関与を否定したもの」である。これが古事記から解読された最も重要な結論である。
注2)表の年代が上記文面と一致しない場合は、修正が間に合わないか、あるいは新たな発見により修正したためで、ご容赦を願いたい。

表91-3 古事記の崇神~仁徳の暗号解読結果(垂仁、景行の欠落年代の追加)

表93 記紀による崇神以降の暗号解読結果(新説古事記復元モデル)

2009年6 月26日 (金)

古事記の崇神天皇に記載の「十二月」の意味(Ⅱ)

投稿済みの同名記事(Ⅰ)において「十二月」は「+2年(2年を加えなさい)」の意味であると述べた。「十二月」の意味はそれだけではない。さらに重要なことが「十二月」に秘められているので、引き続き述べる。

古事記では崇神崩御年が干支で示された最初の天皇であり、その干支によって西暦318年を知ることになる。では古事記の編者は、何を根拠にその年代を特定したのであろうか。古事記の編者にしても何も根拠のない年代を適当に決めたわけではないだろう。多分このあたりの年代だろうと推定して年代を決めようとしたのは当然である。実際に、編者が年代を決めるために行った方法について述べる。

崇神は、神武から逃れられない
日本書紀は、神武から始まる年代は四倍暦(厳密には、2×二倍暦)で書かれている。そして始馭天下之天皇である神武の特性が神武~開化の年代の選定に反映されている。二人目の御肇國天皇である崇神天皇において初めて神武とは関わりのない記述になるはずと思われる。しかしそのようには成り切れず、崇神においても神武から逃れられないことがあった。それが崇神の年代である。

崇神崩御318年の根拠

神武は39歳で崩御した。編者にとって、「39年」は重要な数字であった。39年を四倍(暦)にした156年を崇神の年代にしたのである。実際には神武即位162年に156年を加えた318年を崇神の崩御年に選定したのである。言い換えれば、神武即位162年を基準として、崇神崩御を156年(「39の4倍」)後の318年とした。。[162+39×4=318

では、古事記の「十二月」はどのような関係にあるかであるが、古事記の崇神の御年は168歳であり、その数字の後に12月が記載されている。168と12は本来一つの数字であり、168から12を引かなければならない。答は156[168-12=156]となり、上記に説明した156年である。即ち、「十二月」は「-12年(12年を引きなさい)」の意味である。
繰り返しになるが、崇神の崩御の年代は、[神武即位年162+崇神御年168-「月日」12=318年]で示される。

学者の中に、崇神崩御の年代に干支258年や318年以外とする見解が見られるが、編者がなぜその年代を選定したか、説明が全くない。編者は、318年以外の年代は想定していないのであるから、説明できるはずがない。
勘ぐれば、倭迹迹日百襲姫命を卑弥呼か壹与にしたいためである。倭迹迹日百襲姫命は卑弥呼が仮託されているのが分らないのだ。卑弥呼と壹与は別にいる。
筆者の「卑弥呼と壹与」に関する記事を読んでいただきたい。

崩年干支が記載されない垂仁と景行の復元年代
次に、三つ目の「十二月」の意味を述べる。
古事記の崇神の御年は168歳であり、その数字の後に12月が記載されている。
「十二月」とは、「+12(12を加えなさい)」の意味である。何に12を加えるのかというと、御年の168である。そうすると180が得られる。
180という数字も重要な数字である。元々180という数字は日本書紀のニニギ降臨の暗号「179万2470余年」を解読すると得られる840に由来する。神武暦紀元前840年はニニギ暦(西暦)180年であり、この180年と共通の180年である。開化までの年代の復元において、基準年として137年が用いられたが、同様に基準年として180年が用いられたとしても不思議ではないのである。
古事記においては、崇神には崩年干支があり、年代が読める。しかし、垂仁と景行には崩年干支が記載されていないため年代が不明である。これらの年代は、崇神の崩年318年と成務の崩年355年の間にあることが分かるだけである。
解読は次のようにすればよい。
①崇神の御年は168歳(年)であり、180年(168+12=180)を加えると348年となる。348年が景行の崩御年である。
②垂仁の御年は153年であり、180年を加えると333年となる。333年が垂仁の崩御年である。
①②の年代を古事記の崩年干支の読み取り年代の空白に加えると、垂仁在位は15年、景行在位15年が得られる。

上記の復元年代は、崩年干支が空白の垂仁と景行の復元年代である。編者は用意周到である。そのような要求に応えるために、編者は、「遊び心」を持って、予め用意した。
しかし、崩年干支から読み取った年代は破綻を来している。上記の結果も同様の運命にある。
古事記の正しい復元年代は、「表93  記紀による崇神以降の暗号解読結果(新説古事記復元モデル)」を参照いただきたい。

表93 記紀による崇神以降の暗号解読結果

古事記の崇神天皇に記載の「十二月」の意味(Ⅰ)

崇神の崩御に関して、古事記では戊寅の年の「十二月」と記されている。日本書記では六十八年の冬十二月の戊申の朔壬子(五日)とある。
年が食い違っていることは、ここでは問題としない。月日の食い違いである。古事記は十二月とし、日本書紀は十二月五日とする点である。

日本書紀の崇神崩御の「十二月五日」の意味
まず、日本書紀の崇神崩御の「十二月五日」の意味を述べておく。
日本書紀の崇神崩御の「十二月五日」が正しい月日であるはずがない。年代ですら疑問なのに、まして月日など分からないのであり、編者の創作である。「十二月五日」は、「月日の暗号」であり、崇神の在位17年[12+5=17]を意味する。

古事記の崇神に記載された「十二月」を解読する
本題の古事記の「十二月」について述べる。
学者は、単純に古事記が月までしか書かなかった、というかも知れない。古事記を出鱈目という方々は、日本書紀を写しただけ、というだろう。いい加減にしろといいたいが、筆者にも分からないことがあるので遠慮しておこう。
古事記が「十二月」としか書かなかった理由はもっと別のところにあるはず。敢えて、古事記の編者が「十二月」と記載したのは、古事記の編者が日本書紀の内容を知っていて、何らかの意味を「十二月」に付与したと考える。以下に解読結果を紹介する。

「十二月」は、「プラス2年(2年加算しなさい)」の意味
古事記の解読に関しては、「表91-2 古事記の137年(162年)を基準とした年代解読(神武~崇神)」において述べており、開化の崩御年を次のように計算する。
開化崩御301年[(137+163-1)+2=301]
上記計算式の、137年は神武の御年137歳から解読された年代である。
163年は、開化の御年63歳に100年を加算した163年である。筆者は「百増」と呼ぶが、年代を100年以上を補正する場合の編者のルールである。孝元においてもこのルールが用いられている。
計算式の最後の2年の加算が、「十二月」から導き出された「プラス2年(2年加算しなさい)」である。

2年の加算の理由について
筆者は当初から(旧ブログにおいて)、日本書紀における開化と崇神の年代は在位との関係において、年代が不足していると述べてきた。その後、年代の食い違いは、2年とした。従って、不足している2年分を補正しなさいという意味でとらえてきた。
しかし、さらに解読が進み、日本書記の復元年代は、開化301年が得られるようになった。
年代の不足は生じていない状態になった。
2年不足していたと考えていたときは、その不足を補うためと説明ができた。現状ではその理由もなくなり、2年加算の根拠は分らなくなってしまった。

開化の宝算の数字はバラバラである
古事記の開化の御年は63歳(宝算114歳)であり、日本書紀の60歳(宝算111歳)に比して3歳大きい。一云には宝算115歳の例が記載されている。仮に2年不足しているのであれば、開化の御年を63歳に固守せずに、65歳にしさえすれば、何も問題はなくなるはずである。63歳にそれほどの根拠があると思えないからである。
ただし、古事記の解読からは、「御年は年齢ではない」としている。暗号であるとすれば、開化崩御年は、「御年63歳」と「十二月」の組み合わせとして設定された、と考えられる。

つづく

2009年6 月16日 (火)

古事記の御年(みとし)の暗号とは何か

古事記の御年(みとし)の暗号とは何か
古事記を読むと、各天皇の記事の末尾に御年が記載されている。
神武の例では次のようになっている。
「神倭伊波礼毘古天皇の御年(みとし)、一百三十七歳。御陵(みはか)は畝火山の北の方の白檮の尾の上にあり。」
誰でも、御年を崩御の年齢と考えるであろう。
実は、御年で示された数字は年齢ではなく、年代と解釈しなければならない。神武の場合は、ニニギ暦(西暦)137年に神武が誕生したという意味になる。

上記のような驚くべき解釈は、古事記単独では読めるはずがない。そのように解読できるのは、日本書紀の紀年と併せて捉えた時に初めて可能になるのである。
ここでは、古事記の紀年に関して述べる。
日本書紀の復元年代に関しては、「日本書紀の紀年論と復元年代の紀元」において述べたが、御年137歳(年)は、神武誕生年で一致する。
137年から137年遡った元年は、日本書紀でいうニニギ暦元年に当たる。
神武の御年だけなら、偶然の一致と思われても仕方がない。しかし、各天皇の御年も年代に関わる数字なのである。

前置きはこの辺でやめにして、古事記の復元年代の算出方法を紹介する。
復元年代の算出においては、神武の御年137歳は重要な基準年となる。
綏靖から開化までの各天皇に御年が記載されている。復元年代は基本的には次の式で表される。

復元年代(崩御の年代)=137年+御年-1年

綏靖の場合は、御年45歳であるから、181年が崩御の年になる。[137+45-1=181]
安寧の場合は、御年45歳であるから、185年が崩御の年となる。[137+49-1=185]
1年を引くのは、年令と年令を足すと1年多くなるという考えからである。
日本書紀の記述から得られた復元後の数字を借用した例を示す。
神武の即位は、26歳であるから、162年となる。[137+26-1=162]

素直に読めるのはここまでであるが、基準年は137年→162年→362年→500年と変わっていく。また、御年だけでなく、月日の数字、治天下年数が加わり、神武から推古までのすべての天皇の年代が解読される。解読された年代は、ほぼ日本書紀の復元年代と一致する。

古事記には年代などに関する数字は極めて少ない。従って、復元年代が隠されているとは考えない。しかし、記載されたわずかな数字には、とんでもない、しかし、すばらしい「からくり」があった。
特に、卑弥呼と壹与の年代が隠されていたのは驚きである。
古事記の御年(みとし)が示す紀年論と復元年代」を見ていただきたい。

2009年6 月14日 (日)

古事記の年代復元に用いる基準年「500年」の根拠

「古事記の復元年代の算出方法(まとめ)」において、復元年代を計算するのに「500年」という数字が基準年の役割を果たしていると述べた。
基本となる計算式は次のとおりである。
復元年代=基準年+(「御年」、「月日」、「治天下年数」の組み合わせ)-1
基準年は、大凡、次の区分ごとに一定の数字が決められている。
  神武~開化:137年(神武誕生年、神武御年137歳)
  崇神~応神:162年(神武即位年)
  仁徳~仁賢:362年(仲哀崩御年=応神誕生年、仲哀崩年干支からの読み取り)
  武烈~推古:500年
500年以外の基準年の年数は、明確な根拠を持っている。162年は古事記には直接表れない数字であるが、神武誕生年から容易に推測できる。
では、500年とは一体何を根拠としたのであろうか。

「500年」の根拠
日本書紀の最後の記載年代は697年即ち神武暦1357年である。
神武から仁徳までの年数、在位は4倍暦であるとしてきたが、上記の1357年を4倍暦で読むと、339年となる。神武即位元年を復元年代162年に置き換えれば、日本書紀の最後の年の4倍暦の年代は500年となる(厳密には、500.25年である)。
推測すると、日本書紀の編者は延長された歴史を創作する過程で、500年という数字を知っていた。しかし、日本書紀においては、表面上利用できる数字ではない。
古事記の編者も500年の意味を知っていた。そして、上記のとおり復元年代の計算式の基準年として活かした。
日本書記の編者も500年を検討した。その名残が、継体元年の月日に表れている。
継体元年の月日は9件の記事に記載されている。数字を合計すると100年と読める。100以外に読むことも可能だから、正確性を欠いている。さらに読み込むと、5とか12が読み取れ、500年と(1200年)を基準年と見做した。ただし、継体元年が西暦500年を意味するとは考えていない。

古事記と日本書紀の強い関係
古事記には、500年を示唆するものは見られない。
推測として、古事記の500年の根拠を述べたが、基準年とするからには、上記のような重みのある数字が必要だったのであろう。しかし、その根拠となったのは、日本書紀の数字である。
古事記が正しいと考える復元年代を伝えるために、重要な基準年に日本書紀の数字を用いたということは、日本書紀と極め強い関係があることを示している。

2009年6 月10日 (水)

古事記の暗号解読と復元年代(まとめ)

古事記の崩年干支は、既に学者によって年代が示され、通説とされているが、御年しか記載されていない天皇の在位や年代については不明であった。スタートは年代が不明な個所を明らかにするつもりであった。しかし、崩年干支の示された天皇も含めて全く新しい復元年代が得られたので紹介する。
古事記に記載された「御年」、「月日」や「治天下年数」はすべて暗号である。復元年代は、これらの暗号解読に基づくものである。
復元年代の算出方法は、投稿済みの「古事記復元年代の算出方法」を参照していただきたい。

神武から崇神まで、神武の御年である「137」を基準に用い、各天皇の御年をいろいろと組み合わせた数字を加算している。それで復元年代が解読できるとは、誰も思わないであろう。そもそも古事記の僅かなデータから復元年代を読み取ろうとした人間はいない。日本書紀の解読すら出来ていない現状からすれば、当然である。古事記の御年を暗号と考え、解読方法が分かってみれば、極めて素直な暗号である。
「表91-2 古事記の137年を基準とした年代解読(神武~開化)」を添付する。

表91-2 古事記の137年を基準とした年代解読

古事記の暗号を信じる気になられたであろうか?
古事記の御年が暗号であることと解読結果が日本書紀と一致することを見ていただいたが、信じる、信じないはご自由である。
綏靖天皇、安寧天皇は基準年137年に御年の数字そのものを加算したものである。また、孝元天皇、開化天皇は、基準年137年に「御年の数字に百を加えた値」を加算しただけである。神武天皇から崇神天皇までの古事記の解読結果は日本書記の復元年代とすべて一致する。暗号として腑に落ちないと思われるのは懿徳天皇であるが、それでも日本書記の解読結果と一致している。
特に、孝安天皇の暗号は、孝安崩御と孝霊即位の年代を組み合わせた素晴らしい暗号である。併せて、卑弥呼の年代を想起させてくれる。筆者は、この暗号を作成した古事記の編者に敬意を表したい。
あなたは、古事記の暗号を信じる気になられたであろうか?

崇神天皇以降の古事記の暗号は一層複雑化する
神武天皇から開化天皇までの御年が暗号であることを信じられない方には、恐らく、崇神天皇以降推古天皇までの古事記の暗号を理解できないであろう。「各天皇の御年」に、「月日」と「治天下年数」が加わり、暗号は一層複雑になるからである。

古事記には、崇神以降、崩年干支が記載され、年代が読みとれる。しかし、その崩年干支から読み取った年代は、中国史書に残された年代と一致しない。上記の神武天皇から開化天皇までのように、暗号解読によって部分的にも復元年代が明らかにされたことは、当然崩年干支などが記載された年代、即ち崇神天皇以降においても、正しい年代が隠されていると考えられる。その信念に基づいて、崇神以降、推古までを解読した。まだ、解読結果に疑問の残る個所もあるが、「現段階における解読結果と復元年代」、ということで見ていただきたい。ちなみに、日本書紀の復元年代とほぼ一致する。
「表93 記紀による崇神以降の暗号解読結果(新説古事記復元モデル)
なお、表の題名を「記紀による・・・」としたのは、古事記だけでは読み切れない個所があるためである。

表93 記紀による崇神以降の暗号解読結果(新説古事記復元モデル)

参考として、垂仁、景行の欠落している年代について、穴を埋めておいた。次の「表91-3 古事記の崇神~仁徳の暗号解読結果(垂仁、景行の欠落年代の追加)」を見ていただきたい。ただし、この表に示した「垂仁、景行の欠落年代」は、崩年干支で読みとられた年代と一連の年代であり、最終的な正しい復元年代ではない。

表91-3 古事記の崇神~仁徳の暗号解読結果(垂仁、景行の欠落年代の追加)

追記(1009/10/25)
上記の説明で「記紀による・・・」としたのは、古事記だけでは読み切れない個所があるため、とした。
「表91-2 古事記の137年を基準とした年代解読(神武~開化)」(1009/10/25改訂)においても、備考欄の説明を読んでもらえば分ると思うが、古事記の解読には日本書記の情報が必要である。

御年の数字は、日本書紀の解読の中に表れる
例えば、孝昭の93歳は、神武一族(神武~懿徳)に関する最終的な年代を、神武の年次を延長させたときに得られる神武93年次である。「表12-1 神武~崇神復元年代の詳細」を参照。
御年の数字は、日本書紀の解読の中に表れる。
例えば、孝昭の93歳は、神武一族(神武~懿徳)に関する最終的な年代が、神武の年次を延長させたときに得られる神武93年次である。「表12-1 神武~崇神復元年代の詳細」を参照。
懿徳の計算に59を用いたが、その根拠の一つは、神武93年次における神武の実年齢は59歳である。
二つ目は、日本書紀の解読から、神武~懿徳の合計在位は34年と分っているから、93から34を引けば、59が得られる。[93-34=59]

合計在位の計算(筆者の悪戯)
開化崩御の計算式[(137+163-1)+2=301]から、「163-1=162」を基準年162と見做すと、残りの数字を用い在位計算をする。[137+2+1=140]140年は神武即位162年から開化崩御までの合計在位である。
崇神においても、上記と同様の計算ができる。[162+168-12=318]から、基準年162を除いた残りの数字を用い在位計算する。「(168-12)+1=157」157年は神武即位162年から崇神崩御までの合計在位である。
いずれも数字のからくりであり、筆者の悪戯である。重要なのは、読み取りの数字を用いた元の計算式である。

孝霊の御年106歳
孝霊に記載された106歳は何を意味するか考えていたところ、日本書記の解読により、孝昭から開化までの合計在位であることが分った。
孝昭即位196年と106年を用いて在位計算を行うと、301年になる。[196+106-1=301]
106年には、孝霊崩御で用いた意味とは別の意味があったことになる。

孝安の御年123歳
懿徳の説明で述べたとおり、孝昭の93歳は、孝昭の崩御年の計算には使えない数字であり、孝昭の崩御年の計算には、孝安の123歳を用いるしか手がない。今のところ、123という数字は日本書記の解読では得られていない。123が孝安崩御年と孝霊即位年の両方を示すことから、古事記の編者が創作した数字と考える。

崇神の御年168歳と十二月
崇神以降の天皇にあっては、御年を構成している個々の数字と月日を加算すると在位になる。
例えば、崇神在位は、御年168歳、十二月(12ではなく、プラス2)から、17年が得られる。[1+6+8+2=17]、また御年168歳は日本書記の68年次に百増した数字であり、168から直接年代は得られない。崩御の年代は、御年168歳と十二月(12)から318年が得られる。[162+168-12=318]
また、神武~崇神の合計在位157年が得られるが、前に述べている。[168-12+1=157]

なお、解読の根拠として上記の計算を示しているが、(筆者の悪戯を除いて)筆者が勝手に作り出したことではなく、古事記の編者が創作したことを解説しているに過ぎない。勘違いしないでいただきたい。

古事記の記載モデルと復元モデルの比較
年代や在位が記載されている崇神天皇以降について、復元年代や在位を比較したので、「表3-1 古事記の記載モデルと復元モデルの比較」を見ていただきたい。

表3-1 古事記の記載モデルと復元モデルの比較

表は、垂仁天皇以降の年代および在位の変化を明らかにしている。年代や在位が規則的に上下あるいは増減がなされていることが分る。変化の数字でみれば、9年と9の倍数18年がキーとなっている。

古事記の「神武御年137歳」は、神武の誕生年を指す

ある学者の記事に、古事記には日本書紀に記載された「1792470余歳」という文言がない、という。また、日本書紀の「1792470余歳」については、天孫降臨から、はるかはるかに、後の時代になったという意味で、「白髪三千丈」と同じ世界だという。

そのような意味なら、古事記がわざわざ「1792470余歳」を書かなかったとしても構わないと思うのだが。

さて、なぜ古事記に「1792470余歳」という文言が記載されなかったのか考えてみる。

①古事記と日本書紀の編者は同じ文言で表現することを嫌った。人名を見ればわかることである。従って、日本書紀に記載された「1792470余歳」という文言をそのまま用いることはしなかった。

②筆者は、「1792470余歳」を「ニニギ降臨の暗号」と呼ぶ。正しい年代を知るための幾つかの重要なキーワードが隠されている。その一つが、神武即位年がニニギ暦(西暦と同じ、以下西暦で示す)162年であることを暗示するのである。

日本書紀の編者は暗号を通して正しい年代を示そうとしたが、古事記の編者も同じである。しかし、古事記の編者は「1792470余歳」とは異なる表現で正しい年代を示した。それが、「御年137」である。

③神武の「御年137歳」は、普通に読めば、137歳で亡くなったと解釈する。しかし、暗号としてみると次のように読み取れる。

137歳は137年と同じ意味である。結論を言うなら、137年は神武が誕生した年である。シンメトリックを考えてみると、誕生年より前の時代が映し出せるが、誕生年より137年前には何があるのだろうか。

実は、137年先には、分り易く言えば西暦元年がある。(筆者はニニギ元年と呼ぶが、それは西暦元年である)

神武は西暦元年から137年目、即ち西暦137年に生まれた。151年には15歳になり太子となる。太子となった神武は、東征に出発する。そして、東征に成功し、162年に26歳で即位する。

④従って、古事記は、日本書紀の「1792470余歳」という仰々しい文言に替えて、「御年137歳」を、神武誕生年を伝える暗号として記載したのである。

古事記の復元年代の算出方法(まとめ)

古事記の「御年」、「月日」、「治天下年数」はすべて暗号であり、復元年代はこれらの数字を用いて一定の計算式によって得られる。
基本となる計算式は次のとおりである。

『復元年代=基準年+(「御年」、「月日」、「治天下年数」の組み合わせ)-1』

1.基準年は、次の区分ごとに一定の数字が決められている。
神武~開化:137年(神武誕生年)
崇神~応神:162年(神武即位年)
仁徳~仁賢:362年(仲哀崩御年=応神誕生年)
武烈~推古:500年(継体の月日の合計値)
注1)筆者は、計算上180年を用いる場合があるが、180年は162年に12年(崇神の月日、12月)を加算した数字であり、簡略化して用いている。
注2)基準年と復元年代が大きな差がある場合、「百増、百減」の考え方に従い100年を加算する。
注3)復元年代を得るポイントは、「御年」、「月日」、「治天下年数」の組み合わせ(加算)により、小さい数字から順次大きい数字に並べ替えることにある。
従って、御年などの数字が当該天皇以外に用いられる場合がある。

2.上記の計算式では年代が読めない天皇(垂仁、景行、その他)がいるが、在位を次のように読み取ることができるので、読み取った在位より復元年代を計算する。
『復元在位=「御年」の数字を個々の数字に分解し、各数字を加算する』
 ただし、「月日」が用いられる場合がある。

3.日本書記において、応神は特別の存在か、解読方法が異なる。神功皇后の記事の中に応神の誕生年363年を潜ませ、応神の崩御の年齢41歳を在位41年とした。応神崩御の年代は403年になる。
古事記においては、神功摂政の在位を示さず、上記の解読を助ける。なお、応神の復元年代は、上記1に述べた基準年と古事記の記載数字から得られる。

古事記の崩年干支から読み取った年代(通説)は、正しい年代ではない。なぜ見せかけの年代を表示したのかについては、神功皇后に関わると考えられる。
解読された年代が正しい復元年代であることを証明するには、古事記だけでは無理である。そのことは、日本書紀の場合も同様で、日本書記の解読で得られた年代を日本書記のみで正しいとすることにも無理がある。古事記と日本書記の解読結果を見比べながら正しい年代を判断しなければならない。

古事記には暗号が存在し、正しい年代が隠されている。」と「古事記と日本書記の復元年代は基本的に一致する」という見解は、筆者の知識の範囲ではどこにもなかったと思っている。まして、古事記から正しい復元年代を解読したということもなかったと考える。その意味で、古事記の復元年代は、上記に述べたとおり、日本書紀の復元年代の正しさを証明する新たな根拠が得られたことになる。

古事記の復元年代は100%読み切れたわけではない。天皇によっては、複数の暗号が同居しているようなので、これからも継続し、より正しい年代を明らかにしていくつもりである。

2009年6 月 7日 (日)

記紀(日本書紀と古事記)の最新の復元年代

記紀の復元年代は、新しい解読結果を順次積み上げてきた。
このブログにおいても、当初の復元年代に比べれば随分変わってきている。
ブログを読まれる方のために、最新の復元年代を知ってもらいたく、纏めてみた。
添付する「表3 記紀の復元モデルの比較」を見ていただきたい。変更があれば修正を加え、最新の情報としていく。

表3 記紀の復元モデルの比較

記紀の復元年代は基本的に一致している
日本書記の最新の復元は「修正日本書紀モデル」となっている。また、古事記モデルは「新説古事記復元モデル」に発展している。
修正日本書紀モデル」と「新説古事記復元モデル」とは、ほぼ同じ復元年代が得られている。
現在、古事記の復元年代「新説古事記復元モデル」が得られたことと、古事記の復元年代と日本書記の復元年代が基本的に一致したことにより、復元年代が正しいと自信を持つに至った。

崇神、仁徳、履中の3天皇の復元年代は、分注崩年干支の年代と一致
筆者が敢えては古事記の復元年代を「新説古事記復元モデル」と呼んでいるのは、日本書紀の復元年代と古事記の復元年代の間でほんの一部であるが(神武~雄略間で孝元崩御年と成務崩御年の2ヶ所)、年代が異なっているためである。
古事記には分注崩年干支の読み取り年代(通説)が存在するが、中国へ朝貢した年代と食い違いがあるため、疑問視されていた。しかし、それに替わる復元年代が明らかにされていない。筆者の記紀の復元年代はそれに代わるものである。なお、崇神、仁徳、履中の3天皇の復元年代は、分注崩年干支の年代と一致している。

古事記は、日本書紀の解読書(あるいは参考書)である

古事記が100年後にできたとすると、記紀の間に極めて類似した復元年代が得られていることを説明できない。古事記と日本書紀の復元年代の類似した関係を無視して、古事記の編纂過程を議論することには賛成できない。
また、筆者は「古事記は、日本書紀の解読書あるいは日本書記の講義に用いられた参考書である」との見解を持っている。実際に、古事記で得られた情報から日本書紀の復元年代が得られたことは事実であり、実感である。

特に、孝安崩御248年、孝霊即位249年は古事記による解読がなければ、女王卑弥呼・壹与にたどり着くことはなかった。同様に、応神即位381年、反正崩御439年も古事記から得られた情報に基づく成果である。

以下に最新の復元年代(2009/10/03現在)を示す。「表3 記紀の復元モデルの比較」と基本的に同じ内容である。修正が遅れた場合はご容赦を!

ニニギ降臨:ニニギ暦1年(西暦1年)(神武暦661年)
神武誕生:137年、1歳(古事記神武御年137歳より137年
神武立太子:151年、15歳
神武東征 : 155年、19歳
神武即位年:162年、26歳(ニニギ降臨の暗号「179万2470余歳」より、神武暦822年
神武崩御年:175年、在位14年
綏靖崩御年:181年、空位1年+在位5年
安寧崩御年:185年、在位4年
懿徳崩御年:195年、在位10年
孝昭即位年:196年、(女王卑弥呼擁立
孝昭崩御年:222年、在位27年
孝安崩御年:248年、在位26年(卑弥呼崩御)(古事記孝安御年123歳より)
孝霊即位年:249年、(女王台与擁立
孝霊崩御年:267年、在位19年
孝元崩御年:293年、在位26年
開化崩御年:301年、在位8年
崇神即位年:302年
崇神崩御年:318年、在位17年(崩御年は古事記の分注崩年干支に一致)
垂仁崩御年:337年、在位19年
景行崩御年:358年、在位21年
成務崩御年:371年、在位12+1年(古事記373年、在位15年
仲哀崩御年:380年、在位9年(古事記380年、在位7年
神功皇后:在位なし
応神即位年:381年
応神崩御年:403年、在位23年
応神崩御の空位年:404年
仁徳崩御年:427年、在位23年(崩御年は古事記の分注崩年干支に一致)
履中崩御年:432年、在位5年(崩御年は古事記の分注崩年干支に一致)
反正崩御年:439年、在位7年
允恭崩御年:459年、在位20年
安康崩御年:462年、在位3年
雄略崩御年:479年、在位17年
以下略

在位合計(空位を含む)
神武即位から開化崩御までの在位合計:140年
神武即位から崇神崩御までの在位合計:157年
神武即位から仲哀崩御までの在位合計:219年
神武即位から仁徳崩御までの在位合計:266年

注1)年代は、ニニギ暦(西暦)
注2)記紀の神武~雄略間で復元年代が一致しないのは、成務崩御年(仲哀の在位が関係)のみである。